第十五話 避難の決意
画面をスクロールする葵の指が、かすかに震えていた。
SNSの勢いは衰えるどころか、夜を迎えてさらに加速していた。
個人の特定を急ぐアカウントが、動画に映り込んだ特徴を検証し始めている。
「……神崎さん。被害届を出してないみたいだし、すぐにどうこうなるわけじゃないと思う。でも……ネットの人たちが『特定』しようとしてるの。このままだと、神崎さんのことがバレるのも時間の問題かもしれない」
葵の声には、確かな焦りと不安が滲んでいた。
家賃の安い古い木造アパート「月見荘」。
防音性もなく、隣人の足音すら筒抜けのこの部屋は、もはや安全な場所ではなかった。
「……ここを出よう。ネットの騒ぎが落ち着くまでの間、一度この部屋を離れたほうがいいと思う」
葵が意を決して呟いた言葉に、彰一はハッとしたように表情を引き締めた。
「……離れる、か」
彰一の胸の奥に、重い鉛が沈むような痛みが走った。
葵に平穏な日常を守らせるどころか、自分の短慮な行動――あの駅前での衝動的な振る舞いが、彼女の安住の地であるこの部屋まで脅かすことになってしまった。
彰一は葵の前に歩み寄り、深く頭を下げた。
「すまない、葵さん……。私の浅はかな振る舞いが、お前をこんな危険な目に遭わせてしまった。お前が穏やかに暮らしていたこの場所まで奪うことになるとは……私は、なんてことを……」
頭を下げる彰一の姿に、葵は驚き、慌てて首を横に振った。
「あ、頭を上げてよ、神崎さん! 神崎さんのせいじゃないよ。私だって、あのとき心の底からすっとしたんだから……それに、今日入るはずだった派遣の仕事もなくなっちゃって、どっちにしろ家賃払うの厳しかったんだし……」
葵は必死に明るく振る舞おうとしたが、その瞳には不安の影が落ちていた。
彰一はゆっくりと顔を上げると、葵の目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、後悔の色を振り切った強い責任感と、彼女を絶対に守り抜くという揺るぎない覚悟が宿っていた。
「私の蒔いた種だ。お前を路頭に迷わせるような真似は、絶対にさせない」
彰一は背負ったリュックの帯をしっかりと締め直した。
「荷物をまとめよう。必要最小限のものだけでいい。……行くぞ」
「うん……!」
葵は押し入れから使い古しのリュックサックを取り出し、着替えと最低限の洗面用具、抗う術のないわずかな現金を放り込んだ。部屋にある家具や家電は、もう全て置いていくしかない。
彰一は部屋の隅に置かれていた、自分の「元の衣服」――血と硝煙の匂いが染みついた陸軍の軍服と、妹のハツが縫ってくれた布のお守りを、葵が貸したビニール袋へ丁寧に包み、リュックの底へと収めた。
その時だった。
――トン、トン。
アパートの古びた外階段を上ってくる、重い足音が聞こえた。
廊下のギシギシという軋み音を立てながら、二〇一号室の前でピタリと止まる。
葵の息が止まる。彰一が瞬時に葵を背後に庇い、低い体勢をとった。
『室井さーん。いるー?』
ドア越しに響いたのは、このアパートの大家である老人の、呑気で不躾な声だった。
『今月分の家賃、まだ振込確認できてないんだけどね。ちょっと今、出せる分だけでも集金させてくれないかなと思ってさ』
「……っ! 大家さんだ……」
葵は胸を撫で下ろすと同時に、冷や汗を流した。
大家はニュースやネットの騒ぎなど露ほども知らず、ただ未払いの家賃を取りに来ただけだった。
しかし、今ここでドアを開ければ、見知らぬ青年(彰一)と同居していることがバレ、家賃も払えない状況で根ほり葉ほり追及されるのは目に見えていた。
葵はドア越しに、極力平静を装った声を絞り出した。
「す、すみません大家さん! 今ちょっと体調崩して寝込んでて……明日、お金を用意できたらすぐ振り込みますから!」
『ん? ああ、そうかい。体調悪いなら無理言わないけどさ。明日には頼むよ?』
重々しい足音が、再び階段を下りて遠ざかっていく。
静まり戻った六畳間で、葵と彰一は顔を見合わせた。
「……危なかった。大家さんは何も知らなかったけど、明日の朝になればまた来るし、ネットの特定もどんどん進んでる……」
「……ああ。猶予はないということだな」
葵は静かに頷いた。
「行こう、葵さん」
二人は電気を消し、静まり返った月見荘をあとにした。
夜の冷たい風が吹き抜ける世田谷の路地裏へと、二人の新しい旅立ちが静かに走り出した。




