第三話 六畳の異界
雨で濡れた軍服は重く、男の体温は驚くほど高かった。
「……くっ、重い……! ちょっと、しっかり歩いてよ……!」
世田谷の路地裏から徒歩五分。
築四十年の木造アパート「月見荘」の狭い階段を、葵は男の腕を担ぎ上げながら必死に登った。
息が切れ、肩が痛む。
警察の赤色灯逃げるように2階奥の201号室へ滑り込み、ドアを閉めてチェーンを掛けた瞬間、葵はその場に膝から崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……! マジでなにしてんだろ、私……」
男は玄関の床に荒い息を吐きながら倒れ込んでいた。
狭いワンルームの玄関が、彼の大きな体と焦げ臭い軍服の匂いで埋め尽くされる。
葵は荒い息を整えながら、急いで壁のスイッチを押した。
パッと白いLEDの光が部屋全体を照らし出す。
「うっ……!?」
眩しさに目を細めた男——神崎彰一は、うめき声を上げながら腕で顔を覆った。
そして、ゆっくりと体を起こすと、信じられないものを見る目で部屋の中を見回した。
そこにあるのは、六畳一間の狭い部屋。
安物のパイプベッド、小さな冷蔵庫、電子レンジ、そして足元に転がるプラスチックのゴミ箱。
現代の若者が暮らす、ありふれた一人暮らしの部屋だ。
しかし、彰一にとってそこは「異界」そのものだった。
「な……なんだ、この明かりは……。白熱灯の温かみも、ランプの炎の揺らぎもない。あまりにも眩しく、そして均質すぎる……。それに、この天井の板は……この壁は……」
「電気だよ、電気。LED。……っていうか、靴履いたまま上がらないでよ! 床汚れるでしょ!」
彰一はハッと足元を見た。
自分が土足のまま板張りの床に足をかけようとしていることに気づき、慌てて靴を引いた。
その動きは素早く、かつどこか泥臭い軍人独特の隙のなさがあった。
「非礼を……赦されたい。足元も見えぬほど混乱していた」
彰一は膝をついたまま、頭を深く下げた。
その礼儀正しさに、葵は拍子抜けした。
路地裏で見せたあの殺気立った瞳とは裏腹に、目の前にいる男の仕草には、筋の通った育ちの良さが滲み出ている。
(……サバゲーの不審者にしては、育ちが良さそうっていうか……礼儀正しすぎでしょ……)
「……いいよ、別に。それより、怪我見せて。血出てたでしょ」
葵は棚の引き出しから、絆創膏や消毒液をまとめた使い古しのポーチを引っ張り出し、彰一の前に置いた。
彰一は落ちていた軍帽を拾い上げ、膝の上に正しく置くと、自身の右脇腹をさすった。軍服の布地が破れ、痛々しく赤黒い血が滲んでいる。
「大したことはない。擦過傷だ。爆風で飛ばされた際の破片が掠めたのだろう」
「大したことないわけないでしょ! ちょっと、上脱いで!」
「む……婦人の前で身なりを崩すわけには……」
「着替えないと手当てできないでしょ! 頑固だなあ、もう!」
葵は半ば強引に、彰一の上着のボタンに手をかけた。硬質なボタンを外し、脱がせた上着のズッシリとした重みと、そこに染み付いた猛烈な「焦げた油と土と汗」の匂いが葵の鼻をついた。
葵の指が、ピタリと止まる。
肌着一枚になった彰一の胸元から肩にかけて、幾重にも刻まれた古い傷痕と、右脇腹に新しくできた生々しい裂傷が見えた。引き締まった無駄のない筋肉。
(……この人、本当に……)
葵の胸の奥で、冷たい不気味な予感が芽生え始めていた。
この男が言っている「昭和二十年」という狂った言葉が、単なる頭の異常ではないかもしれないという恐怖。
ポーチから消毒液とガーゼを取り出し、傷口に触れる。
「痛かったら言ってね」
「大事ない。お構いなく」
彰一はピクリとも表情を変えず、ただじっと部屋の隅に置かれた小さな液晶テレビを見つめていた。
コンセントから伸びる黒いコード、黒く光る画面。
「……婦人。あちらにある漆黒の鏡のようなものは何だ?」
「……テレビだよ。ニュースとか見られるやつ」
「……これが、噂に聞く『テレビジョン』というものか。研究段階だと聞いていたが……一般の家にまで普及しているのか」
葵は思わず溜息をついた。
「普及って……今の日本ならどこの家にもあるの。……はい、手当て終わり。絆創膏じゃ無理だから、ガーゼ多めに貼っといたから」
「……感謝する。かたじけない」
彰一は丁寧にお辞儀をすると、ふと部屋の壁に掛けられたカレンダーに目を留めた。
そこに印刷された鮮やかな写真と、大きな数字。
『2026年 10月』
彰一の瞳が、凍りついたように動かなくなった。




