プロローグ〜第一章 新任の保健婦 ①音のない教室
余古波麻には、世渡の入口があるという。
だから、そこに行くように言われた時、サキは何か運命のような気さえ、した。
しかし、丘の上、鬱蒼とした森に囲まれたそこは、何も聞こえない世界だった。
音が聞こえた時、それは終わりのはじまり。
森の奥からの呼び声。
プロローグ
かさ…カサ…かさ…。
足元で、音がする。
それは、幾重にも重なった、枯葉のたてる音。
歩いている足に絡まり、引きずり込もうとする音、
「あぁ…。」
半ば絶望にも似たその感覚に、声を上げて、空を仰ぐ。
その空には月。
伸びた枝がヒビのように、その月を四方から貫いている。
カサ、カサ、カサ…。
それでも足を止めることはない。奥へ、奥へと、進めていく。
呼ばれているから。
「こっちに、おいで。」と。
どんどん、足が重たくなる。
どんどん、枯葉は深くなる。
かさ、かさ、かさ…。
いつしか、足は枯葉にとられて、進めることが出来なくなる。
そして、カラダごと、枯葉にに沈んでいく。
カサ、かさ、カサ…。
もう歩いていない、枯葉を踏んではいないのに、その音は消えることがなく、聞こえてくる。
温かい。
眠い。
ああ、このまま、眠ってしまおう。
そう思った時。
見えたのは。
ヒビの入っていない、丸い月。
第一章 新任の保健婦
①音のない教室
「この森は奥が深く、うかうか入って、迷っても、探しに行くことは出来ません。
くれぐれも、それだけは、気をつけてくださいね。」
正門まで出迎えてくれた、Aと名乗る女性が、道の両側に広がる、鬱蒼とした森を目で指し示しながら、淡々とそう言った。
「わかりました。気をつけてます。」
正門を抜けて、学園の建物までは、一本道なので、迷うことはないと思うのだが、わざわざ、注意されるということは、何かあるのかもしれない。
用心深いサキは、そう思って、お行儀良く、答えた。
出会ってから、ほとんど表情を動かすことのなかった、Aがその時だけは、少し、眉を動かして、微笑んだように見えた。
「学園長。
サキさんをお連れしました。」
「お入りなさい。開いています。」
重たそうな木の扉の前で、Aがそう声をかけると、中から、年輩の女性と思われる、太い声が返ってきた。
Aは扉を押すと、重たい扉はやっと人が1人通ることが出来るくらいに開いた。
「どうぞ、中に。」
Aは自分は入らず、サキだけを部屋に入れると、今度は扉を引いて、閉めてしまった。
ガタン、という、扉が閉まる音に驚いて、思わず後ろを見るが、すぐに前を向いて、学園長の顔を確かめるより早く、頭を下げた。
「サキ、と申します。
この度は、お仕事をいただき、ありがとう存じます。
未熟者ではございますが、精一杯、お勤めさせていただきます。」
郷を出る時に、教わった通りの言葉を言い、返事が返ってくるまで、頭を上げずにいた。
「さすがに、公爵家の血筋、礼儀作法には問題無さそうですね。」
その言葉に、弾かれて、思わず頭を上げそうになったが、なんとか、堪えることが出来た。
(何故、それを…?)
誰も知らないはずの、サキの出自を、事も無げに言われ、動揺を隠せない。
「頭をお上げなさい。
こちらに、顔を向けて。」
そう言われて、初めて頭を上げ、学園長の顔を、初めて見た。
しっかりとした骨格の、エラの張った顔に、はっきりとした太い眉、鼻筋の通った鷲鼻。
(この顔立ちは…。)
その気持ちが、顔に出ていたのかもしれない。
「お分かりのようですね。
そう、私も、アナタと同じ、公爵家の血を引いています。」
そう言って、それまでの雰囲気とはまったく違う笑顔で、にっこりと笑いかけてきた。
「学園長先生…。」
「私のことは、F、とお呼びなさい。アナタにはそれを許します。」
Aがいた時とは明らかに声までが違う。
「F様。」
「そう、それで、よろしい。
帝都の東から、ここまでの旅、ご苦労でした。
今日はもう、部屋に行き、休むといいでしょう。
Aに案内させます。
詳しい話は明日、またここでお話しします。」
「はい。かしこまりました。」
「但し、明日、正式に紹介するまでは、生徒に会っても、目を合わせることのないように。
それだけは、気をつけてください。」
最後の言葉だけが強く響いて、サキもそれには「はい」と、重々しく答えた。
「サキ様のお部屋は、本館の東、光の塔になります。」
先ほどまで、サキさん、と呼んでいた、Aが園長室を出た時から、サキ様、と呼び方が変わっていた。
何かあるのだろうかと、思ったが、それを尋ねることはしなかった。
多分、ここでは、聞かれたことに答える以上の発言は、やめた方が良さそうだと、少なくとも、明日、正式に下知が下りるまでは、その方がいいと、直感的に思っていた。
(それにしても…。)
本館、と言われた建物の廊下を東に向かって歩きながら、感じたことは、過ぎた静寂。
ここに来る前に聞いた話では、百人ほどの子どもたちが暮らして、学んでいるとの話だったが、それを思わせるような音が、一切、聞こえてこない。
(昼間だというのに、静か過ぎる。)
子どもたちは、今どこかに集められているのだろうか?
