684手目 不思議の負け
さーて、次は亜紀ちゃん。
亜紀ちゃんは盤面を戻しながら、
「わたしが選んだのは、最終戦、萩尾先輩との一局です」
と宣言した。
あ、そこなんだ。これは僕にも意外だった。
姉の早紀ちゃんも、
「あれ? わたしに勝ったやつじゃないの?」
と怪訝そうだった。
亜紀ちゃんは眉間にしわを寄せて、わざとらしくタメ息をついた。
「お姉ちゃんに勝ったなんて理由で、選ぶわけないでしょ」
ま、それもそうか。
しかし、これでは理由の半分にもなっていない。
僕は、
「萩尾さんとの対局を選んだ理由、教えてもらえるかな」
と尋ねた。
「日日杯で、わたしが一番衝撃を受けた将棋なんです」
へぇ、これまた新しい視点だ。
僕は、
「棋譜の解析データもあるし、ちょっと見てみようか」
と言って、初手を促した。
亜紀ちゃんは、さらさらと序盤を並べた。
【先手:二階堂亜紀(K川県) 後手:萩尾萌(Y口県)】
横歩で、先手は9六歩型。
亜紀ちゃんは、
「後手は1四歩じゃなくて、6四歩と伸ばしてきました」
と言いながら、6三の歩をひとつ進めた。
一見して、舐めプ気味。
定跡から外そうとしている。
消費時間的にも、後手はかなり飛ばしている状態だった。
僕は、
「6四同飛は若干罠に見えるけど、先手悪くはないよね」
と指摘した。
亜紀ちゃんは、
「いやあ、萩尾先輩相手に取るの、けっこう勇気がいりますよ」
と答えた。
そこは否定できない。
以下、3六飛に、8二飛、8七歩、2五歩、3八金。
後手はようやく、1四歩と突いた。
僕は、
「ここで3四飛~2四飛が機敏だったね」
と褒めた。
【27手目】
亜紀ちゃんは、
「どうなんですかね、誘いのスキかな、と思ってました」
と、疑心暗鬼だった。
これはアレだね、萩尾さんを怖がってる感じがする。
ようするに、棋力差から生じる不安だ。
もっとも、罠じゃないと言い切れないのが、あのひとの怖いところ。
後手は当然に角交換をして、同銀、2二銀と2筋を守った。
僕は、
「ここで2五飛もあったよね。2四と回ったなら、2五は自然だと思うけど、なにかあった?」
と訊いた。
亜紀ちゃんは、
「6六歩、同歩に3四角を気にしました」
と答えた。
【検討図】
この返答は、予想の範疇。
もちろん、6六同歩は悪手だ。
僕は、
「6六歩、6五飛と、そこで6筋に回るのは?」
と深堀りした。
「それは6七歩成に同金と取れないのが、なんかなあ、って」
なるほど、6七歩成、同金、6四歩を嫌ったのか。
【検討図】
これはもう後手良し。
「6七同金じゃなくて、同飛は?」
「んー……4五角に、6八飛しかないですよね。それって気持ち悪いというか……」
たしかに、指しにくいか。
このあたりは、萩尾さんが仕掛けた心理戦かもしれない。
亜紀ちゃんは本譜に戻って、2二銀に6四飛と寄った。
【33手目】
「先手いいかな、とすら思ったんですが……」
僕は、
「じっさい先手いいよね。不満はない」
とコメントした。
長尾くんも同様で、
「萩尾さんにしては、ちょっと雑にみえるね」
と辛口だった。
亜紀ちゃんは、
「それが、次の手で困ったんですよ」
と言って、5四に角を打った。
【34手目】
この〈雑〉にみえる対応が、AI検討ではそんなに悪い手じゃない。
舐めプで指したとしたら、相当な直感力だと言わざるをえない。
亜紀ちゃんは、打たれるまで考えていなかったと、正直に告げた。
「2六歩とばかり思ってて……横歩の筋としては、そっちが普通かな、って……打たれたあとも、意図が微妙で……6五歩を守るだけっていうのも、変ですし……」
歯切れが悪くなってきた。
僕は、自分の考えを述べることにした。
「萩尾さんの研究手とは、思えない。この局面へたどりつくまでに、分岐が多過ぎるから。どこまで深く読んで指したのかも、断言できない。いずれにせよ、このあとの先手は、難しいルートに誘い込まれた雰囲気がある」
すると、長尾くんは、
「そんなに難しいの? 同飛と切って、2三歩から叩くんじゃない?」
と不思議がった。
亜紀ちゃんは、
「3分くらい考えて、私もその結論になりました。2三歩、同銀、2二歩、同金なら、7五角、3二玉、9七角打くらいで、先手いいですからね」
と同意した。
【参考図】
早紀ちゃんは、
「あー、後手は持ち駒が悪いのか。飛車しか打てないじゃん」
と納得した。
亜紀ちゃんは、そうそうと言いながら、
「まあ、これは勝手読みで、2三歩に同銀って取るわけがないんですよ。それでも、2三歩、3三銀、7五角、5二玉に2二角と捨てたら、同じくらいイケると思いました」
【41手目】
で、これが思ったほど良くない、というオチ。
長尾くんは、
「えー? ほんと? 最低でも、60:40くらいは差がありそうだよ?」
