第五話 平和の対価
「考えたことあるわけないでしょ……ッ!」
葵の叫びが、狭い六畳間に響き渡った。
感情を押し殺す限界を超え、喉の奥がカッと熱くなる。
彰一は膝をついたまま、血走った目で葵を見上げた。
その鋭い眼光に一瞬怯みそうになるのを、葵は拳を強く握りしめて耐えた。
「考えたことあるかだって!? ないよ! 考えたことも、感謝したこともないよ! だって私、頼んでないもん! 命をかけてくれなんて、一回も頼んでない!!」
「なっ……何だと……!?」
「勝手に死んで、勝手に『未来のため』とか押し付けないでよ! こっちだって……こっちだって生きるだけで精一杯なんだよ!」
葵の声が震え、視界が涙で歪んだ。
手取り十七万。
派遣会社からあてがわれた事務の仕事で、毎月の家賃と光熱費、跳ね上がった食費の支払いに追われる日々。
三ヶ月ごとに「来月、契約が更新されるかどうか」に怯え、切られたらその瞬間から無職になる恐怖と隣り合わせ。
SNSを開けば同世代の輝かしい生活と自分の無力さを比較させられ、街を歩けば誰からも必要とされていないような冷たい疎外感に晒される。
「戦争がないからって、みんなが幸せに笑って暮らしてると思ってんの!? 私は都合のいい駒みたいに使い捨てで働かされて、税金取られて、将来の年金も出るか分かんなくて……! 政治が腐ってるのも、物価が上がってるのも、みんな分かっててもどうにもできないの! 明日の自分の雇用と生活を守るだけで手一杯で、国のことなんて考える余裕なんて……どこにもないんだよ!」
葵は胸を押さえ、荒い息を吐いた。
ポロポロと溢れ落ちる涙が、フローリングの床にシミを作っていく。
「平和だからって、誰も傷ついてないわけじゃない……。死なないだけで、みんなギリギリで生きてんの……。なのに……昔の凄い人たちに『腑抜けた』とか『血の重さを考えろ』とか言われたら……私たちは、どうやって生きていけばいいのよ……」
部屋の中に、重苦しい静寂が訪れた。
テレビの画面では、相変わらず無機質なアナウンサーの声がニュースを読み続けている。
しかし、二人の間には、八十年という時の隔たりが作った巨大な断層が横たわっていた。
彰一は握りしめていた拳の力を、ゆっくりと抜いた。
葵の言葉は、彼にとって予想もしなかった「現代を生きる者」の悲鳴だった。
爆弾も銃弾も飛んでこない。
誰も血を流して倒れることはない。
しかし、目の前にいるこの若い女性の目は、生きる気力を削り取られ、じわじわと不透明な絶望に追い詰められている者のそれだった。
「……飢えも、空襲もないのだろう?」
彰一の声から、先ほどまでの激昂が消えていた。低く、困惑の混じった問いだった。
「……ないよ。食べ物ならコンビニに行けば溢れてるし、空から爆弾が落ちてくることもないよ」
「ならば……なぜだ。なぜそれほどまでに、お前の瞳は死にかけているのだ。何のために我が同胞は、豊かな未来を目指したのだ……」
彰一は力なく両手を床につき、自身の膝を見つめた。
敵の弾丸に倒れるでもなく、国家のために散るでもない。
ただ「日常」という透明な重圧の中で擦り減っていく現代人の姿。
それは、彼が思い描いていた「英霊たちが報われる平和な世界」とはあまりにもかけ離れていた。
その時——。
ぐぅぅぅ、と間抜けた音が狭い部屋に響いた。
彰一の腹が、大きく鳴ったのだ。
出撃直前の空襲、知覧での激しい爆風、そして時空跳躍を経た激しい怒りと動揺。彼の若い肉体は、限界を超えてエネルギーを欲していた。
葵は涙を拭い、呆然と彰一を見た。
彰一は顔を耳まで真っ赤にし、バツの悪そうに視線を背けた。
「……非礼を。忘れてくれ」
「……お腹、減ってんの?」
「武士は食わねど高楊枝……と言いたいところだが、不覚にも腹が減っているようだ」
威風堂々とした態度を保とうとしながらも、耳を赤くしている軍人の姿に、葵の張り詰めていた肩の力がふっと抜けた。
「……待ってて。何か食べるもの探すから」
葵は台所へ向かい、冷蔵庫の扉を開けた。