ここには、いないのでは?
「ここから。」
急にAに声をかけられて、驚いて、顔を上げる。
「はい。」
「教室の横を通ります。授業中なので、くれぐれも、中を覗き込んだり、なさらないようにお願いいたします。」
そう言われて、また驚き、「はい」と答える。
Aにならって、足音もたてずに、教室の横の廊下を進む。
しかし、授業中、と言われたそこに、人の気配はするものの、音が、しなかった。コトリとも。
廊下を進むにつれて、教師の声が聞こえてくる。
どうやら、国語の授業のようだ。その内容からすると、小学生、しかも、低学年のようなのだが。
ここに来る前に接してきた子どもたちはみな、賑やかだった。
低学年の子たちは、じっと、座っていることさえ難しく、いつも何かしらの音を立てていた。
クスクス、ザワザワ、ごそごそ、と。
しかし、今、自分の左側、何人、いるのかはわからないが、とにかく、何の音も聞こえてこない。その様子には、肌が粟立つ気がした。
(ここにいる子どもたちは、いったい…?)
しかし、その疑問を口にすることが許されないこと、それもまた、肌で感じていた。
ここは、この学園は、そういうところなのだ。
「この階段の上です。」
Aがそう言って、塔の入口の鍵を開ける。
中は意外にも広く、螺旋階段が上に続いていた。
そこを一つ目の踊り場まで上がると、扉があった。
「こちらになりますので、鍵をご自分で。」
そう言って、目の前に十本ほどの鍵が差し出される。
この中から選んで、自分が鍵を開けると、それがそのまま、この部屋の鍵になるのだろう。
そういう仕組みは、前に一度、短い間、住み込んだお屋敷でもそうだったので、驚きはしなかった。
サキは、鍵束の中から、不思議に光って見えた一本を選んで手に取った。
その瞬間、気のせいだろうか、Aが息を飲んだように思えたが、それにも、また、気が付かない振りをして、踵に返すと、扉に鍵を差し込み、扉を開いた。
中に入って、驚いたのは、思っていた以上、というよりも、信じられないほどの明るさ、だった。
三面が大きな窓になっていて、重たいカーテンが付けられていたが、今はそれらが全て開けられているので、少し歪んだガラス窓から、日の光が、差し込んでいた。
「そちらの扉の奥が、水屋です。お風呂場、御手水場。あと、焜炉もありますから、お湯を沸かすことも出来ますが、くれぐれも、火の始末だけは、よろしくお願いします。」
部屋をひと回りしながら、その使い方を、ひと通り教えられ、ひとつひとつに、はい、と頷いていく。
壁面に造りつけられた大きな洋箪笥の中にほ、これもまた、信じられないほどの洋服がかけられていて。
「こちらは全て、サキ様のために誂えてありますので、お好きなように、お召しになってください。
それと、こちらが制服です。お召しになり方は?お分かりですよね?」
紺色の、襟の詰まった丈の長いドレスと、白のエプロンとヘアキャップ。どれも馴染みの、お仕着せだった。
「はい。大丈夫です。お気遣いありがとうございます。」
そう答えて、軽く頭を下げた。
Aがすべての案内を終えて、部屋を出て行くと、やっと息をして良い、そんな気持ちになって、窓の向こうを眺める余裕が出てきた。
ここに来る時に見えた小高い丘、今はその上にいるので、窓の外には、鬱蒼と広がる、森しか見えなかった。
窓を開けてはいけないとは言われなかったので、少しだけ、押し上げ、開けてみると…。
バサバサッと、鳥の羽ばたく音がして、何かは分からないが、白い鳥が飛んで行った。
あぁ…と、何故か、ホッとしたのは、ここに来て、初めて聞く、音、だったからかもしれない。
そう、ここは静か過ぎるのだ。
不自然なほどに、音が聞こえない。
何よりも、さっき通った教室。
あの静けさには、何か恐ろしささえ、感じた。
明日、朝礼で紹介される時、どんな子どもたちがそこにいるのだろう。
歓声でも、罵声でも、ため息でも構わない。
お願いだから、何か、音を聞かせて…。
窓から入る風を、頬に感じながら、窓辺に置かれた椅子に座り、耳を澄ませる。
けれど、鳥の羽音以外、何の音も聞こえてこなかった。