と、信用しなかった。
「わたしも、対局中はそう考えました。手も思いついてたんです。同金、同歩成、同銀に、もう一回2三歩と叩いて、3三銀、3一角成です」
【47手目】
長尾くんは、
「これで先手ダメなの?」
と首をかしげた。
「ダメってわけじゃないです。次に4四銀と上がる手が、全然見えてなかったのが問題でした」
「……ごめん、僕が弱いだけだと思うけど、4四銀に2一馬と寄って、なにも問題なくない? 6四桂の王手銀が生じるよね?」
「両取りは放置して、2六歩で後手やれます」
「……6四桂、5三玉、7二桂成、同金、3四銀で?」
「それは6三玉、4三銀成、5五銀で、後手寄りの互角になります」
【58手目】
長尾くんは、しばらく盤面を見つめたあと、
「そっか……上を圧迫されたら、先手は危ないんだ」
と、ようやく合点がいったような顔をしたあと、でも、と付け加えて、
「これはこの局面にならないと、気づかないや、少なくとも僕は」
と言って、ギブアップした。
一方、早紀ちゃんは、
「具体的に、どう崩すの?」
と、まだまだ懐疑的だった。
「4六歩から突破して、王様を露出させるの」
【72手目】
これを見た長尾くんは、
「5三金~5四金~5五馬で、銀を抜いたのかな? 1一馬、2七歩成、4八金、4六歩、5三金以下で、合ってる?」
と確認を入れた。
亜紀ちゃんが、そうです、と答えると、長尾くんは、
「先手、粘れるように見える。僕の勘も当てにならないや」
と、印象が変わらないことを自白した。
亜紀ちゃんは、
「3六玉と入玉を目指して、3四金と置かれたのがアウトでした。4八歩なら、まだわかんなかったみたいです」
と返した。
本譜は、6四金、8三玉、6五馬、7四桂と追い込んでから、4八銀打で受けに回った。8九飛成に7九金と引いたのが悪手で、同龍と切られてしまった。
【82手目】
「これに同銀が最後の大ポカで、5八角以下の詰みです」
正着は、8六香。
これでも後手敗勢だから、もっと前の段階で終わっている将棋だ。
収束まで聞き終えた早紀ちゃんは、目を瞑って、腕組みをした。
「うーん……これって、萩尾劇場じゃない? 亜紀が紹介する意味ある?」
「わたしの将棋かどうかはおいといて、後手の指し回し、凄くない? 手順に逃げてた銀が攻めに参加して、寄せちゃうんだよ? 萩尾先輩がこれをチョイスするとは思えないから、わたしがしとこうかなあ、って」
「いや、そこまでしなくてもいいじゃん」
見解の相違。自分が活躍した棋譜じゃなくて、自分が一番凄いと思った棋譜ってことだよね。
記事としても、面白いものが書けそうだ。
僕がうんうん頷いていると、長尾くんは、
「犬井の腕前が問われそうだ。どう料理する?」
と、好奇心から訊いてきた。
僕は慌てずに返す。
「そうだね……亜紀ちゃんの棋譜であることに、変わりはない。視点は亜紀ちゃんに固定しつつ、新鮮な驚きを読者に伝えたいかな。自分が先手を持っていたら、びっくりするだろう。そういうエンパシーが欲しいよね」
長尾くんは、三度笑った。
「あいかわらず、優等生っぽい回答だ……っと、僕が口を挟むことじゃなかった」
長尾くんが口を閉じたところで、僕は亜紀ちゃんに、全体の感想を尋ねた。
「翻弄された……っていうのは、あんまり正しくないと思います。なんというか、気づいたら負けになってたんです。もちろん、初めての経験じゃないんですけど……将棋って奥が深いな、と、あらためて思いました」
やや無難に寄せたね。
負けにも不思議の負けあり、か。
「ありがとう。最後は長尾くんで、よろしく」
場所:第10回日日杯 4日目 女子の部 17回戦
先手:二階堂 亜紀
後手:萩尾 萌
戦型:横歩取り
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △4二玉 ▲5八玉 △7二銀
▲9六歩 △6四歩 ▲3六飛 △8二飛 ▲8七歩 △2五歩
▲3八金 △1四歩 ▲3四飛 △6五歩 ▲2四飛 △8八角成
▲同 銀 △2二銀 ▲6四飛 △5四角 ▲同 飛 △同 歩
▲2三歩 △3三銀 ▲7五角 △5二玉 ▲2二角 △同 金
▲同歩成 △同 銀 ▲2三歩 △3三銀 ▲3一角成 △4四銀
▲2一馬 △2六歩 ▲6四桂 △5三玉 ▲7二桂成 △同 金
▲3四銀 △6三玉 ▲4三銀成 △5五銀 ▲1一馬 △2七歩成
▲4八金 △4六歩 ▲5三金 △7四玉 ▲5四金 △4七歩成
▲同 金 △4六歩 ▲5五馬 △4七歩成 ▲同 玉 △4九飛
▲3六玉 △3四金 ▲6四金 △8三玉 ▲6五馬 △7四桂
▲4八銀打 △8九飛成 ▲7九金 △同 龍 ▲同 銀 △5八角
▲4七銀 △3五歩 ▲2七玉 △4九角成 ▲3八銀引 △1五桂
まで90手で萩尾の勝ち




