じっちゃんの思い出
友の味。
《part11》
ペコから逃げ出した後、少年は恐怖に駆られて山道を走り抜け、村に戻るとすぐさま大人たちに自分の身に起こった事件を説明した。
しかし……『河童が出て、女の子も出て、女の子が河童を絞め殺して、自分のことも襲おうとしてきた』なんて世迷い言がまともに取り合ってもらえるはずもない。
唯一信じてくれたのは祖父だった。
もちろん忘れてしまいたい気持ちもあったが、嘘つき呼ばわりしてきた奴らを見返すため、自分の頭がおかしくなっていないことを確かめるため、そして何より――今までずっと馬鹿にしていた祖父に謝る意味を込めて、二人で北の淵へと足を運ぶことにしたのだ。
周囲を見回した少年は、河童の死骸が無くなっていることに安堵と不審を半々に感じた。二人の少女は焚き火の脇で何やら食事をしていて、先刻の恐怖が嘘のような和やかさだ。
だがその場をよく見るにしたがって……火にかけられているのが得体の知れない巨大な甲羅であること、川端に血溜まりと肉片が散らかった一角があること、長髪の少女が持った器がいやに生々しい色と形をしていること……そして彼の足元近くに緑色の物体――河童の生首が打ち捨てられていることに気付いて、ひきつった悲鳴と共に腰を抜かして後ずさった。
「じっちゃん……っ、この人達、かっ、河童、食べてる!!」
裏返った声の叫びに対して、他の人々の反応は薄かった。
かまどは弁明とも諦観ともつかない曖昧な笑顔を浮かべたまま少年たちの様子を窺い、ペコも同じく様子を見ながら箸だけは止まらない。老人は少年を宥めるでもなく、細い目の奥でかまどたちを値踏みしていたが、やがて猟銃を担ぎ直して足元の生首を拾い上げた。
頭頂の皿をむしり取られた河童。見るも無残な死に顔を晒していたが、老人は毛ほども動揺を見せない。嘴についた星型の傷跡を繰り返し、繰り返し、皺だらけの指でなぞり、呟く。
「あぁ、間違ぇねぇ……間違ぇねぇじゃよ……」
老人の瞳が見るのは現在ではなく、遥か遠い過去――在りし日の思い出。
あの頃、老人はまだ少年で、ちょうど彼の孫と同じように、毎日山を駆け回って釣りをするのが日課だった。
そしてある日、居眠りして夜更けまで山に残ってしまった彼は、まさにこの淵で河童に出会った。
川から身を乗り出して彼の足首を掴み、水底に引きずり込もうとした暗緑の冷たい手を、彼は逆に引っ張り上げてそのまま相撲に持ち込んだ。
怖ろしいほど巨大な満月が見守る中、一人と一匹は四つに組み合った。押しては押され、一進一退の攻防が繰り広げられる。顔前に寄せられた異形の嘴。星型の傷跡が視界にちらつく。
永遠に続くかと思われた取り組み……しかし均衡は破られて、彼はついに河童のひょろ長い肢体を投げ飛ばし、生白い腹をお月様に向けさせたのだった。
すっかり伸びた河童の耳元で、もう悪戯はするなと言い含める。次こんな事をやったらお前の命を取ると、勝者の権利として問答無用で約定を押し付けた。
しかし彼の目を見返した河童の双眸には、確かに彼への――好敵手への信頼が宿っているように見えた。少なくとも彼はそう信じていた。
「馬鹿なことを……自業自得じゃ。あだに人さ襲うからじゃて……」
老爺の口から漏れたのは、嘲弄ではなく、むしろ恨み言に近かった。あるいは悔いていたのかもしれない。
もしかすると河童は……、あの日の相撲がどうしても忘れられず、そのために約束を破ってしまったのではないか……。老人の胸に去来するそんな思いも、今となっては真相は藪の中である。
老人は生首を抱え、すっかり膝にガタの来た足取りで、一歩、また一歩と焚き火の方へ向かっていった。銃を持った相手――かまどの表情に緊張が走る。だが深い年輪が刻まれた顔に敵意が無いのを感じ取り、徐々に態度を和らげていった。
腰の曲がった老人が二人を前にして立ち止まり、口を開く。
「お前さんら、……おらにも分げちゃあくれんか?」
「へぁ、じっちゃん?!」
顎が外れたような顔で本日最大の悲鳴を上げた少年は、またしても無視される結果となった。ペコは依頼を聞くや目の色を変えて、自分の皿(河童の皿)を遠ざけて野犬のような唸り声をあげ始める。
露骨過ぎる意地汚さを軽く窘めつつ、かまどが自分の器を差し出す。老人は震える手で箸を取り、緑の皮が付いた一片の肉をつまみ上げて口に入れた。
一回ずつ、ゆっくりと、まばらになった歯で噛みしめる。無言で咀嚼していた彼の目尻から、ぽろり、ぽろり、大粒の涙が溢れ出す。
「旨ぇ……旨ぇなぁ、お前さんは……」
ようやく絞り出したその言葉を繰り返し、老爺は箸を進める。彼の顎にたまった雫が次々と器に落ちて、仄かな塩みが河童肉の淡白な味わいを彩っていた。
今日はもう1話です!




