第十八話 確執の家根
朝の冷気の中に落ちた父親・哲夫の掠れた声が、静まり返った集落の路地に低く沈んだ。
スウェットのポケットに両手を突っ込んだまま固まる哲夫の向こうから、玄関の引き戸が大きく開いた。
「お父さん、誰か来たの――」
中から出てきたのは、エプロン姿の母親・恵子だった。葵の姿を認めた瞬間、恵子は驚きで目を丸くし、敷居の手前で立ち尽くした。
「葵……? あなた、葵なの……!?」
駆け寄ろうとする恵子の腕を、哲夫が素気なく遮った。
「おい、待て。急に帰ってきたと思ったら……連絡一つ寄こさずに何年放置していたと思ってるんだ。それに、そっちの男は誰だ」
哲夫の不機嫌で刺すような視線が、葵の隣に立つ彰一へと向けられる。
葵は足元のアスファルトを見つめたまま、リュックの帯を痛いほど強く握りしめた。
実家に頼るまいと突っ張ってきたプライドと、派遣切りに遭って行き場を失った現実。
その板挟みの中で、声が震えた。
「……ちょっと、立ち寄っただけ。近くまで来たから」
「近くまで来た、だと?」
哲夫は鼻で笑うと、吐き捨てるように言った。
「東京で派遣会社に入ったと思ったら音沙汰なし。それが急に男連れで前触れもなく現れて……。お前の同級生はちゃんと地元で就職して、親に顔を見せてるってのに、お前は昔から身勝手ばかりだ」
「……っ」
葵の肩が小さく震えた。東京の冷たい路地裏でも、派遣の現場でも聞き飽きた「格付け」と「落選」の言葉が、実の父親の口から容赦なく叩きつけられる。
逃げ出したい衝動が葵の足元を揺らした。
その時、彰一が静かに一歩前へ出た。
背筋を直立させ、顎を引いたその立ち姿には、現代の青年には見られない特有の重圧が漂っていた。
「……初めまして。神崎彰一と申します。葵さんにお世話になっている者です」
「お世話になってる……?」
哲夫は怪訝そうに眉をひそめ、彰一の着ている黒いパーカーと、その奥にある眼光を品定めするように見つめた。
「あんた、いくつだ。仕事は何をしてる。まさか葵を妙な宗教や変なことに巻き込んでるんじゃないだろうな。だいたい、今どきそんな言葉遣いをする若い奴がどこにいる」
「お父さん、やめてよ……!」
葵が遮ろうとしたが、哲夫は聞く耳を持たなかった。
「お前は黙ってろ! ……ろくに連絡も寄こさない娘が、どこの馬の骨かも分からん男を連れて帰ってきて、『ちょっと寄った』で済むわけがないだろう。世間体ってものがあるんだよ、この狭い集落には」
哲夫の言葉は、葵への怒りであると同時に、落ちこぼれた娘と向き合うことへの恐怖や、どう接していいか分からない戸惑いの裏返しでもあった。
だが、その頑なな態度は、葵の心をさらに深く閉ざさせていく。
母親の恵子は、二人の間でオロオロと手を彷徨わせながら、葵の薄着と疲れ切った顔を見つめていた。
「お父さん、そんな言い方しなくても……。とにかく葵、外は寒いでしょう。中に入りなさい」
「入れるなとは言わんが、事情を全部吐いてもらうぞ」
哲夫は吐き捨てるように言うと、背を向けて奥の居間へ消えていった。
冷え切った空気と、重い沈黙が玄関口に立ち込める。
彰一は立ち尽くす葵の横顔を、静かに見つめていた。
そこにあるのは、温かい「我が家」の出迎えなどではなく、長年の無関心と誤解、そして互いに引き裂かれた自尊心がもつれ合う、現代の家庭の現実だった。
「……行こう、葵さん。まずは中へ」
彰一の低い声に促され、葵は重い足取りで、何年も遠ざけていた実家の敷居を跨いだ。




