第六話 現代の温もり
「何もないなあ……」
葵は小さな冷蔵庫を覗き込み、小さく呟いた。
中に入っていたのは、賞味期限ギリギリの卵が二つ、すっかり萎びたキャベツの残り、そして賞味期限切れの麦茶のペットボトルだけ。
普段の自炊がいかに適当であるかが如実に現れている。
(これじゃあ、まともなものは作れないか……)
葵はため息をつき、冷蔵庫のドアを閉めた。
書籍や買い置きの棚を探すと、エコバッグの中に仕事帰りに最寄りのコンビニで買った、最後の生き残り――カップラーメンが一つと、冷凍の焼きおにぎりが二個見つかった。
「あのさ……ちゃんとしたものじゃなくて申し訳ないんだけど」
葵は袋をごそごそと漁り、カップラーメンの容器と焼きおにぎりを取り出して振り返った。
「これならすぐできるけど……食べる?」
彰一は畳の上に正座したまま、葵の手元をじっと見つめた。見たこともない樹脂製の容器に、色鮮やかな印刷。彼の知る「戦時中の非常食」や「軍の配給品」とは似ても似つかない代物だった。
「……それは、何だ?」
「カップラーメン。お湯入れて三分待つやつ。あと、電子レンジで温めるだけの焼きおにぎり」
「かっぷらーめん……? 電子レンジ……電気の力で加熱するものなのか?」
「ううん、ラーメンはお湯を入れるだけ。おにぎりはレンジっていう機械で温めるの。すぐできるから、そこに座ってて」
葵は電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れた。
すぐに「ブーーッ」という小さな起動音とともにランプが灯り、轟音を立ててお湯が沸き始める。
その無駄のない素早さに、彰一は驚きを隠せず、じっと機器を見つめた。
「……火も使わずに、これほどの速度で湯が沸くのか。仕組みがどうなっているのかは見当もつかんが……恐ろしく効率化されているな」
「まあ、今の生活家電はみんなこんな感じだよ」
葵はカップラーメンのフタを開け、粉末スープを投入した。
そして、お湯を内側の線まで正確に注ぎ込む。
フタの上に小さな樹脂製のブロックを乗せると、キッチンタイマーのボタンを「3:00」に合わせてピッと鳴らした。
次に、冷凍の焼きおにぎりを耐熱皿に乗せ、レンジの扉を開けて放り込む。
「ええと、500ワットで……1分半くらいだっけ」
ボタンを押し、ガタガタと音を立てながら回転を始めた電子レンジを、彰一は真剣な面持ちで見つめていた。
やがて、タイマーが「ピピッ、ピピッ」と軽快な電子音を鳴らした。
「はい、出来上がり」
葵がレンジの扉を開けると、醤油と香ばしい焦がし味噌の匂いが、ふわっと狭い部屋に広がった。
戦時中の厳しい配給や粗末な代用食の匂いとは全く違う、圧倒的な「油脂と調味料」の匂い。彰一の喉が、ゴクリと大きく鳴った。
さらに三分後、カップラーメンのフタを剥がすと、湯気とともに濃厚な香りが立ち上る。
葵は割り箸を割って彰一に差し出した。
「熱いから気をつけてね。どうぞ」
彰一は恭しく両手で割り箸を受け取ると、目の前に置かれたラーメンの容器と、皿に盛られた焼きおにぎりに視線の焦点を合わせた。
その瞳には、先ほどの怒りや絶望とは違う、言い知れぬ気恥ずかしさと戸惑いが浮かんでいた。
「……いただく。このようなご馳走を、私のような身に……」
「大げさだなあ。高価なものじゃないよ、コンビニの安物だから」
彰一は箸を握り、不慣れな手つきで麺をすくい上げた。湯気の向こうで、スープがキラキラと光っている。
おそるおそる口に運ぶと、濃厚な旨味と塩気が舌の上で弾けた。
「っ……!」
彰一の動きが、ピタリと止まった。
「美味しい……?」
「これは……美味い、という言葉では足りぬな。出汁の旨味がこれほどまでに深く、脂のコクが全身にしみわたる……。昭和の世では、将校ですら滅多に口にできぬほどの味だ……」
夢中になって麺を啜る彰一の姿は、さっきまで「腑抜けた平和」と怒鳴り散らしていた鬼気迫る陸軍将校とは打って変わり、どこか年相応のあどけなさを残した二十二歳の若者そのものだった。
焼きおにぎりを一口かじり、香ばしい醤油の風味に目を丸くする。
その食べっぷりを見ているうちに、葵の胸のつかえも少しだけスッと軽くなっていった。
「……そういえばさっき、名前聞けずじまいだったね」
葵は自分のマグカップに注いだお湯をすすりながら、ぽつりと切り出した。
「私は、水野葵。二十四歳。……一応、今のこの世界の住人」
彰一は箸を置き、背筋を正すと、まっすぐに葵を見た。
「私は、神崎彰一。陸軍少尉だ。年齢は、二十二になる」
「少尉さん……。やっぱり、本当の軍人さんなんだよね」
「あぁ。飛行第244戦隊に属し、知覧の空を護っていた。……本来であれば、私も今頃はあの空の露と消えているはずだったのだがな」
自嘲気味に笑った神崎の横顔に、葵は言い知れない切なさを覚えた。
八十年という途方もない時間を飛び越えて、同じ部屋の小さなローテーブルを挟んで、二人は向かい合っている。
「ねえ、神崎さん」
「なんだ、水野殿」
「……この先、どうするの? あなたの居場所、もうこの時代にはどこにもないんだよ」
葵の問いかけに、神崎は窓の外の暗闇を見つめた。
雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から、夜空の星がわずかに顔を覗かせ始めていた。




