第十七話 紡ぐレール
真夜中の明治通りをひたすら北上し続けた。
街灯のLEDが淡く照らすアスファルトの上を、二つの影が静かに伸びては消えていく。
世田谷を出てから実に三時間以上。足裏にじわじわと重い痛みが走り始めていたが、隣を歩く彰一の足取りには乱れ一つなかった。
軍靴ではなくスニーカーを履いているにもかかわらず、その佇まいはまるで夜間演習に臨む将校そのものだった。
「大丈夫か、葵さん」
「はぁ……はぁ……うん、なんとか。神崎さん、本当にタフだね……」
「これくらいで行軍と言っては、中隊長に叱られる。……だが、見えてきたぞ」
彰一が指さした先、暗がりの中に巨大な黒い影としてそびえ立っていたのは、深夜の静寂に包まれた上野駅だった。
時計の針は午前四時半を回っていた。改札が開く始発の刻限まで、あと三十分ほどだ。
「……駅の近くのファストフード店で、少し休もう」
明かりの灯る店に入り、温かい紅茶とコーヒーを買って窓際の席についた。
店内には、終電を逃したサラリーマンや、居場所がなさそうに頭を抱える若者が数人、静かに時間を潰していた。
彰一は紙コップから立ち上る湯気をじっと見つめながら、葵に問いかけた。
「……葵さん。お前の実家へ向かっているのだったな」
「うん。……埼玉の東側の、かなり田舎の方。上野から宇都宮線に乗って、一時間くらい行ったところにあるんだ」
葵は両手でコップを包み込み、自嘲気味に息を吐いた。
「高校を出て派遣で働き始めてから、もう何年も連絡を取ってないんだ。お父さんもお母さんも、私のことなんて忘れてるかもしれない……。派遣切りに遭って、家賃も払えなくなって、最後に頼るのがあの家だなんて……。私、親にとっても、今の社会にとっても、何の役にも立たない失敗作なんだと思う」
葵は足元を見つめ、ギュッと唇を噛みしめた。
彰一は葵の吐き捨てた自己嫌悪を静かに受け止めるように、数秒の間を置いた後、背筋を伸ばして言葉を紡いだ。
「……失敗作、か」
彰一の瞳に、静かだが苛烈な光が宿る。
「八十年前の国も同じだった。国にとって役に立つ兵力か、そうでないか。『お国のために散る誉れある若者』か、生産性のない出来損ないか。上に立つ者は常にそうやって人間に優劣をつけ、選別してきた」
彰一は窓の外の静かな上野の街を見つめた。
「親が子をそうやって評価するのだとすれば、それは現代の家庭という場所すらも、あの時代の国家と同じ構造に侵されているということだ。……葵さん、お前が自分を失敗作などと恥じることなど、何一つない」
葵は息を飲んだ。
世間の物差しから外れ、落ちこぼれとして扱われてきた自分を、彰一は「構造の被害者だ」と言って受け止めてくれる。その不器用な言葉が、冷え切った葵の心に温かく染み込んでいくようだった。
――やがて東の空が白み始め、駅の改札が開くと、二人は始発の宇都宮線へと乗り込んだ。
早朝の車内は疎らで、夜勤明けの作業員や疲れ切った顔の乗客が数人、ロングシートに深く身を沈めている。
列車がガタゴトと音を立てて北へ向かい、東京のビル群を抜けて埼玉の田園地帯へと差し掛かる頃、窓の外には灰色がかった秋の風景が広がり始めていた。
最寄り駅のホームに降り立つと、秋の澄んだ空気が容赦なく二人の肌を刺した。東京の熱気とは違う、土と草の匂いが混じった冷たい風だ。
駅前のロータリーから農地と古い住宅が点在する集落へと二十分ほど歩き、角を曲がると、築四十年以上は経っている深い黒瓦の二階建て家屋が見えてきた。
落ち葉が溜まった雨樋や、手入れの途切れた庭木が、この家に漂う独特の沈黙を物語っている。表札の文字は雨風で半分消しかけていた。――室井。葵の実家だ。
「……あそこだよ」
葵が足を緩めたその時だった。
ガラガラ、と鈍い音を立てて玄関の引き戸が開き、中から白髪の混じったボサボサ頭の男――葵の父親が出てきた。
ゴミ袋を庭のゴミ箱に放り込んだ男が、ふと路地へ視線の向きを変える。
葵と父親の視線が、早朝の冷たい空気の中で正面からぶつかり合った。
「……葵……か?」
父親の掠れた声が、静かな集落にポツンと響いた。




