第十四話 姿なき声の渦
アパートの階段を駆け上がり、月見荘の「二〇一号室」へ飛び込むと、葵はすかさず鍵を締め、チェーンをかけた。
そのままドアに背をもたせかけ、ズルズルと床にへたり込む。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打ち、喉の奥がカラカラに乾いていた。
「はぁ……はぁ……っ! びっくりした……! 本当に何事かと思ったよ……!」
彰一は荒い息を吐きながらも、静かに畳の上に正座した。
フードを脱ぎ、黒いパーカーの胸元を緩める。彼の右手は膝の上で固く握りしめられており、指先がかすかに震えていた。それは恐怖ではなく、八十年後の未来でも変わらぬ「若者を使い捨てにする構造」へぶつけた怒りの残汁だった。
「……葵さん。すまなかった。お前に危険を冒させた」
「いいよ、もう……。でも、神崎さん……あんなところで大声を出したら、すぐに目立っちゃうよ」
葵は膝を抱え、小さく息を吐き出した。
世田谷駅から徒歩十分の距離を必死で走り抜けてきた部屋の中には、束の間の静寂が訪れていた。
窓の外を見上げれば、まだ眩しい昼下がりの日差しが落ちている。
警備員がここまで追ってくる気配はない。
葵は台所へ立ち、水道水を入れたコップを二つ持って戻ってきた。
「はい、お水。落ち着いて」
「……かたじけない」
彰一は両手でコップを受け取り、一口ずつ噛みしめるように飲んだ。
冷たい水が喉を通ると、互いにようやく肩の力が抜け、部屋の中に穏やかな落ち着きが戻ってきた。
「……でも、神崎さん」
葵は畳に座り直し、ローテーブルを見つめた。
「凄かったよ。私、あんな風に政治家に面と向かって怒る人、初めて見た。……ちょっとすっとした」
彰一はコップを見つめたまま、静かに目を細めた。
「すっとした、か。……だが、あの政治家の男ひとりを糾弾したところで、お前の生活が良くなるわけではない。……私はただ、感情に任せて暴れただけかもしれん」
「そんなことないよ。私の気持ちも……言いたかったこと、全部言ってくれた」
二人はそれから、言葉少なに昼下がりの静かな時間を過ごした。
――それから数時間後。
窓の外がゆっくりと茜色に染まり、夕暮れの気配が部屋を包み始めた頃。
部屋の隅にある小さなテレビから、夕方のニュース番組のオープニング曲が流れ始めた。
『――続いてのニュースです。本日午後一点すぎ、世田谷駅前で街頭演説を行っていた現職の坂東たかし議員に対し、一人の若者が声を荒らげる一幕がありました』
ふたりの視線が、同時にテレビ画面へと向いた。
画面には、数時間前に自分たちがいた世田谷駅前の映像が映し出されていた。
アナウンサーに代わり、画面にはマイクを向けられた坂東議員のインタビュー映像が映し出される。
『男は「若者の未来を売り払うな」などと気勢を上げましたが、現場に警察が介入するような事態には至りませんでした。取材に対し坂東議員の事務所は、「選挙期間中であり、様々なご意見をいただくのは当然のこと。若い世代の切実な声も含め、市民の厳粛な一意見として真摯に受け止めたい」とコメントしています』
「被害届とかじゃなくて……普通にコメントで対応したんだ」
葵は少し拍子抜けしたように息を吐いた。
現職議員として、ここで若者を過剰に敵視して騒ぎ立てるよりも、「大人の対応」を見せる方が得策だと判断したのだろう。
だが、ニュース番組のキャスターは次にこう続けた。
『――なお、この時のやり取りを収めた動画がSNS上で急速に拡散しており、ネット上では議論が巻き起こっています』
「……SNS?」
葵は慌ててポケットからスマートフォンを取り出した。
アプリを開き、検索窓に「世田谷駅」「坂東議員」と打ち込む。
画面に躍り出たのは、想像を絶する数の投稿だった。
『【激怒】世田谷駅前で坂東議員に特攻したヤバい男が話題に』
『新手の迷惑系か? 政治家にブチ切れる謎のイケメン現るwww』
投稿されていたのは、現場にいた通行人がローアングルから盗撮した、十数秒の動画だった。
再生数はすでに数十万回を超え、タイムラインの上を猛烈なスピードで流れていく。
動画の中で、元彼の黒いパーカーを着た彰一が、腹の底から響く声で言い放っていた。
『貴殿が掲げるその演説に、一つ問いたい』
『「敬老」という美名を盾に取り、その陰で若者から容赦なく税をむしり取り、明日への怯えの中に捨て置く!』
『八十年前もそうだった! 上に立つ者たちは「お国のため」と綺麗事を並べ、私たち若者の命を使い捨ての駒として戦場に送り出した!』
画面の向こうで繰り広げられているのは、完全な二極化――現代社会の歪みをそのまま映し出したような激しい論争の渦だった。
【批判・冷笑派のコメント】
『はい出ました迷惑系。言いたいことあるならまともに選挙行けよ』
『「八十年前」とか言ってて草。戦争体験者気取りのパフォーマンスだろ』
『顔が良いだけのヤバい奴。結局逃げたのかよ』
【賛同・共感派のコメント】
『いや、言ってることぐうの音も出ない正論なんだが……』
『「敬老をダシにして若者を使い捨てにする」ってフレーズ、刺さりすぎて泣いた』
『今日の単発バイト飛んだ自分のこと言われてるみたいで胸が痛い。この人誰? マジで代弁してくれた』
『目つきが普通のアクティビストと違う。本物の覚覚悟みたいなものを感じる』
「……神崎さん、見て」
葵が差し出したスマホの青白い画面を、彰一は眉をひそめて覗き込んだ。
「……これは、何だ? 人々の言葉が、この小さな板の中に無数に書き込まれているのか?」
「そう。現地にいなかった何万人もの人たちが、神崎さんの動画を見て、ネットの中で議論してるの」
「顔も名前も明かさぬ者たちが、陰から好き勝手に言葉を投げ合っているのだな……」
彰一の瞳には、怒りというよりも、現代の異質な言論空間に対する戸惑いと冷ややかさが浮かんでいた。
「そうだよ。これが現代の『世論』。面と向かっては何も言わないけど、ネットの陰からはいくらでも叩くし、持ち上げもする」
葵は画面をスクロールしながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
嘲笑や批判も多い。
しかしそれ以上に、「社会から捨てられた」と感じている若い世代の悲鳴のような共感が、動画の拡散を後押ししていた。
そして、画面の底には、現代特有の「追跡」の兆候が現れ始めていた。
『この男の特定まだ?』
『世田谷線の沿線あたりで見たって噂あるけど』
『着てるパーカー、どこかで見たことあるな……』
「……特定しようとする動きが、出てきてる……」
葵の指が固まった。
夕闇が迫る無機質で小さな六畳間の中で、スマートフォンの青白い光だけが二人を照らしている。
警察が動き出すような大事にはならなかった。
だが、ネットという透明な網によって、二人の叫びはすでに世間へと放たれていた。




