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こちら、駒桜高校将棋部Outsiders  作者: 稲葉孝太郎
第59局 感想戦後の感想戦(K川県・T島県)(2015年9月19日土曜)
700/707

688手目 銷殞

 大谷さんのお寺についたとき、あたりはほんのりと、西日の兆候を示していた。

 木々が風に凪ぐ。

 葉が重なりあって、音を立てていた。

 寺院の敷居をまたぐと、遠くで読経の声が聞こえた。

 大谷さんだった。

 それは遠くから、くぐもったように響いていた。

 お堂のほうへ足を向けると、声はだんだんとはっきりしてきた。

 薄暗い堂内が視界に入ると、ろうそくの小さな明かりが揺らいでいた。

 大谷さんは、いつものお遍路さん姿ではなく、僧衣を着ていた。

 茶色の地味なもので、周囲の暗さに溶け込みつつ、浮かび上がっていた。

その大旨だいしは、願わくは我れたとい過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道とくどうせりし諸仏諸祖我をあわれみて、業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ」

 漢文ではなく、日本語の古文のように聞こえた。内容はわからない。

 僕は音を立てないように、忍び足でお堂のまえで待った。

 大谷さんは、僕に気づいているだろうか。

 気づいているかもしれない。

 ただ僕は、静寂のなかで、その声に聞き入っていた。

心念身儀しんねんしんぎ発露ほつろ白仏びゃくぶつすべし、発露ほつろの力、罪根ざいこんをして、銷殞しょういんせしむるなり」

 そこで読経は終わった。

 背中しか見えない僕は、その所作を垣間見れなかった。

 彼女がふりむいたときには、もういつもの大谷さんにもどっていた。

「お待たせいたしました」

 やっぱり気づいてたかな、この様子だと。

「お邪魔して、すみません」

「ここでは恐縮ですので、どうぞ客間のほうへ」

 僕が通されたのは、簡素な和室だった。

 おそらく、法要などで控え室に使われているのだろう。

 生活感がありつつも、どこかよそよそしい感じがした。

 脚の低いテーブルがあって、僕は畳のうえに正座した。

 出されたお茶には手をつけず、タブレットを立ち上げた。

 大谷さんが着座するのを待ってから、

「棋譜なんですが……」

 と切り出した。

「決勝戦にいたします」

 これは、当然の回答だった。

 僕は、その先に迷った。

 萩尾はぎおさんが、もう解説してるんですよね。だけど大谷さん視点で、好きに解説してください。そう言おうと思っていた。でも、これ自体が蛇足のような気がした。

 大谷さんも、それ以上の補足はしないで、

「では、始めさせていただきます」

 と、序盤の立ち上がりを解説した。

「角換わりのかたちから、拙僧の速攻で始まりました」


【先手:萩尾はぎおもえ(Y口県) 後手:大谷おおたにひよこ(T島県)】

挿絵(By みてみん)


 ま、いつも通りやるしかないか。

「これは予定の作戦ですか?」

「決勝の開始前に、一案として想定しておりました」

「後手なら角換わりで速攻……これを選んだ理由はありますか?」

「萩尾さんに、研究があるとは考えていませんでした。手将棋ならば、先に攻めるのが得策と考えたまでです」

「先手は5五角で、主導権を取り戻そうとしてきましたね」


【33手目】

挿絵(By みてみん)


 大谷さんは、これも予想していたらしかった。

 狙いははっきりしていて、6三銀に6五銀。

 大谷さんはこれを回避して、7三角と収めた。

 僕は、

「後手から仕掛けたわりには、落ち着いた展開に見えますが」

 と、暗にヒヨったのではないかという質問をした。

「左様ですね……後手としては、飛車先が切れたので、満足したところもあります」

「このあと、先手が9六歩で、争点を作ってきました。これはどうでしたか?」


【43手目】

挿絵(By みてみん)


「対局中は、先手からの挑発と捉えました。しかし、あとから振り返ってみると、こちらの9筋を無理気味にしたかったのではないかと思います」

「無理気味、というのは?」

「9五歩、同歩、同香、9七歩で、9筋に隙を作るという意味です」

 オーバーストレッチってやつか。

 萩尾さんのことだから、可能性はある。

 僕は、

「そちらが主戦場になったのは、まだあとなので、そのときあらためて質問します。本譜では、大谷先輩が1筋から、逆に攻めました。これはどういう読みでしたか?」

 と、54手目まで進めた。


【54手目】

挿絵(By みてみん)


