685手目 Sorbet
「最後は長尾くんで、よろしく」
長尾くんは、
「オッケー、じゃあ僕は、梨元さんと温田さんの一局で」
と答えた。
ん? どういうこと?
僕は一瞬、首をかしげた。
二階堂さんたちも、怪訝そうな顔をしている。
けど、僕には思い当たる節があった。
「もしかして、阿南くんと解説した一局ってこと?」
長尾くんは笑った。
「そうそう、よく覚えてるね。飛び入り参加」
「あの解説、けっこうウケてたよ。でも、他人の棋譜だよね?」
「いろいろ考えてみたんだけど、僕の棋譜にいいレシピが見当たらなかったんだよね。正確に言うなら、材料か。だったら、ソルベでも出そうかと思って」
ソルベっていうのは、フランスのコース料理で出て来る、シャーベットのことだ。
僕は、
「つまり、ここまでが脂っこすぎる、と?」
と尋ねた。
「脂っこいかどうかはおいといて、午後は大谷先輩の取材だろ? まさに今回のメインディッシュ、肉料理だ。そのまえに口直しは、どう?」
僕は指をはじいた。
「なるほど、肉料理の前に出されるのがソルベってわけか。そのアイデア、乗った」
「それじゃ、早速」
長尾くんは、序盤から始めた。
【先手:梨元真沙子(T取県) 後手:温田みかん(E媛県)】
相振り。
梨元さんも温田さんも、振り飛車党。
成り行きとして当然こうなるし、先手も後手も工夫する。
僕は、
「長尾くんが相振りだから、この対局にしたの?」
と尋ねた。
「ううん、是靖がテキトウに選んだ」
「阿南くんは居飛車党だから、本来なら長尾くんメインで解説する対局だよね。でもあのときは、阿南くんがリードしてたと思う。今回は、長尾彰の独演会を聞きたいな」
「オッケー、今回は振り飛車党対決で、当たりは事前にわかってる。棋力的にも、近い者同士。決勝トーナメントは狙えるけど、安定的ってわけじゃないグループ。ボーダーライン上の戦いだから、一勝の価値が高い。そうなってくると、事前に準備するメリットも大きい」
ただし、と、長尾くんは付け加えた。
「相振りの場合、序盤のパターン化が難しい。これがトレンド、っていうのもない。先手を引いたら、準備してきた作戦を仕掛ける、後手を引いたら、相手の作戦をかわす、こういう駆け引きになる。本局も、先手早石田のトリックに対して、後手の温田さんが変化していくわけだ」
そうそう、こういうのが聞きたいんだよ。
僕は、
「先手の作戦は、単に早石田だったのかな?」
と訊いた。
「おそらくだけど、後手の飛車先を牽制したんじゃない? 本譜は、温田さんが2二飛で向かい飛車にしたあとも、2六歩と突けなかったよね」
【29手目】
僕は棋譜を確認しながら、
「ここから後手は、1二飛~5二飛で、位置替えを余儀なくされてるのか」
とコメントした。
長尾くんは、
「もちろん、先手にもデメリットはあるよ。普通、先手は飛車先を切れるよね。先手向かい飛車なら、8四歩が入ってることは多い。でも、本局は8筋をそもそも伸ばせてないし、7四歩、同歩、同飛は、後手からの逆襲が怖い。例えば、1二飛、5六歩、5二飛に7四歩と突いたら、同歩、同飛、7三銀、7六飛、6四銀左くらいで、もう先手悪い」
と、流暢に語った。
【参考図】
長尾くんはさらに、
「いずれにせよ、本譜は温田さんがうまく指したね。先手の4八金左に対して、7一玉と入ってから、6六歩、3五角、5七銀、5五歩と、うまく仕掛けた。4六銀、同角、同歩、5六歩の時点では、後手がいい」
と、後手の指し回しを褒めた。
【42手目】
早紀ちゃんも、
「これは後手持ちですね。先手は陣形も変ですし」
と相槌を打った。
僕は、
