第二十三話 階下の困惑
二階の客間から引き戸を閉めて出てきた恵子は、廊下に佇んだまま、ゆっくりと深く息を吐き出した。
手のひらにはまだ、あの古びた軍服の硬い質感と、樟脳に混じるかすかな戦場の匂いの記憶が残っている。
頭の中では「そんな馬鹿な話があるはずがない」という常識と、「あの青年の目と佇まいは決して嘘をついていない」という直感が、激しくぶつかり合っていた。
手すりに手をかけ、ギシギシと音を立てながらゆっくりと階段を降りていく。
その最後の数段を降り切ったところで、恵子は足を止めた。
薄暗い階下の廊下、自室の襖を半開きにした哲夫が、腕組みをしたまま壁にもたれかかって立っていた。
「……お前、今まで上に入り浸って、一体何を話していたんだ」
哲夫の声は低く、苛立ちを押し殺していた。
だが、その瞳の奥には、二階で起きていた「何か」に対する強い探り気配と、隠しきれない動揺が垣間見えた。
「お父さん……」
「あの男は何者だ。さっき居間で吐き捨てたような、気味の悪い戯言をまだ上でも並べ立てていたのか。葵のやつも葵だ、あんな出処の分からない男を庇い立てして……」
哲夫は吐き捨てるように言ったが、恵みは責めるような口調にはならなかった。
ただ、痛ましそうな目で夫を見つめ、静かに首を横に振った。
「お父さん……少し落ち着いて、台所でお茶でも飲みましょう」
「お茶だと? そんな悠長なことを言っている場合か! 家の中に正体不明の男がいるんだぞ!」
「落ち着いてって言ってるでしょう!」
恵子の珍しく強い声に、哲夫は思わず口をつぐんだ。
恵子は台所へ向かうと、湯呑みに残っていたお茶を捨て、新しいお湯を注いだ。
湯気が立つ湯呑みを居間の座卓に置くと、自らも膝を折り、座卓に向かい合った。
哲夫も渋々といった様子で、ドカリと向かいに腰を下ろす。
「……あの子たちが話してくれたこと、全部聞いたわ」
「で、何だってんだ。どんな言い訳をした」
「神崎さん……あの青年の言っていること、理屈じゃ理解できないわ。でも……」
恵子は言い淀み、膝の上で握りこんだ自分の手を見つめた。
「あの子たち、嘘をついているんじゃないわ。神崎さんは……本当に、昭和二十年の知覧の基地から来たって……特攻隊の飛行兵だったって言うのよ」
「……は?」
哲夫の顔から、一瞬すべての感情が抜け落ちた。
数秒の静寂の後、哲夫の眉間にしわが寄り、鼻で笑うような乾いた音が漏れた。
「……お前、正気か? タイムスリップだと? そんな子供の特撮ものみたいな話を、お前まで真に受けたのか?」
「信じられないのは当然よ! 私だって最初は、頭がおかしくなったんじゃないかと思ったわ! 警察を呼ぼうかとさえ思った!」
恵子の目から、溜め込んでいた涙が溢れ出した。
「でもね……神崎さん、リュックの中から自分が着ていた軍服とお守りを出して見せてくれたの。骨董品とかレプリカなんて代物じゃなかったわ。あの生地の傷みも、手縫いのお守りも……そして何より、あの青年の佇まいよ。今の若い子には到底見られないような、気圧されるような真配さと、嘘をついているようにはとても見えない真っ直ぐな目をしていたの……」
「……」
哲夫の喉が、ゴクリと鳴った。
脳裏に、さっき居間で向かい合ったときの青年の姿が蘇る。
「八十年前もそうだった」「世間の目という幻影」――そう言い放ったときの、あの青年の常軌を逸した重圧と、一切の隙のない正座の姿勢。
時代錯誤な言葉遣いを嘲笑しようとした自分を、一瞬で呑み込んだあの圧倒的な気迫。
(……あの男のあの雰囲気は、一体何なんだ……?)
哲夫の心の中に、冷たい戦慄が走った。
だが、長年培ってきた現実的な価値観が、すぐさまそれを激しく否定する。
「……馬鹿馬鹿しい」
哲夫は力なく呟き、煙草に火をつけようとしたが、手がわずかに震えてライターの火がうまく着かない。
舌打ちをしてライターを座卓に叩きつけた。
「そんな話、誰が信じるか。葵が東京で精神的に追い詰められて、変な男に騙されて連れてきただけかもしれんぞ。お前まで一緒になって浮足立ってどうする!」
「お父さん!」
恵子は座卓に身を乗り出した。涙声のまま、心から絞り出すように訴えかけた。
「あの子の話を聞いていて、私、たまらなくなったの……。葵が埼玉を飛び出してから数年間、東京でどれだけ一人で抱え込んで、どれだけ孤独だったか……親である私たちが、何も知ろうとしてあげられていなかったのよ」
「……なに?」
「あの子ね、『自分は失敗作だ』って思い詰めて帰ってきたの。誰にも必要とされないって絶望していた時に、あの神崎さんだけが、あの子を人間としてちゃんと向き合ってくれたんですって……。あの子が泣きながらそんな話をするのを聞いて……私、母親なのに、あの子の孤独にずっと気づいてあげられなかった自分が情けなくて、悔しくて……」
恵子の涙ながらの告白に、哲夫は言葉を失い、固まった。
居間に、石油ストーブの低い燃焼音だけが響く。
哲夫は煙草を指に挟んだまま、閉ざされた二階への階段の方角を、ただじっと見つめ返していた。




