許嫁の理由
あの子のために変わりたい気持ちが一人の少年を勇者へと成長させるのだ……
第二次世界大戦中、エドガーの祖父ヘンリー・バンシーと、エリザベスの祖父であるスコット・シェルフィードは同じ隊に配属されて各地を転戦した。
運悪く彼らが参戦したほとんどの戦は負け戦であり、特にひどかったのはダンケルクからの撤退戦であった。ドイツ軍の空襲におびえながら水平線の向こうから救いの手が差し伸べられるのを待ち続ける時間は、終わりの見えない責苦に感じられた。
ヘンリーとスコットは、所属していた小隊とはぐれて街路を彷徨っていたところで偶然出会った。
スコットランド貴族である互いを幼い頃から知ってはいたもののそこまで親しいというわけではなかったふたりであるが、直後にドイツ兵の攻撃を受け、撤退が行われるという砂浜を目指して命がけの脱走を試みる。時には家の陰に隠れ、時には車両の下にへばりつき、またどうしようもない時には手分けして行く手を阻むドイツ兵の命を奪った。
そうして砂浜へと到達したふたりを待っていたのは、激しい空爆と虚しい期待に行き場を失った数万の同僚たちだった。ドイツ軍の潜水艦に駆逐艦が沈められる。背後ではヒトラーの電動のこぎりを手にした情け容赦ない兵士たちが気勢を上げている。
打ち捨てられた船体の下、ヘンリーとスコットは一箱の煙草を分け合って三日三晩耐え抜いた。
ヘンリーが妖精の話をすると、はじめスコットは怒気を孕んだ口調で「もうすぐ死ぬってのに」と吐き捨てた。しかし、ヘンリーは妖精の話を止めなかった。
妖精との出会い、アーサー王と妖精、妖精の国、妖精の音楽、ヘンリーがあまりにも妖精のことばかり喋っているので、しまいにスコットは降参してヘンリーの話に相槌を打ったり質問したりして付き合うようになった。
ダンケルクの撤退を支援しにやって来た民間船に乗っても、ヘンリーの話は止まらなかった。妖精とのダンス、森の中の光景、エディンバラのお屋敷のこと。
ヘンリーの語り口は軽妙で面白く、いつしかスコットも自分のことを話すようになっていた。ギュウギュウ詰めの船の中でふたりは友情を深め、ついに祖国の地を踏んだ時、自分たちの息子、あるいは孫を許嫁にすることを約束した。
それは生き残った感慨から出た口約束でしかなかったが、忘れたとしらを切るにはふたりの性格はあまりにも実直すぎた。
戦後の相続税引き上げによる貴族没落によってシェルフィード伯爵家は邸宅さえも失ってアメリカへ移住したため、子の婚約は見過ごされた。しかし孫の代になって、アメリカで経済的に成功したシェルフィード伯爵家と、いまだ不動産経営によって豊かな資産を持つバンシー伯爵家の婚約が現実味を帯びてきたのである。
これが、エドガーが父のジョンから聞いたエリザベスとの婚約にまつわる過去の事情だ。もっとも、当事者であるふたりにとって、祖父たちの約束は遥か昔の遠い話である。
本当にエドガーが嫌だと思ったら、エリザベスとの婚約を破棄する手段も存在する。しかしそうするには、エドガーはバンシー家を捨てなければならない。相続権を放棄して、自分の力だけで歩み出す。
「……できるわけがない」
結局、エドガーに足りないのは一歩踏み出す勇気だった。
勉学でも、スポーツでも、大好きな物語の空想でも、なんでもいい。自信がないのは失敗を恐れるからであり、部屋に閉じこもるのは逃避でしかないのである。
変わりたい。エディンバラの岩のように黒く固まったままの心をどうにかしたい。
エドガーは下唇を噛む。
今がまさにその時なのだと感じる。ここで変われなければ、自分は一生このまま下を向いて生き続けなければならない予感がするのだ。
囚われのヒロインとなったエリザベスを救う自分の雄姿を思い浮かべる。ロングソードもなければ鉄の甲冑もないエドガーだが、気持ちだけは立派な騎士でいたい。
エドガーは自分がこの魔法の森で、物語の一登場人物に変わっていくような気がした。
また来週~