 大谷さんは、思い出すようにしばらく黙ったあと、

「勢いで指したところも大きいですが……萩尾さんの棋風からして、こちらから攻めなくても、攻めてくると思いました。受けるくらいならいっそ、という判断です」

 と答えた。

 後半にちょっと弁明してはいるものの、ほぼ勢いってことだね。

 1四歩以下は、4四歩からの攻め合い。

 同角、4五銀、6二角、2四歩で、攻めを呼び込んだかたちになった。

「しばらく先手の攻めが続きますが、不安になりませんでしたか?」

「ないと言えば、嘘になります。読み切りなどありえない局面ですから」

「1八歩などで攪乱しましたが、9六歩で、9筋もいよいよ火がつきました。ここは当初の予定通りでしたか?」


【71手目】

挿絵(By みてみん)


 大谷さんは、

「萩尾さんの記事にもあったように、これによって後手の攻めが復活しました。突かれたこと自体は意表でしたが、流れとしては予定通りかと」

 と返した。

 ようするに、先手の攻めを呼び込んで、どこかで反撃という方針は叶った、でも、のちのちの9六歩で実現するとは、読めてなかった、ってことか。じっさい大谷さん側は、1筋でなんとかしようとしていた形跡がある。

「ただ、このあとも主導権は、先手じゃなかったですか?」

「はい、拙僧のほうは、流れに乗るしかありませんでした。萩尾さんが千日手を選択していれば、そうなったでしょう」

 大谷さんの指摘は、2ヶ所あった。

 ひとつは83手目の4六角に代えて、7三角成。


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 これが千日手になるのは、萩尾さんの自戦記でも出ていた。

 もっとも、本命の千日手は、93手目から100手目までのほう。


【100手目】

挿絵(By みてみん)


 ここで7二成銀と繰り返せば、千日手だったはずだ。

 本譜は1七香で、萩尾さんから千日手を回避した──ように見える。

 僕はペンを立てて、

「この箇所の萩尾さんの記事、お読みになられましたか?」

 と訊いた。

「無論です」

「萩尾さんの意見について、どうお考えです?」

 萩尾さんは言っていた。1七香は千日手回避じゃなくて、千日手回避のお誘い、だから、回避したのは大谷さんのほうだ、と。まるで禅問答だよね。僕もあのときは意味がわからなくて、若干スルーしたほどだ。

 大谷さんは、答えを用意してくれていた。

「あれは、萩尾さんのお考えが正しいかと」

「つまり、回避したのは大谷先輩だったってことですか?」

「はい」

「……理由を説明していただけますか?」

「先手が1七香を指せば、後手は無理気味に別の手を指すのではないか、これが萩尾さんのおっしゃりたかったことです。少なくとも、拙僧はそう解釈しました」

 僕はペンを回して、しばし思案に耽った。

「……なるほど、理解できました。1七香のあとも、後手は千日手を続けるのが、多分最善。だけど、千日手コースを一回崩されている。後手に心理的なブレが生じるかもしれない、と」

「左様です。拙僧としても、結果を抜きにして考えれば、1七香、同香成、7二成銀、4一飛と崩したのは、よろしくなかったと思います」

 AI検討でも、そうだった。

 後手は千日手を続けるしかない局面だった。

 僕はそのことを伝えたうえで、

「将棋に負けて、勝負に勝った、とは思いませんか?」

 と尋ねた。

「そういう言い方も、可能かもしれませんが……拙僧は好みません」

「なぜですか?」

 大谷さんは、ひと呼吸おいた。

「あの将棋は、指運でした。勝負に勝ったとすら、言えないのではないでしょうか」

 これまた厳しい自己評価。

「どのあたりが指運だと思いますか?」

「最後の収束まで、あらかた指運でした。その証拠に、あの1六歩までを理路整然とは解説できません」

 大谷さんは、そこから最後までの流れを、1時間かけて説明してくれた。全体の印象は、たしかに行き当たりばったりだった。あるときは攻めて、あるときは受けて、あるときは迷い、あるときは決断する。

 その繰り返しの果てに、1六歩は指された。


【228手目】

挿絵(By みてみん)


 外で風が鳴った。

 さしだされたお茶は、とっくに冷めていた。

 僕は口もとに手をあてて、右肩を落とし、深く考え込んだ。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………なにかが足りない。

「萩尾さんは、この棋譜を美しいと評してました」

「はい、記事で読みました」

「単なる指運が美しいということが、あるんでしょうか?」

 さすがの大谷さんも、この質問には即答しなかった。

 左様ですね、と枕詞だけ言って、しばらく沈黙した。

「萩尾さんが別の記事で……陶芸のコラムでしたが……そこで、このようなことをおっしゃっていました。陶芸家は、炎をあやつれない。最後は偶然が残る、と。だとすれば、偶然から生じる美というものも、たしかにあるのではないでしょうか」

