第九話 冷たい群衆
「……人が、多すぎるな」
世田谷の静かな住宅街から駅へ向かう道すがら、彰一は右手のポケットに入れた妹・ハツの手縫いのお守りをそっと確かめ、パーカーのフードを目深にかぶり直して低く呟いた。
午前七時半。
駅へ向かう歩道は、スマホの画面を見つめながら無表情で歩く通勤・通学客で埋め尽くされていた。
車道ではひっきりなしに自家用車やトラック、バスが排気音を響かせて通り過ぎていく。
「これでも、まだ駅から少し離れてるから空いてる方だよ」
葵は隣を並んで歩きながら、彰一が不審な行動を取らないよう気を配っていた。
彰一の歩き方は、現代の若者とは根本的に異なっていた。
背筋は一切曲がらず、目線は常に周囲の状況を鋭く警戒するように動いている。
歩幅も正確で無駄がない。
どんなに黒いパーカーを着ていても、漂う立ち振る舞いがあまりにも「異物」だった。
「……みな、下を向いて歩いているな。空を見上げる者は一人もおらん」
彰一の指摘に、葵は息を呑んだ。
確かに、すれ違う人々は誰一人として朝の青空を見上げていなかった。
全員が手の中の小さな光る板――スマートフォンに視線を吸い付けられ、まるで仕組まれた機械のように同じ速度で歩調を合わせている。
「スマホを見てるの。ニュース見たり、連絡取ったり……まあ、現実から目を背けてる人も多いけど」
「手の中の小箱に夢中になり、周囲の脅威に警戒すら払わぬとは……。もし今、上空から爆撃機が襲来したら、全滅だな」
「爆撃機なんて来ないから大丈夫だってば……」
葵は苦笑しつつも、胸の奥に小さな刺が刺さるのを感じた。
爆撃機は来ない。
だが、この街を歩く人々――そして自分自身の顔にも、生き生きとした色彩はない。
誰もが疲弊し、今日という一日を乗り切ることだけを考えて、死んだような目で足元を見つめている。
やがて二人は、駅前のロータリーに到着した。
頭上を横切る高架線を、銀色の電車が轟音とともに駆け抜けていく。
駅の改札口からは、吐き出されるように続々と人が流れ出し、同時に飲み込まれていく。
「……あの鉄の塊は何だ? 機関車か?」
「電車だよ。小田急線。電気で走るの」
「線路が頭上を通っておるのか……。街の立体構造が、昭和の世とはまるで違う」
彰一は駅前ビルのガラス壁や、巨大な電子看板を見上げ、息をのんだ。
電子看板には、色鮮やかなコスメの広告や、アイドルグループのMVが眩しいほどの光で映し出されている。
戦時中の「欲しがりません勝つまでは」の標語が掲げられていた街並みとは、あまりにもかけ離れた、過剰なほどの欲望と情報の濁流。
その時、駅前のスクランブル交差点で信号が赤から青に変わった。
一斉に歩き出す何百人もの群衆。
彰一はその人波の真ん中で、思わず足を止めた。
肩が触れ合いそうなほど近くをすれ違う人々。
しかし、誰一人として隣を歩く他人に視線を送る者はいない。
お互いを透明な障害物であるかのように無関心に避け、通り過ぎていく。
「……豊かだな」
彰一の口から、ポツリと言葉が漏れた。
「街には物があふれ、誰も飢えておらず、空から爆弾が落ちてくる気配すらない。我が国が目指した『富国』の姿が、ここにある」
葵は彰一の横顔を見た。
彼の瞳は、眩しい街の光を映しながらも、深く失望しているように揺れていた。
「……だが、なぜだ。これほど豊かな街にいる人間たちが、なぜこれほどまでに冷たく、死んだ顔をしているのだ。……これが、私たちが命を捨てて守った未来の民衆の姿なのか」
彰一の声は静かだったが、その奥には悲痛な問いかけが込められていた。
「神崎さん……」
葵は言葉を詰まらせた。
「手取り17万で生きるだけで必死なんだ」と昨夜叫んだ自分の言葉が、脳裏をよぎる。
物資にあふれ、命の危険もない現代。
けれどここにあるのは、目に見えない格差と孤独に怯え、互いを淘汰し合う「静かな戦場」だった。
そのとき、葵のポケットの中でスマホが烈しく震えた。
画面を見ると、派遣会社の担当者からの着信だった。
「……あ、やばい。電話出なきゃ」
葵は急いで通話ボタンを押し、彰一から少し距離を置いた。
「はい、水野です。……え? 今日の現場、急にキャンセル……? そんな、今日入らないと今月の家賃が……!」
葵の声が焦りで引きつる。
現代の厳しさという別の現実が、容赦なく二人を押し潰そうとしていた。




