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未来への約束  作者: 紫煙くゆり


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第十一話 虚構の価値観

平日の午前九時を回った頃。

派遣先からの突然の出勤取り消しにより、行き場を失った葵と、戸籍すら存在しない昭和二十年の陸軍少尉・神崎彰一は、世田谷の古い商店街の雑踏の中にいた。

頭上を渡る秋の冷たい風が、アーケードのフラッグをパタパタと揺らしている。

シャッターの閉まった個人商店の合間には、真新しいドラッグストアや24時間営業のコンビニ、大型スーパーが軒を連ねていた。

店の外壁には派手な黄色のポップがところ狭しと貼り巡らされ、「大特価」「タイムセール」「限界値下げ」といった過剰な文字が躍っている。


「……物が、溢れかえっているな」


彰一は黒いパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、ずらりと並ぶ店頭の陳列棚に細い目を向けた。


「うん。物だけはあるよ。お金さえ出せば、世界中の何でも手に入る」


葵はトボトボと歩きながら、力なく答えた。

先ほどの派遣会社の担当者からの無機質な電話が、まだ耳の奥で嫌な残響を残している。

来月の家賃、電気代、スマホの通信費、そして毎日の食費。

頭の中で電卓を叩けば叩くほど、胸の奥がキュッと締め付けられるような息苦しさに襲われた。


ふと、隣を歩いていた彰一の足がピタリと止まった。


彼が視線を向けていたのは、スーパーの店頭に設けられた割引食品のワゴンと、ガラス張りの惣菜コーナーだった。

ちょうどエプロン姿の店員が、プラスチックパックに入った惣菜やパンに、手際よく赤と黄色のシールを貼り付けている最中だった。


『半額』『見切り品・50円引き』『処分価格』。


「……葵さん。あのシールは、何だ?」


「え? ああ、消費期限が近いから安くしてるの。売れ残ったらそのまま捨てちゃうから、安くして売り切るんだよ」


「……まだ十分に食べられる温かい食事が、これほどの量で売れ残り、安売りされ、いずれ捨てられるのか。昭和二十年……配給制のただ中にいた私からすれば、夢のまた夢のような、おそろしい光景だ」


彰一の瞳に、眩しさと、どこか戸惑いの色が浮かぶ。

知覧の基地で食べた、わずかな芋混じりのご飯や薄い味噌汁。

母や妹がひもじさをこらえて自分に持たせてくれた握り飯。

それらとは比べものにならないほどの食料が、ただの「廃棄寸前の商品」として雑多に扱われていた。

ワゴンの前には、シールが貼られるのをじっと待つ数人の買い出し客が集まっていた。

葵の足が、そのワゴンの手前で固まった。


(……半額のパン、買って帰ろうかな。今日の夜ご飯代、少しでも浮かせないと……)


そんな情けない思考が脳裏をよぎる。

派遣を当日キャンセルされ、今日の収入が一瞬でゼロになった自分。

割引シールが貼られるのを物欲しそうに待つ列の後ろに並ぼうとする二十四歳のフリーター。

惨めさと情けなさが喉の奥まで込み上げてきて、葵はキュッと唇を噛み締め、見なかったことにしようと一歩後退りした。

しかし、その葵の肩をすり抜けるようにして、彰一の手がすっと伸ばされた。


「神崎さん……っ?」


彰一は無言のまま、ワゴンの中から一つ、『半額』シールが貼られたコッペパンを手に取った。

手の中でその重みを確かめるように、じっと見つめている。


「……これだけの食糧が溢れながら、お前はこれを買うことすら躊躇うのか」


「……だって、惨めじゃない。派遣切られて、お金なくなって、朝から見切り品漁るなんて……。ね、いいから行こう! そんなの気にしなくていいから!」


葵は焦って彰一の袖を引っ張った。

これ以上、自分の生活の困窮と惨めさを、彰一に見せつけたくなかったのだ。

だが、彰一はその場から一歩も動かなかった。

彼がゆっくりと振り返り、葵を見つめた瞳には――憐れみも、軽蔑も、あきれも存在しなかった。

ただ真っ直ぐに、静かな敬意を込めて葵の顔を見据えていた。


「……恥じる必要など、どこにある」


低く、けれど芯の通った声だった。


「え……?」


「お前は昨日、私に言った。『生きるだけで精一杯だ』と。……私はそれを見たとき、現代の若者は満たされた環境の中で甘えているのではないかと、どこかで思い違いをしていた。だが、それは私の間違いだった」


彰一は手に持ったパンをそっとカゴに戻すと、周囲の過剰なまでに華やかな街並みを静かに見渡した。


「この豊かな街の片隅で、明日の糧を得るために泥水をすするような思いで踏ん張っている。……それは、戦場で敵の砲撃に耐えながら陣地を守るのと、何ら変わらん。立派な、生き残るための戦いだ」


葵の呼吸が、ふっと止まった。

世間からは「自己責任」「努力不足」「フリーターの自業自得」と切り捨てられてきた自分の日常。誰も褒めてくれず、自分自身でも惨めだと蔑んでいた日々を、八十年前の空からやってきた青年が、「戦い」として、一つの誇りとして肯定してくれた。

視界が急速に歪み、目頭が熱くなる。葵は必死で歯を食いしばり、こぼれそうになる涙をこらえた。


「……何カッコつけてるのよ。ただの貧乏人の買い出しだよ……」


「貧乏人、か」


彰一は自嘲気味に、小さく口元を緩めた。


「私たちの時代は、『国のため』と叫んで命を捨てることが美徳とされた。だが、私たちが死を賭して護ろうとした未来で……お前のような若者が、たった一人で明日の恐怖と戦わされている。……申し訳ないのは、私の方だ」


「神崎さん……」


「だが、お前は今日も生きている。職を奪われようが、理不尽に踏みにじられようが、諦めずにこの足で立っている。……それは、私が知るどんな兵士よりも、高く気高い姿だ」


秋の風が、商店街のアーケードを吹き抜けていく。

派手な看板の隙間から、冷ややかな現代の空気が二人を包み込む。

けれど、葵の胸の中にあった凍てつくような孤独感は、確かに温かい何かによって解かされ始めていた。


「……お腹、空いちゃったな」


葵は鼻をグッとすすると、照れくさそうに微笑んだ。


「あぁ。……今日のところは、私の……いや、私のポケットにある軍資金で、昼飯を奢らせてくれ」


「え? 神崎さん、お金持ってるの?」


「これだ」


彰一が自信満々にパーカーのポケットから取り出したのは、昭和二十年当時の紙幣や軍票ではなく――昨日葵が渡したジーンズのポケットに入っていた、千円札二枚と小銭だった。

葵が部屋の棚に「緊急用」として置いておいたへそくりだ。


「それ、私の部屋の棚から勝手に持って出たでしょ!」


「すまない。無断で拝借した。後日、この時代の労働によって必ず倍にして返す」


大真面目な顔で宣言する彰一に、葵は思わず吹き出してしまった。

八十年の時空を超えて出会った元・陸軍少尉と、世田谷の片隅で日々にすり減る派遣社員。

噛み合わないはずの二人は、冷たい街の真ん中で、しっかりと足並みを揃えて歩き出し始めていた。

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