 僕は一瞬にしてうなずいた。

 理解よりも、納得が先行した。

「わかりました。では、全体の感想をお願いします」

 大谷さんは、盤を見つめた。

 最後はどうしても、この棋譜に立ち戻りたいかのようだった。

「もし、拙僧に述べることがあるとすれば……この将棋を指せた拙僧は、幸運だったということです。それだけです」

場所:第10回日日杯 4日目 決勝トーナメント 女子決勝

先手:萩尾 萌

後手:大谷 雛

戦型:角換わり力戦形


▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩

▲8八銀 △3二金 ▲3八銀 △6二銀 ▲2五歩 △7七角成

▲同 銀 △2二銀 ▲1六歩 △3三銀 ▲7八金 △7四歩

▲4六歩 △7三桂 ▲6八玉 △6五桂 ▲6六銀 △6四歩

▲3六歩 △4二玉 ▲4七銀 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛

▲8七歩 △8一飛 ▲5五角 △7三角 ▲4五歩 △9四歩

▲4六角 △5二金 ▲1五歩 △6三銀 ▲5六銀 △3一玉

▲9六歩 △9五歩 ▲同 歩 △同 香 ▲9七歩 △6二角

▲3七桂 △5四歩 ▲5八金 △4二金右 ▲7九玉 △1四歩

▲4四歩 △同 角 ▲4五銀 △6二角 ▲2四歩 △同 歩

▲1四歩 △4四歩 ▲5六銀 △1八歩 ▲同 飛 △1七歩

▲4八飛 △1四香 ▲1三歩 △同 桂 ▲9六歩 △同 香

▲同 香 △9五歩 ▲6五銀直 △同 歩 ▲6四香 △同 銀

▲同 角 △6三銀 ▲8二銀 △6一飛 ▲4六角 △8八歩

▲同 金 △9六歩 ▲4三歩 △同金直 ▲7三銀成 △5三角

▲2三歩 △5二銀 ▲7二成銀 △6三飛 ▲7三成銀 △6一飛

▲7二成銀 △6三飛 ▲7三成銀 △6一飛 ▲1七香 △同香成

▲7二成銀 △4一飛 ▲1四歩 △2五桂 ▲同 桂 △同 歩

▲1三歩成 △4五香 ▲同 銀 △同 歩 ▲7三角成 △9七歩成

▲同 金 △4六香 ▲4七歩 △7七香 ▲7八香 △8八歩

▲同 玉 △8五桂 ▲8六金 △9九銀 ▲7九玉 △6一銀

▲8二成銀 △2七成香 ▲4六歩 △2六角 ▲4九飛 △3八成香

▲1九飛 △4八成香 ▲2二歩成 △同 金 ▲6四馬 △5三金

▲2二と △同 銀 ▲5三馬 △同 角 ▲2四桂 △8八角

▲6九玉 △7八香成 ▲同 玉 △3三角成 ▲3二金 △同 馬

▲同桂成 △同 玉 ▲2四桂 △3三玉 ▲3二金 △2四玉

▲1二飛成 △7七香 ▲同 桂 △同桂成 ▲同 玉 △4四角

▲6六香 △1三金 ▲1六桂 △1五玉 ▲2四角 △2六玉

▲2九香 △3七玉 ▲3九香 △同成香 ▲1三角成 △2九成香

▲2二馬 △6六歩 ▲2四桂 △6五桂 ▲6八玉 △6七歩成

▲同 玉 △5七桂成 ▲同 玉 △5五香 ▲5六歩 △同 香

▲同 玉 △5五香 ▲4五玉 △2二角 ▲4一金 △5八香成

▲4四銀 △3三金 ▲同銀成 △同 角 ▲4四金 △8八角

▲3三金 △同角成 ▲5四玉 △5二銀打 ▲6三歩 △5三金

▲6五玉 △6三金 ▲1七龍 △2七桂 ▲5五桂 △5四香

▲6三桂成 △同 銀 ▲1五角 △2六桂 ▲7五歩 △7三桂

▲7六玉 △8八銀不成▲7九香 △6五歩 ▲6七歩 △2四馬

▲7四歩 △同 銀 ▲7五金打 △1五馬 ▲7四金 △1六歩

▲7三金 △1七歩成


まで230手で大谷の勝ち

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