02
「……つまり、あり得るわけがなかった状況が重なって今だってことか」
あざみが一通り説明し、深見は今置かれた状況を理解した。ひとまず落ち着く為にも彼は電気ポットに残っていたお湯でドリップコーヒーを作る。あざみに飲むかと聞けば紅茶派だと答えられたので、棚からティーバッグを取り出しマグカップにお湯とともに入れ彼女に手渡した。あざみは礼を言ってからそれを受け取り、すぐさま口をつける。
「まだ熱いだろ」
「熱いのが好きなんだ。文句か?」
「いや違ェけど……」
深見は手元のコーヒーを冷ましながら彼女のことを見た。明らかに敵視されているのは分かっているし、その理由も分かっている。ただ、今この密室空間で敵意を向けられるのも辛い。ここから抜け出す為にも彼女の協力は不可欠だ。彼女の『力』でどうにか出来ると深見は信じていた。
「あざみ」
深見が彼女の名前を呼ぶ。その声にあざみは心臓が飛び跳ねるのを感じた。どんどんと速さを上げていく鼓動を誤魔化すようにあざみは彼を睨みつける。彼の瞳と目が合い、鼓動は更に速くなった。
「やめろ。名前で呼ぶな。気色悪い」
「まさか、嬉しいだろ?」
「ナルシストなわけ? そりゃその顔ならナルシストになっても仕方ないだろうけど」
「あざみ。顔赤くなってるぞ。なぁこっち来いよ」
自分の顔が赤くなっていることなんて、あざみだって分かっている。その声で名前を呼ばれる度、心が歓喜で震えるのだ。あざみにはどうしてこんなことになっているのか分からなかった。同性ならまだしも親しくもない異性に下の名前を呼ばれるのは酷く不快なはずだった、少なくとも今まではずっとそうだった。そのうえ深見は彼女にとって敵であり、近づくべき人物ではない。それなのに彼に呼ばれると足が自然と動くのだ。
彼女が近づいてくると、深見はその手首を掴んだ。
「なぁ、良い顔してるな」
そう言って彼はニッコリと笑い、あざみを抱き寄せた。こんなことは紫苑にも許したことないのだ。何故不快感すらなく、それどころか喜びを感じているのか。
「……あーあ、なーにしてんの?」
「……ッ!」
突然聞こえてきた少女の声にあざみは正気に戻り深見から距離を取った。今、一体何が起こっていたのか。そして今の声の主は誰なのか。声がした方向を見ると紺色のフードを被った少女がそこに立っていた。
白いシャツの上に紺色のジップパーカーを着て水色のチェック柄のスカートを履いている。そこまで見れば普通の学生に見えるが、スカートの下に伸びる脚が地面に向けてどんどん薄くなっており、膝の下は完全に透明だった。顔もフードで隠れており、かろうじて見えるのは怒った口元と胸ほどまで伸びている赤みがかった茶色の髪だけで。
「だ、誰……⁉ 何者⁉」
「××ってば目を離すとすーぐこうなるんだから! 何でそんな簡単に絆されちゃうわけ⁉」
顔を隠した彼女は何か聞き取れない単語を言う。それが自分の名前を言っていることは理解できるが、まるであざみ自身が聞くことを拒んでいるかのようだった。彼女は胸の前で腕を組み、いかにも怒っていますよという態度を取る。先ほどまで消えていた膝下はどんどんと濃くなっており、今や彼女が茶色のローファーを履いていることが分かった。
「それから深見! 余計なことしないで、すけこまし」
「アンタ……誰だ?」
「私のこと忘れたわけ? 薄情者、馬鹿、色ボケ野郎」
「忘れたも何も……」
彼女はまるで深見とこれまで出会ったことがあるかのような言い方をするが、彼の記憶の限り彼女に会ったことは無かった。その様子に彼女は大きく溜め息をつく。まぁ良いけど、と呟いてから彼女はあざみの左手を両手で包んだ。彼女の両手はひどく冷たかった。
「××怖かったよねぇ、こんなすけこましと二人きりだなんてねぇ、めっちゃ急いで来たんだけどちょっと遅かったよねぇ、ごめんねぇ……」
「あの、本当に誰……この間会った人……?」
「白い布の人のこと? あの人は別の人だよ」
この間会った人、としかあざみは言っていないがそれが異世界で出会った白い布を被った女性を意味するということは彼女に分かったらしい。確かに異世界で会った女性はあざみよりも遥かに背が高かったが、目の前の少女はあざみと変わらないぐらいの身長だ。
目の前の少女はあざみの左手の薬指のテープに触れ、何かを呟いた。
「これで大丈夫。ほらね」
彼女はそう言いながら保健室の扉に手をかける。先ほどまでびくともしなかったその扉はいとも簡単に開いた。これで深見の前で『力』を使う必要もなくなった、とあざみはホッと息をつく。
「××のこと助けてあげたんだから、今度遊んでね! またね!」
「あ、ちょっと、名前……!」
またね、と言って彼女は手を振りながら空気へ溶けていった。あざみは結局彼女の名前が分からず仕舞いである。それでも扉が開いたのは助かった。
それにしても何故さっきの自分は身体の自由がきかなかったのだろうか。あざみは深見に振り返り、彼を睨みつけた。彼女の飴のような色の大きな瞳に深見は視線を吸い込まれる。
「何したの、さっき」
「……アンタやひまが持ってる『力』って何にでも応用できて便利だよな」
