第十六話 夜の旅立ち
部屋の明かりを消し、二〇一号室の鍵を閉めるカチャリという金属音が、静まり返ったアパートの廊下に物寂しく響いた。
鍵をポケットに押し込み、葵は大きく息を吸い込んだ。
「……行こう」
「ああ」
彰一は自分の背中に馴染んだリュックの帯をぐっと締め直した。
その中には、自分の命そのものとも言える、血と硝煙の染みついた陸軍の軍服と、妹のハツが縫ってくれた布のお守りが大切に包み込まれている。
月見荘の古びた外階段を、足音を殺しながら慎重に下り、二人は夜の世田谷の路地裏へと抜け出した。
頭上には、都会の薄明るい夜空に数個の星がぼんやりと浮かんでいる。
冷たい秋の夜風が、二人の頬を撫でて吹き抜けていった。
「どこへ行く、葵さん。行く当てもなく歩いているわけではあるまい」
隣を並んで歩く彰一が、周囲の闇に鋭い視線を配りながら低く尋ねた。
葵はスマホの画面を伏せたまま、小さく息を吐き出した。
「うん。とりあえず、ネットの騒ぎが落ち着くまではこの街を離れた方がいいと思うの。……だから、まずは私の実家に行こうと思う」
「お前の……実家?」
彰一が足を止め、怪訝そうに葵の横顔を見つめた。
「うん。……と言っても、仲が良いわけじゃないんだけどね。高校を出て派遣で働き始めてから、もう何年も連絡を取ってないし……お父さんもお母さんも、私のことなんて忘れてるかもしれない」
葵は自嘲気味に口元を歪めた。
「でも、実家のある埼玉の田舎なら、こんな世田谷の騒ぎなんて誰も気にしてないはずだし、数日くらいなら……身を隠せると思うから」
今日の派遣の仕事もなくなったうえに家賃の払いも重なり、ついには住処まで離れることになった自分。
親に頼るなんてプライドが許さなかったはずなのに、追い詰められた末に思い浮かんだのが、かつて飛び出したあの冷え切った家だという事実が、葵の胸を痛ませた。
彰一は葵の戸惑いを静かに受け止めるように、数秒の間を置いた後、背筋を伸ばして言葉を紡いだ。
「身を寄せる場所があるのなら、それに越したことはない。……それに、家族のもとへ帰るのは、恥じることではない」
「……神崎さんは、自分の実家のこと……覚えてる?」
葵がふと尋ねると、彰一の瞳に深い郷愁の色が宿った。
「忘れるはずがない。……秩父の山裾にある小さな農家だった。庭には大きな柿の木があってな。秋になると妹のハツと二人で、枝から実をもいで食べたものだ」
彰一の喉が、かすかに揺れた。
「八十年……か。私の家も、父も母も、ハツも……もう、誰もあの場所にはいないのだろうな」
「……行ってみようよ」
葵が力強く彰一を見上げた。
「私の実家に寄ったあと、神崎さんの生まれ故郷にも行ってみよう。秩父なら、ここからそんなに遠くないし……神崎さんが育った場所、私にも見せてよ」
彰一は少し驚いたように目を丸くしたが、やがて優しく目を細め、静かに頷いた。
「……そうだな。私の故郷か。……見てみたい気もする」
言葉を選びながら交わされる二人の会話が、夜の冷気の中に温かく溶けていく。
「それなら、まずは埼玉を目指そう。……でも、どうやって行く? 電車はもう終わってるし、タクシーを使うほどのお金もないよ」
葵が懸念を口にすると、彰一は迷いのない目で北の空を見つめた。
「歩くのだ。夜が明けて汽車――電車が動き出すまでに、北へ向かう大口の駅まで足を進める。夜間の行軍なら、陸軍でも日常茶飯事だった。人目を避けるにはうってつけだ」
「えっ……世田谷から都心まで歩くの……!?」
「案ずるな。お前の足取りに合わせて歩く。行こう、葵さん」
街灯の少ない暗い路地を抜け、二人は甲州街道を目指して夜の東京を北東へと歩き始めた。
ネットという無機質な網を抜け出し、自分たちの「足」で踏み出す初めての旅。
それは、一時的な避難であると同時に、失われた時間と自分たちのルーツを辿る、長い長い旅路の始まりだった。




