遭遇
くねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくね
《part 5》
はじめは人間だと思った。
はるか遠い山裾まで続くだだっ広い田畑の真ん中、白い影は小指の爪ほどの大きさに見えた。
反射的に目を離そうとして――ソレが放つ見えない引力に、顔が、目玉が、意識が、縫い付けられて動かせない。
髪の毛の黒も、顔の肌色も、作業着の青や茶色も見えず、ソレはただ白かった。
こぼれた絵の具のように、一ピースだけ塗り忘れたジグソーパズルのように、風景の……あるいは世界のひび割れのように、ソレはのっぺりと白く、あたしの網膜に焼き付いた。
大きくなっている……まずそう思った。
痩せたラグビーボールのような、輪郭の定かでないシルエットが景色を蝕んでいく。
冷たく粘つく汗が額から吹き出して、たらりと一筋したたり落ちたとき。
その時ようやく、あたしはソレが近づいているのだと理解した。
ソレは畦道を横切り、青田に足跡も残さずにあたしへにじり寄ってくる。
あたしは身動きどころか瞬きすらできないまま、瞳孔の中心でソレを見続けることを強いられている。
普段なら憂鬱の種でしかない人影を視界の端で必死に探していたが、そんな助けが来ないことも半ば悟っていた。
ソレのディテールがあたしの意識に食い込んでくる。
おそらく全長は二メートル弱、あたしよりやや大きい程度。細くなった両端は各々二股になった枝が合わさっているようで、ちょうどバンザイした人間にそっくりだ。
白一色の体表は、粘液を分泌してぬらぬら光り、細い繊維が撚り合わさって編み上がり、乾燥したひび割れに粉が吹き、薄皮の下で蠢く何かが透け、水死体のように膨れてハリがなく、ニキビ痕に似た陥没に覆い尽くされ、……それら無数の印象が同時に脳神経へ雪崩れ込み、頭を針で掻き回されるような感覚に襲われて強い吐き気がこみ上げてくる。
そして、形がはっきりしないように見えたのは、ソレが目にも止まらない凄まじい勢いで、歓喜とも苦悶ともつかない、踊りのような動作をし続けているせいだった。
くねくね。くねくね。
くねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくね――。
気づけばソレはあたしの数メートル先に存在していて、一瞬たりとも動きを緩めずにあたしと相対していた。
静止した世界の中、ソレだけが狂ったように舞い続けている。
いつの間にか風も止み虫の声も途絶えていた。耳が痛くなりそうな静寂。無音映画の中にあたしは放り込まれていた。
荒くなる呼吸、早鐘を打つ鼓動、痛いほどに硬直した筋肉。
あたしの心を初めての恐怖が支配する。
――こいつ、食べられるか分からない。
道の真ん中で蠢くソレはあまりに現実離れしていて、あたしにとっては《眼》の異変のほうが、日常と地続きのところから焦りを生み出していた。
あたしの《眼》は【食材】と【それ以外】を区別する。どちらかに必ず分類するはずだ。
この《眼》が判断を保留するなんて物心ついてから十年以上一度たりとも無かった。
……あたしへとにじり寄る存在が一体何か見当がつかない。
【食材】と【それ以外】で出来たあたしの世界の中で、宙ぶらりんのまま迫ってくる。
向き合った相手を自分の中で位置づけられない――たったそれだけでこれ程心細いということを、あたしは生まれて初めて……知った。
ソレは一切の理解を拒みつつあたしに近づく。
いや……そうじゃない……。予想外の実感が私の中に芽生える。芽生えさせられていく。
アレは理解を……望んでいる……!
あたしは何故かそう感じ取った。
いや、気付いた?
それとも……悟った?
アレは理解されたがっている。ただしあたしのやり方ではなく、アレのやり方によって。アレが望む理解の形をあたしに流し込もうとしているのだ。
既存の意識をクシャクシャに破り捨てておぞましい世界へ引き込もうとしている……!
本能的に感じ取り、あたしは歯を割れんばかりに食いしばって『自分』の形にしがみつく。
あたしとソレはもはや二メートルも離れていない。
近付くほどに細部が明瞭になり破綻した認識の奔流が勢いを増していく。
破綻……?
いや、破綻しているように見える――
一見破綻しているが――?
違う!
違うっ!
やめろ、嫌だ、あたしはそんな世界にいきたくないっ!!
いよいよ透明な圧力が自我の扉をじりじりとこじ開け、抵抗心にも亀裂が入り、あたしも観念して覚悟を決めようとしていた――その時。
「ごはん、みっけたーーーっ!!」
底抜けに明るい叫び声が鼓膜に飛び込んで、背後から現れた影がソレに飛びついた。
また明日~




