第十九話 異質
薄暗い廊下を抜け、通された居間には、昭和の面影を残す重厚な座卓がひとつ置かれていた。
石油ストーブ独特のツンとした匂いがほのかに漂う部屋の中、哲夫は座卓の奥に腕組みをして座り、煙草に火をつけた。
紫煙が天井の蛍光灯に向かってぼんやりと立ち上る。
「……で、どういう風の吹き回しだ」
午前中の柔らかい光が差し込む部屋で、哲夫の目線は、膝を揃えて座る葵と、その隣で背筋をピンと伸ばして正座する彰一に向けられていた。
母親の恵子は、小さなお盆に急須と湯呑みを載せて慌ただしく入ってくると、二人の前にコップを置いた。
「葵, 朝早くから寒かったでしょ。温かいお茶飲んで。……神崎さんも、どうぞ」
「……かたじけない」
彰一が深く頭を下げて湯呑みを受け取った瞬間、哲夫の眉間がピクリと動いた。
「……ん? 今、なんと言った。『かたじけない』だと?」
哲夫はジロジロと彰一の顔を覗き込むように見据えた。
「おい、あんた。今時そんな古臭い武士みたいな言葉遣いをする奴がどこにいる。どこかの劇団の人間か、それとも頭でもおかしいのか」
「お父さん、やめてよ……!」
葵が慌てて遮ろうとしたが、哲夫は不機嫌な目を細めたまま、彰一の立ち居振る舞いを品定めするように続けた。
「それに、その佇まいだ。格好こそそのへんの若い男と変わらない普通の格好をしているが、妙に姿勢が良すぎて、醸し出す雰囲気がどうにも薄気味悪い。……おい、葵。こいつは一体何者なんだ。身元も分からない男を連れて朝一番に突然転がり込んできて、数日置けだなんて正気か」
「それは……」
葵の口が重く閉ざされる。
派遣の現場で追い詰められ、世田谷の駅前で起きた騒動のことも、タイムスリップなんて信じてもらえるはずがない真実も、すべて言えるはずがなかった。
「言えないようなロクでもない理由なんだろうな。お前は昔からそうだ。高校を出るときも『東京で一人でやっていく』なんて啖呵を切っておいて、結局はこのザマか。近所の目もあるんだぞ。世間から脱落した娘が、こんな変な男連れで戻ってきたなんて噂が立ったら、俺がどういう目で見られるか……」
「脱落って何よ……!」
葵の声が跳ね上がった。
抑え込んでいた悔しさと悲しみが、一気に胸の奥から突き上げてくる。
「私は必死で生きてたよ! 毎日満員電車に乗って、派遣先で使い捨てにされて、それでも親に頼りたくないから一人で頑張ってたんじゃない! 失敗作みたいに言わないでよ!」
「誰が失敗作なんて言った! 覚悟もないのに飛び出していって、手に負えなくなったら泣きついてくるその甘えを言ってるんだ!」
怒号が狭い居間に響き渡り、恵子が「お父さん、やめてちょうだい……!」と間に入ろうと手を差しのべた。
殺伐とした沈黙が部屋を支配する中、それまで静観していた彰一が、ゆっくりと座卓の上に両手をついた。
「お父上」
静かだが、腹の底に落ちるような重みを持った声だった。
哲夫と葵の視線が、同時に彰一へと集まる。
「葵さんは、決して甘えでここへ戻られたのではない。……行く当てもなく、ただ追い詰められ、疲れ果てた足取りでここまで来られたのだ」
「あんたにうちの家庭の何が分かる」
哲夫が不機嫌そうに睨みつけるが、彰一の瞳には一切の揺らぎがなかった。
「家庭の事情は存ぜぬ。だが……身を寄せる場所を失い、傷ついた者が肉親の元を頼ることを『甘え』と切って捨てるのは、あまりに不憫ではないか。葵さんは東京で、誰よりも懸命に日々の務めを果たしておられた」
「……」
「世間体とおっしゃったな。……この国は八十年前もそうだった。世間の目、お国のためという題目で若者を追い詰め、個の尊厳を奪った。……現代の親という存在もまた、世間の目という幻影に縛られ、目の前で苦しむ実の子供の手を払いのけるのか」
その言葉を聞いた瞬間、哲夫は思わず鼻白み、心底呆れたように大きく息を吐き出した。
「は……? 八十年? 何だお前、急に。一体何を言い出すんだ? 本当に頭がどうかしているのか……!」
哲夫は気味の悪いものを見るような目で彰一を睨みつけ、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。
「時代錯誤な言葉遣いをしたかと思えば、今度はいきなり何だ。そんな大層な大義名分を持ち出して、他人の家庭の教育に口出しする筋合いはなかろうが。だいたい、赤の他人がもっともらしい顔をして……!」
彰一の瞳の奥にある静かな憤りと、あまりに異質なその言葉選びに、哲夫は怒りよりもむしろ薄気味悪さと強い拒絶感を覚えていた。
哲夫は苦々しそうに顔を歪めると、煙草を灰皿に強く押し付けた。
「……もういい。これ以上変な理屈を聞かされるのはごめんだ。好きにしろ。とりあえず荷物くらい二階に上げておけ」
そう言い捨てると、哲夫は立ち上がり、大きな音を立てて襖を閉めて庭へと出て行ってしまった。
残された居間には、石油ストーブの音と、葵の小さなくしゃくしゃとした鼻をすする音だけが響いていた。




