第二十話 ぬくもり
「……葵」
お盆を持ったまま佇んでいた母親の恵子が、静かに声をかけた。
その声には、怒りや咎める色は一切なく、ただ深く滲み出るような労わりがあった。
「二階の客間、布団を敷いてあげるから。まずは荷物を置いて、少し休みなさい」
「……うん。ありがとう、お母さん」
葵と彰一は、ギシギシと鳴る古い階段を上がり、二階の六畳間へと向かった。
長年使われていなかった客間はひんやりと冷え切っていた。
押し入れから出された古い綿布団からは、日干しされたお日様とタンスの樟脳の匂いが漂っていた。
部屋の隅にリュックを置くと、葵は畳の上にペタリと座り込み、小さく息を吐いた。
「……ごめんね、神崎さん。せっかく避難してきたのに、あんな嫌な思いさせちゃって」
彰一は部屋の小さな窓から、朝の光に包まれた集落の風景を静かに見つめていた。
「謝ることなど何もない。むしろ……私の方こそ、お父上に差し出口を叩き、余計に場を乱してしまったかもしれん」
「そんなことないよ。神崎さんがああやって言ってくれなかったら、私、もっと自分を責めてたと思う」
二人が静かに言葉を交わしていると、トントン、と控えめなノックの音が響いた。
引き戸が開くと、恵子が両手に盆を乗せて入ってきた。そこには、湯気を立てる大きなおにぎりと、温かいお味噌汁、そして自家製のたくあんが並んでいた。
「朝早く移動してお腹減ったでしょう。始発で帰ってきたって言っていたし……これ、食べなさい」
「……お母さん」
「神崎さんも、口に合うかわからないけれど、遠慮しないで食べてちょうだい」
「……かたじけなく存じます。いただきます」
彰一が丁寧にお辞儀をしておにぎりを受け取ると、恵子は少しホッとしたように目元を緩め、葵の隣に腰を下ろした。
葵がお味噌汁を一口啜ると、出汁の懐かしい味が口いっぱいに広がり、思わず胸が熱くなった。
葵がおにぎりを頬張るのを見届けると、恵子は少し言い淀むように視線を伏せ、それからゆっくりと話し始めた。
「葵……お父さんのあんな言い方、本当に酷かったよね。ごめんね」
「……ううん。お父さんは昔からあんな調子だし、期待なんてしてなかったから」
「そんなこと言わないの。……あんな風に突っ張ってるけどね、本当は、お父さんだって苦しかったんだよ」
葵が怪訝そうに顔を上げる。
「何が苦しいのよ。私なんて東京に出てから一度もまともに連絡しなかったし、お父さんにとってはいない方が都合のいい娘だったはずだよ」
「違うわ」
恵子は静かに首を横に振った。
「あなたが東京に行ってから、葵から音沙汰がなくなって、お父さんはずっと気にしていたのよ。『自分から電話をかけたらどうなの』って私が言っても、『あいつが自分の足で歩くって決めたんだ。親から連絡するのは野暮だ』って意地を張ってね……。でも、近所の人や親戚から『お宅の葵ちゃん、東京でどうしてるの?』って聞かれるたびに、お父さんは何とも言えない、すっごく寂しそうな顔をしていたの」
恵子の言葉に、葵は息を呑んだ。
「……寂しそうって、お父さんが?」
「うん。近所の子供が立派に働いている話や、東京でバリバリやっているという噂を聞くたびに、お父さんは自分の娘の近況を何も答えてやれなくて……それがね、親として、すごく情けなくて、悔しかったんだと思う。不器用だから、心配だとも、元気でやってるのかとも、一言も口に出せなかっただけで……」
恵子は、葵の冷えた手をそっと包み込んだ。
「葵。あなたが自分で『自分は失敗作だ』なんて思っているなら、それは大きな間違いよ。お父さんも、私だって、そんなふうに思ったことなんて一度もない。あなたがどんな道を選んだって、うちの大切な娘に変わりはないんだからね」
母親のその真っ直ぐな否定が、葵の中で何年も張り詰めていた糸をプツリと切った。
堪えきれなくなった葵は恵子の胸に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。
恵子は何も言わず、ただ背中を優しく、ゆっくりとさすり続けた。
部屋の中で、親子の間に長年横たわっていた冷たい壁が、音を立てて崩れていくようだった。
しばらくして葵が涙を拭うと、恵子は静かに隣の彰一へと視線を向けた。
その瞳には、親としての鋭い観察眼と、戸惑いが入り混じっていた。
「……それで、神崎さん。失礼だけど……お聞きしてもいいかしら」
「なんなりと」
「葵は『しばらく置いてほしい』って言ったけれど……あなたと葵は、いったいどういう関係なの? 東京で出会って、どうして一緒にここまで帰ってきたのか……私に、ちゃんとした説明を聞かせてほしいの」




