第二十二話 葛藤と戸惑い
畳の上に広げられた軍服。
その擦り切れた布地から立ち上る、古びた樟脳と戦場独特の微かな匂いに、恵子の鼻腔がツンと刺激された。
(なんなの、これは……。骨董品やレプリカなんて生ぬるいものじゃない……)
恵子は膝の上で自分の手を固く握りしめた。爪が手のひらに食い込むほどの強さだった。
目の前で深々と手をつく青年――神崎彰一。
その凛とした佇まい、一切の揺らぎのない眼差し、そして今の世の中では誰も使わない硬質な言葉遣い。
すべてが、彼が語った「昭和二十年の特攻隊員」という狂気じみた主張と不気味なまでに合致していた。
だが、頭がそれを拒絶する。
現代を生きるごく普通の主婦として、タイムスリップなどという理屈をどうやって飲み込めというのか。
「……神崎さん」
恵子の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「……本当に、骨董市か何かで手に入れた古着とか、そういうことではないのね?」
「はい。私が知覧の兵舎を出るまで、身に着けていた実物にございます」
「知覧……」
恵子の脳裏に、かつてテレビのドキュメンタリーや歴史資料で見聞きした「知覧特攻基地」の記憶がよぎる。
二十前後で国のために命を投げ出さざるを得なかった、若き飛行隊員たちの姿。
もし、この青年が本当にそこから来たのだとしたら。彼が語る事実の重さに、恵子の胸は圧迫されるような苦しさを覚えた。
しかし、一人の母親としての警戒心が、すぐにその感情に歯止めをかける。
(葵は……葵はこの人を信じ切っている。でも、もしこの人が恐ろしい幻覚を見ている精神異常者だったら? あるいは、巧みな言葉で傷ついた葵の心につけ込んでいるのだとしたら……?)
恵子は葵へ視線を移した。
葵は必死な顔で恵みの表情を窺っている。
東京で疲れ果てた我が子が、今は自分のことよりもこの青年の身元と真実を庇うために必死になっている。
「葵……あなた、本当にこの人の言うことを全部信じているの?」
恵子は、娘の目をごまかしのない強さで見つめ返した。
「タイムスリップなんて、科学的に証明できることじゃないのよ。この人がどんなに真面目に見えても、本当に昔の時代から来たなんて、どうして言い切れるの? あなたが東京で辛くて、誰かに頼りたくて、この人の雰囲気に救われただけなんんじゃないの?」
母親としての冷静で現実的な問いかけ。
それは葵を責めるためではなく、傷ついた娘がこれ以上奇妙な事件や傷に巻き込まれないための、切実な防衛本能だった。
葵は一瞬間を置き、固く唇を噛みしめたあと、静かに、しかし力強く首を横に振った。
「お母さん。私だって最初は信じられなかったよ。頭がおかしくなったんじゃないかって疑った。……でもね、神崎さんと一緒に時間を過ごして分かったの。この人は、現代の私たちが当たり前に使っている言葉の意味や、テレビのニュースの内容に戸惑いながらも、必死でこの世界の現実を理解しようとしていた。決して、嘘をついて私を利用しようとしているわけじゃないの」
葵の目から、一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
「この人は……本当に、自分の生まれた時代から一人だけ取り残されて、行く場所もなくて……それでも自分の信念を曲げずに生きていた。それを『変な人だから』って見捨てることが、私にはできなかった。……私が東京で誰にも必要とされないって絶望してた時に、この人は『葵さんは素晴らしい人だ』って、本気で私を人間として扱ってくれたの」
娘の本音。
絞り出すような泣き声。
恵子の胸が、締め付けられるように痛んだ。
葵がどれほど東京で孤独だったのか、そしてこの謎の青年との出会いが、彼女にとってどれほど大きな救いになっていたのかが、嫌というほど伝わってきた。
彰一は静かに頭を上げたが、弁明も弁解も口にしなかった。
ただ、葵の涙を痛ましそうに見つめ、それから恵みに向かって静かに告げた。
「お母様のご疑念は当然のことにございます。見知らぬ男が娘さんの前に現れ、このような不可解な言動を重ねれば、親として警戒されるのは至極当然。……ですが、葵さんの心根の清らかさと優しさだけは、どうか信じてあげていただきたい。私を救ってくださったのは、他ならぬ葵さんなのです」
客間に、重く長い沈黙が降り積もる。
恵子は広げられた古びた軍服、妹の手縫いのお守り、そして二人の表情を何度も見比べた。
信じることはできない。
常識がそれを拒んでいる。
だが、追い返すこともできない。
娘がここまで必死になり、この青年が漂わせるあまりに異質で本物の気迫を目の当たりにしてしまった以上、無下に排除することなど不可能だった。
恵子は深く、長く息を吐き出すと、ゆっくりと立ち上がった。
「……すぐには、何も判断できないわ」
恵子の声は静かだったが、そこには母親としての固い決意が含まれていた。
「あなたを警察に突き出すこともしないけれど……『はい、そうですか』と信じることもできない。……とりあえず、今日はここにいなさい。お昼の準備をしてくるわ」
恵子はそう言い残すと、引き戸へと向かった。
「お母さん……」
葵の声に、恵子は引き戸に手をかけたまま、振り向かずに答えた。
「葵。……あなたが無事で帰ってきたことだけは、お母さん、本当によかったと思ってるのよ」
静かに引き戸が閉まり、恵子の足音が階段を降りていく。
残された客間には、古い木造家屋の静寂と、軍服から漂うほのかな時代の手触りだけが残されていた。




