第十話 見えない戦場
「……はい。分かりました。……失礼します」
電話を切り、葵は力なく腕を垂らした。
スマートフォンの画面が暗転し、そこに自分の青ざめた顔が映り込む。
「現場のクライアント都合で、今日のシフトは取り消しだって。……一応『別の現場を探す』とは言ってたけど、どうせこの時間から埋まるわけないよ」
乾いた笑いが葵の唇から漏れた。
今日一日働いて入るはずだった日給、約一万円。
毎月の家賃と光熱費、そして食費をギリギリで回している葵にとって、その一万円の欠損は致命的だった。
「……取り消し、とはどういうことだ?」
少し離れた場所で静観していた彰一が、ゆっくりと葵のもとへ歩み寄ってきた。
パーカーのフードの陰から覗くその瞳には、深い困惑の色が浮かんでいる。
「言葉通りの意味だよ。今日はもう働かなくていい……ううん、働かせてもらえなくなったの。直前キャンセル」
「働きたいという意欲があり、体も健在であるにもかかわらず、上からの通達一本で職を奪われるというのか。……それは、あまりにも理不尽ではないか」
彰一の問いには、真摯な怒りが含まれていた。
軍隊において命令は絶対であったが、それは国家の命運を賭けた作戦の下での話だ。
このような、一個人の生存を脅かすような理不尽な通告が、電話の小箱ひとつで一方的に言い渡される世界。
「これが、私の『日常』なんだよ」
葵は苦笑いしながら、駅前の人波から外れるように路地裏へと足を進めた。
彰一も無言でそのあとに続く。
「派遣っていうのはね、会社にとって都合のいい『調整弁』なの。仕事が増えれば呼ばれるし、いらなくなれば切られる。文句を言ったら次の仕事をもらえなくなるから、泣き寝入りするしかない」
路地裏の小さな公園に辿り着き、葵はペンキの剥げかけたベンチに腰を下ろした。
膝の上に置いた両手が、かすかに震えている。
「神崎さん、さっき『なぜみんな死んだような顔をしてるのか』って言ったでしょ?」
彰一はベンチの隣には座らず、葵の少し前に立って、軍人らしい直立の姿勢で彼女を見下ろした。
「あぁ。街には物資があふれている。にもかかわらず、人々の表情には生気がなかった」
「みんなね……怯えてるの。いつ自分が『いらない存在』になるか、いつ今ある生活が壊れるか。爆弾は落ちてこないけど、見えないナイフがずっと背中に突きつけられてるみたいな感じ。……少なくとも、私はそう」
葵は膝を抱え込み、視線を地面に落とした。
「手取り十七万じゃ、貯金なんてできない。怪我や病気をしたら一発で終わり。友達と遊びに行く余裕もなくて、SNSでみんなのキラキラした生活を見て落ち込んで……。何のために生きてるんだろうって、毎日思ってる」
静寂が二人を包んだ。
遠くで響く電車の走行音と、公園の木々を揺らす風の音だけが流れていく。
彰一は右手のポケットに手を入れた。指先に触れるのは、妹のハツが縫ってくれた布のお守りの、少しざらついた感触だ。
昭和二十年の知覧。
明日をも知れぬ極限状態の中で、散っていった仲間たちと共に「未来の日本のために」と自分も死を覚悟していた。
飢えと爆撃に怯える母や妹に、いつか豊かで平穏な暮らしが訪れることを祈りながら。
だが、八十年後の未来にいたのは、飢えからは解放されたものの、目に見えない脅威と孤立感に心を殺されかけている若者だった。
「……水野殿。いや、葵さん」
彰一が静かに言い直した。朝、伝えた様に自分の名を呼んだ彼の声に、葵は不意を突かれたように顔を上げた。
彰一はまっすぐに葵の目を見つめていた。その表情には、自責と、そして確固たる意志が宿っていた。
「私は……勘違いをしていたようだ」
「え……?」
「この時代には、戦場などないと思っていた。爆風も、撃墜される恐怖もないのだからな。……しかし、それは私の思い上がりだった」
彰一はゆっくりと膝を折り、葵と同じ目線に腰を落とした。
「お前たちは……この豊かさという透明な檻の中で、たった一人で戦っているのだな。誰の支援も受けられず、明日という見えぬ敵と」
葵の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「派遣切り」も「生活苦」も、世間からは「自己責任」の一言で切り捨てられてきた。
誰にも理解されず、甘えだと笑われてきた痛みを、八年前や十年前の誰でもなく、昭和の地から来た青年将校だけが、真っ直ぐに「戦い」として認めてくれたのだ。
「神崎さん……」
「我が同胞が命を賭して遺したこの世界で、お前のような若者が一人で擦り減っていくのを……黙って見過ごすわけにはいかん」
彰一は立ち上がり、力強く世田谷の街並みを振り返った。
「今日、仕事がないのであれば都合が良い。この街を、この時代を、もっと私に見せてくれ。現代という戦場で生きていくための術を、私は知らねばならん」
暗く沈んでいた葵の心に、小さな灯火がともったような気がした。
「……うん。じゃあ、まずは……お金をかけずにこの街を歩いてみようか。2026年の本当の姿を」
二人は公園をあとにし、再び世田谷の街へと歩き出した。




