第七話 居場所と家族の影
「居場所、か……」
神崎彰一少尉は、窓の外の暗闇を見つめたまま、低く呟いた。
安アパート「月見荘」の窓越しに見える世田谷の街並みは、夜空を焦がすほどの人工の光に満ちている。
空襲の警戒警報も、漆黒の遮光カーテンも存在しない夜。
それは彼が夢にまで見た「平和な日本の夜景」であるはずだったが、身寄りのない彼にとってはあまりにも広大で、冷ややかな異界だった。
「軍籍も、所属する部隊も、身分を証明する手帳すら……この八十年後の世界では、何の価値も持たぬのだな」
「うん……。ごめんね、意地悪で言ったんじゃないの。でも、いまの日本で『身元不明の成人男性』が街をうろうろしてたら、すぐ警察に補導されるか逮捕されちゃうから」
葵はマグカップを両手で包み込みながら、現実的な問題を口にした。
現代の日本は、防犯カメラとマイナンバー、身元確認のシステムもガチガチに固められている。
戸籍も住民票もなく、携帯電話すら持たない二十二歳の男。
ましてや血の滲んだ軍服を着た人間が外を歩けば、110番通報されるまでに10分もかからないだろう。
「警察……か。巡査や憲兵のようなものだな。しかし、私は取り調べで何を話せばいい? 『自分は昭和二十年の知覧基地から来た陸軍少尉だ』とでも言えばいいのか?」
「絶対ダメ!! 一発で精神病院に送られるか、変質者扱いされるよ!」
葵は即座に手を横に振った。
「では……どうすればいいのだ。お前にも迷惑はかけられん。夜が明けたら、私はここを出て——」
「どこ行くのよ! 行くあてなんてないでしょ!?」
葵の声が少し高くなった。
さっきまで「腑抜けた現代人」と罵られ、激しく言い争った相手だ。本来なら関わり合いたくもないし、追い出しても誰も葵を責めないだろう。
だが、使い捨ての派遣社員として社会の隅っこで身を縮めて生きてきた葵には、この「時代から置き去りにされた男」の孤独が、他人事とは思えなかったのだ。
「……とにかく、今夜はここにいて。外は雨上がりで寒いし、警察に見つかったら終わりだから」
「だが、婦人……いや、水野殿。未婚の男女が一つ屋根の下で夜を明かすなど、あまりにも不順だ。貴殿の名誉に関わる」
「昭和の価値観持ち込まないで! 今はそんなこと言ってる場合じゃないの! 」
葵は自分の小さなパイプベッドと、足元に敷かれた薄いラグマットを見遣った。
「ベッドは私が使うから。神崎さんはそこの床で寝て。布団は……予備がないから、私の冬用コート掛けてあげる」
「……そこまで世話になるわけにはいかぬ」
「いいから! 頑固だなあ、もう!」
葵はクローゼットから厚手のコートと、押し入れの奥に眠っていた古い毛布を引っ張り出し、彰一の前にバサリと置いた。
彰一はしばらくその服と毛布を見つめていたが、やがて膝をつき、深々と頭を下げた。
「……重ね重ね、申し訳ない。この恩は、必ずや返す」
「恩とかいいから……。あ、怪我のガーゼ、明日新しいの買ってくるから、触らないでね」
「承知した」
彰一は膝の上に畳んだ軍服の上着を枕代わりにし、畳の上に横たわった。
244戦隊の飛行服に身を包み、知覧での出撃直前に爆撃を受け、その爆風に巻き込まれてから、わずか数時間。彼の身に起きた出来事はあまりにも凄惨で、荒唐無稽だった。
葵は部屋の壁のスイッチを押し、LEDの照明を消した。
パッと部屋が暗闇に包まれ、窓の外から遠くの環状八号線を走るトラックの走行音だけが、かすかに響いてくる。
暗闇の中で、二人の荒い息遣いが交差する。
「……神崎さん」
暗闇に向かって、葵が小さく呼びかけた。
「なんだ、水野殿」
「……知覧って、鹿児島のだよね。ご家族とか……いたの?」
しばしの沈黙があった。
やがて、暗闇の中から彰一の静かな声が返ってきた。
「……母と、妹が一人いる。妹の名は、ハツという。今年で十六になるはずだった」
「……そっか」
「出撃の前夜、妹の手縫いの袋に入ったお守りを渡された。『兄上、どうかご無事で』とな。……だが私は、そのお守りをポケットに入れたまま、妹の待つ時代を捨ててここへ来てしまった」
彰一の声が、ほんの少しだけ震えていた。
激怒でもなく、教条的な叫びでもない。ただの二十二歳の兄としての、胸をかきむしられるような悔根。
葵は胸がキュッと締め付けられるのを感じた。
自分には帰る実家があり、ウザいと思いながらもたまにLINEを送ってくる両親がいる。だが、この男の家族は、もう八十年も前に歴史の露と消えているのだ。
「……お兄ちゃんのこと、きっと自慢に思ってたよ。ハツさん」
「……どうだろうな。残された者にとって、逝った者はただの思い出にしかならん」
彰一は静かに目を閉じた。
「……水野殿」
「なに?」
「貴殿が言った『生きるだけで精一杯』という言葉……忘れぬ。明日、この世界を私の目で確かめさせてくれ。お前たちが生きている『平和』の正体を」
「……勝手にすれば。でも、目立つ行動したら即アウトだからね」
「あぁ。分かっている」
八十年という気の遠くなるような時間を隔てた二人の夜が、六畳一間の暗闇の中で静かに更けていく。