「梨元さんは、6五桂から暴れにいった。これについては、どう? 2三角もない?」
と尋ねた。
「そうだね、2三角、4二金、3四角成ともたれて指すのも、一局。ここからの梨元さんの方針は、けっこうブレてる。6五桂で殴り合うかと思いきや、6四銀、7九角、4二金、7四歩、8五銀、7七飛でヒヨった」
【49手目】
ここは7三歩成と踏み込むほうが、一貫している。
僕は少し手を戻して、
「44手目で、6七銀と打たなかった理由は、なにかな?」
と訊いた。
【参考図】
本譜は6四銀と上がっている。
長尾くんは、
「8六飛のあと6四銀で良しって、気づかなかったんじゃない? 解説席でも、気づいてなかったよ。7八銀成は9七角でダメだし、6四銀と上がったあとの攻防にどう効くのか、すぐには見えてこないからね」
と推測した。
僕は評価値を見て、
「6七銀なら後手優勢だったから、チャンスボールを逃したかたちではある」
と指摘した。
長尾くんは、
「うーん、結論の先取りになっちゃうけど、本局は温田さんに運がなかったんじゃないかなあ。まあなんとも言えないか。とりあえず、本譜でも後手有利。僕的には、7四銀に9七角じゃ苦しいと思ってた」
と言ったあと、何手か進めて、
「転機は、この飛車浮き」
と言った。
【56手目】
「これが悪手」
早紀ちゃんは、
「あれ? 8五桂で両取りじゃないんですか?」
と首をかしげた。
長尾くんは、
「それが最善。でもインタビューで話を聞いたときは、しょうがないかな、と思った。ちょっと長くなるけど、8五桂、6四角、同歩、同角、7七桂成、4二角成、5七歩成、5一馬、4八と、6二馬、同金、4八金、6九飛、4九銀、2六歩、同銀、6五銀、同歩、8五角、5八銀打、5九飛成に、7四歩と攻め合われたときが、わかんなかったんだって」
と、舞台裏を明かした。
【参考図】
早紀ちゃんと亜紀ちゃんは、うーん、と同時にうなった。
早紀ちゃんは、
「なんか、途中でいろいろあったような……」
と、ここまでの順が一直線すぎるんじゃないか、という意見だった。
これは正しい。
僕は、
「この局面、ほんとは後手有利なんだよね。温田さんの不安は、外れてる。とはいえ、直前の5九飛成は疑問手で、6九金打と龍取りに打たれてたら、ほぼ互角。温田さんが5九飛成を考えてしまった時点で、どのみち着地には失敗してたかも」
と補足した。
長尾くんは、
「対局中、僕はこの局面をそもそも考えなかった。対局者のほうが、よく考えてる。当たり前か」
と笑ってから、
「そのあと、64手目に致命傷が出た。後手の6八角」
と、最後のポイントへ進めた。
【64手目】
僕は、
「解説席だと、ほとんど話題にならなかったみたいだね」
と確認を入れた。
「そうだね、悪手だとはまったく思ってなかった。そのあとの僕は、互角判断だったよ。5一飛のほうが、ハッとさせられた」
【69手目】
こっちのほうが、見た目は派手だ。
それに加えて、6八角は狙いが読みやすい。
飛車金両取り。これが悪手というのは、気づきにくいと思う。
僕がそう告げると、長尾くんは、
「局後インタビューでも、この手は俎上に上らなかった。だとすれば、ある意味で関係がなかったんじゃないかな」
と言った。
「関係がない、とは?」
「気づかなかった旨味は、存在しないのといっしょってこと」
「そこで料理の話になるの?」
「将棋でも同じだと思うよ。対局者がどちらも気づいてない優劣は、存在しないのといっしょなんだ」
それは極端じゃないかな、と僕はやんわり反論した。
ところが、長尾くんには持論があるらしかった。
