第八話 現代への一歩
朝の光が、薄いカーテン越しに六畳間へ差し込んでいた。
葵が目を開けると、畳の上に正座し、背筋をピンと伸ばした彰一と目が合った。
彼はすでに目を覚まし、葵を起こさぬよう息をひそめてじっと待っていたらしい。
「……おはようございます、水野殿」
「……おはよう。神崎さん、寝られた?」
「あぁ、十分に休ませてもらった」
そう答えつつも、彰一の目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。
見知らぬ天井、聞き慣れぬトラックの走行音、そして八十年という時空の断層。
眠れるはずもなかったのだ。
葵は体を起こし、スマホで時間を確認した。
午前七時十五分。
「よし……今日、私は派遣先に行かなきゃいけないから。神崎さんをここに一人で置いておくわけにもいかないし、外に出る準備をしよう」
葵はクローゼットを開け、以前付き合っていた元カレが置いていった服や、自分が着ているオーバーサイズの私服をごそごそと引っ張り出した。
「まずはその軍服を着替えて。血もついてるし、世田谷の街でそれ着てたら一発で通報されるから」
葵が差し出したのは、黒のシンプルなパーカーと、ややゆったりしたジーンズ、新聞紙を敷いた上に置いた灰色のスニーカーだった。
彰一はその服を珍しそうに手にとり、眉をひそめた。
「……これが、現代の男の着物か? 筒袖に……紐のついた頭巾のようなものか。生地に仕立ての張りがないな」
「いいから着てみて! ほら、着替え終わるまであっち向いてるから」
葵が背を向けると、背後で衣擦れの音が響いた。
軍服のボタンを外す音、革帯を解く音。
八十年前に仕立てられた頑丈な軍服が脱ぎ捨てられ、現代のファストファッションの衣類に包まれていく。
その途中で、彰一の動きがふっと止まった。
畳まれた軍服の胸ポケットから、彼は愛おしむように小さな布包みを取り出した。
妹のハツが手縫いで作ってくれた、あのお守りだ。
色褪せた生地に不揃いな針目が並ぶそれを、彰一はそっと両手で包み込み、一度固く目を閉じた。そして、意を決したようにパーカーのポケットへと大事に仕舞い込んだ。
「……出来たぞ、水野殿」
葵が振り返ると、そこにいたのは「昭和の青年将校」ではなく、どこにでもいそうな20代の青年だった。
黒のパーカーに身を包んだ彰一は、すっきりとした面立ちと引き締まった体躯も相まって、渋谷や下北沢の街を歩いていても違和感のない佇まいになっていた。ただ、立ち姿のあまりの美しさと、瞳に宿る鋭い意志だけが、現代の若者とは一線を画している。
「……うん、思ったより似合ってる。これなら街を歩いても怪しまれないよ」
「……非常に落ち着かん。まるで下着のまま外に出るような心持ちだ。腰に佩く帯もなければ、身を締める感覚もない」
彰一は首元を引っ張りながら、心底居心地悪そうに呟いた。
「贅沢言わない! あと、一番大事なのは喋り方だからね。街で『〜であります』とか『〜殿』とか言ったら目立つから」
「言葉遣い……か。心得た。郷に入っては郷に従うのが軍人の鉄則だ」
「じゃあ、ちょっと練習。『水野殿』じゃなくて『葵さん』か『水野さん』ね」
彰一は真面目な顔で頷き、ゴホンと咳払いをした。
「……わかった。葵……さん」
慣れない呼び方に照れたのか、彰一の耳の尖端がかすかに赤くなった。
葵は引き出しから消毒液と新しいガーゼ、サージカルテープを取り出した。
昨日処置した額のガーゼをそっと剥がし、傷口を優しく消毒し直して、新しいガーゼをあててテープで留める。間近で見る少尉の瞳は真っ直ぐで、大昔の歴史の人物ではなく、いま確かに同じ空気を吸っているのだという実感が込み上げてくる。
「よし、手当もこれで大丈夫。それじゃあ……『2026年』を見に行こうか」
葵がアパートのドアノブに手をかけ、鍵を回した。
カチャリという金属音が響き、ドアが外に向かって開く。
朝の光とともに、現代の東京・世田谷の空気となだらかな雑音が二人の全身を包み込んだ。
排気ガスの匂い、電線が複雑に交差する青空、遠くを走る電車の踏切音、そしてスマートフォンを握りしめながら駅へと急ぐ通勤者の群れ。
彰一はドアの敷居をまたぎ、一歩、現代のコンクリートを踏みしめた。
その瞬間、彼の身体が微かに強張った。
八十年の時を超えて散っていった仲間たちの誰も見ることができなかった「未来」が、彼の目の前にどこまでも広がっていた。