「犬井が言ってるのって、客観説でしょ。優劣は客観的に決まってる、対局者が気づいてるかどうかは関係ない、っていう。だったらさ、将棋は先後が決まった時点で、どっちかの勝ち、あるいは引き分けって決まってるわけじゃん。客観的にはそうなんだし、全解析したらわかるよね。それがナンセンスなのといっしょさ」
いやそれも極端で、と僕が議論を仕掛ける前に、長尾くんは自分から話題を打ち切った。
「全体の感想として、解説はやっぱり難しいな、と思った。でも楽しい。他人の料理について、ああだこうだ言うのと似てる。ある意味で無責任だな。こうして自分の棋譜を紹介しなかったのも、無責任かもしれない。無責任には無責任の味がある。僕の記事は、そういう感じで提供したかった」
やれやれ、最後は長尾節が炸裂しちゃったか。
僕がメモを取っていると、長尾くんは席を立った。
冷蔵庫から、豆乳プリンを出してきた。
僕は、
「てっきりシャーベットかと思った」
と、皮肉なしで伝えた。
「ごめんごめん、シャーベットって、冷凍庫に何回も出し入れしないといけないから、こういう場には不向きなんだよね。頻繁に離席することになっちゃう」
「いやいや、ありがたくいただくよ」
スプーンですくって、口のなかへ──ひかえめな甘さだ。
カラメルもない。
僕が味わっていると、長尾くんは、
「どう?」
と訊いてきた。
「美味しいよ……あ、もしかして、隠し味を当てられるかどうか? ごめん、わかんない。だけどさ」
僕はスプーンで、もうひとくちすくった。
「僕の舌に認識されない味は、ないのといっしょ、かな」
長尾くんはイヤな顔ひとつせず、笑った。
「そうそう、そういうこと。ところでさ、僕も謝らないといけないんだけど、隠し味はないよ。豆乳に、粉ゼラチンとキビ砂糖を入れてるだけ」
僕はスプーンをとめた。
……………………
……………………
…………………
………………正解があると思うがゆえの幻想、か。
僕の完敗だね。
場所:第10回日日杯 3日目 女子の部 15回戦
先手:梨元 真沙子
後手:温田 みかん
戦型:相振り飛車
▲7八飛 △1四歩 ▲1六歩 △4二銀 ▲7六歩 △5四歩
▲7五歩 △5三銀 ▲7六飛 △3四歩 ▲7七桂 △4四角
▲4八玉 △2二飛 ▲3八玉 △2四歩 ▲9六歩 △2五歩
▲2八銀 △7二金 ▲6八銀 △6二銀上 ▲5八金左 △6一玉
▲1七銀 △9四歩 ▲2八玉 △3三桂 ▲3八金 △1二飛
▲5六歩 △5二飛 ▲4八金左 △7一玉 ▲6六歩 △3五角
▲5七銀 △5五歩 ▲4六銀 △同 角 ▲同 歩 △5六歩
▲6五桂 △6四銀 ▲7九角 △4二金 ▲7四歩 △8五銀
▲7七飛 △7四銀 ▲9七角 △5一飛 ▲1八香 △9三桂
▲8六角打 △5四飛 ▲6四角 △同 歩 ▲5五銀 △同 飛
▲6四角 △5七歩成 ▲同 金 △6八角 ▲7四飛 △6五飛
▲同 歩 △5七角成 ▲5一飛 △同 銀 ▲7三角成 △8一銀
▲5一馬 △7三歩 ▲同飛成 △3九馬 ▲同 金 △5八飛
▲1九玉 △5一飛成 ▲7二龍 △同 銀 ▲7三歩 △同 銀
▲6四銀 △同 銀 ▲同 歩 △6二金 ▲7三歩 △7二歩
▲6三銀 △6一銀 ▲7二歩成 △同 銀 ▲7三歩 △同 金
▲7四歩 △6三金 ▲同歩成 △同 銀 ▲7三歩成 △8一銀
▲6三と △7二歩 ▲6二銀 △同 龍 ▲同 と △同 玉
▲6四銀 △5二銀 ▲6三歩 △同 銀 ▲同銀成 △同 玉
▲6一飛 △6二歩 ▲6五金 △5四飛 ▲同 金 △同 玉
▲6二飛成 △6四銀 ▲6六銀 △6三金 ▲6五角
まで125手で梨元の勝ち