「私の『力』って何のこと言ってるのか分かんないけど。少なくともひまはそうなんじゃないの」
こんな時にまで鎌を掛けようとする深見の抜け目の無さにあざみは鼻で笑う。そんな彼女の態度に悪びれもなく深見は言葉を続けた。
「中には一つのことしかできない能力を持った奴もいるんだ。俺みたいにな」
「何それ。深見もひまみたいに何かしらの『力』を持ってるってこと?」
「俺、名前を呼べばどんな奴でも誘惑できるんだ」
「くっ……!」
予想外の言葉に思わずあざみは吹き出した。一体この男は何を言い出すというのか。あまりにも突拍子も無い話にあざみは笑いが止まらない。確かに深見はイケメンだが、まさかそんなことを言う痛い奴だとは思っていなかった。
しかしながら彼の顔はいたって真剣なままである。
「俺が所属する機関の話しただろ」
「したした、んで?」
仏頂面も忘れ笑いすぎて出てきた涙を拭いながらあざみは相槌を打った。しかしながら、続く彼の言葉にあざみの涙はすぐに引っ込む。
「俺さぁ、昔あそこに捕まって実験台になったんだよ」
「実験台って……何の?」
「普通の人間が能力を持つ為の実験」
初めてここで会った時、彼は機関が行う実験は倫理的に許されないものだと言っていた。深見がここに生きてここに居るということは、その実験は成功したということだ。そしてあざみはその能力に飲まれかけた。彼の言った下の名前で呼ぶだけで誘惑できるという能力は確かに彼に向いているのだろう。彼の声に心臓が跳ね上がり、見上げた先にはこの美術品のような顔だ。先ほどだってあの少女が登場しなければあざみはあっさりと絆されていたはずである。彼の為に何でもしたい、などと思って『力』を使っていた可能性だってあるのだ。
「能力者が死ぬ前にその手を握ると、能力は継承されるんだ」
「じゃあ、深見の目の前で誰かが」
「死んだ、俺の幼馴染だ」
「そんなことっ!」
許されるわけがない。あざみはそこまで思って、機関が目的の為ならば手段を問わないと言われていたことを思い出す。深見は笑って言っているが、その顔はどう見ても全てを諦めていて。初めて会った時に深見にもひまにも感じた瞳の奥に隠れた闇の理由が分かった気がした。
「……アンタは何でそんな機関にいるわけ? 逃げ出そうと思わないの?」
「今は守るべき奴がいるから」
「ひまは何者なの」
「ひまは、その幼馴染にそっくりなんだ……エゴでも今度こそ守り抜きたいと思っててさ。だからついつい甘やかしちまう」
「……ロリコンも大概にしなきゃ痛い目見るよ」
「アイツが無事なら俺はどうとでも」
「イケメンめ」
「どうも」
深見は馬鹿だ、とあざみは思った。彼の身に何かあればひまも傷つく。ひまが彼を大切に想っているのはこの間見ただけでも分かった。それなのに自己犠牲でひまを助けるだなんて馬鹿のすることだ。自己犠牲は悲しみしか生まない。
『力』で他人を傷つけることを恐れて一人殻に閉じ籠れば良いと思っていたあざみが最近気がついたことだった。萩のおかげで殻から出ようと思うことができたが、そのおかげで日常に色がついたのはあざみだけではなかった。紫苑もまた、あざみのせいで閉じた生活を送っていたのだ。彼はあざみの側にいる為に彼の学校生活を犠牲にしていた。あざみの記憶の中の紫苑はいつも無表情だが、最近萩といる時は時々笑っている。
「……ね、本当にひまが大切なら諦めずに一緒に生きてあげなよ……自分はどうでも良いとか、そんなこと言わずにさ」
深見の真っ黒い瞳があざみを射貫いた。あざみの言葉の意味を理解していないようだ。
「あのさ、色々と事情もあって結構最近まで紫苑以外の誰とも関わらないようにしてたんだよね……あ、事情について話す気は無いから」
あざみはソファに座り、マグカップに口をつけた。かなりぬるくなった紅茶が喉を潤す。
「それで最近萩と仲良くなって気がついたんだ。それまでは自分一人が壁を作っておけば良いと思ってて、そうすれば皆が幸せなんだって思ってた……けど、実は紫苑もそれに巻き込まれてたし、何なら紫苑は紫苑で自分が犠牲になれば良いって思ってたんだと思う……でも萩と仲良くなって、三人で過ごすようになって、何かあっても一人で抱え込むんじゃなくて一緒に解決したほうが良いって分かった。そのほうが楽しいし、寂しくないでしょ?」
「けど、ひまは」
「ひまだってそうだと思うけど……深見だってひまが一人で抱え込んでたら寂しくないか?」
「……そうだな」
深見は細く長い息を吐いた。それから困ったように笑ってあざみを見る。
「年下に諭されるなんてカッコ悪ぃな、俺」
「本当にな。お前いくつなんだ?」
「さぁ、機関に捕まった時点でいくつか分かってなかったから、実際の歳知らねぇんだ」
痛々しい彼の笑みにあざみは紅茶を飲み干し、マグカップを机に置いてからソファから立ち上がった。そのまま彼の座る椅子まで近づくと、その頭に手を置く。
「何だ? この手」
「……お、落ち込んでるように見えたから」
「ははっ! ありがとな、あざみ」
「名前呼ぶな馬鹿っ!」
先ほど名前を呼ばれたせいで彼に対しての嫌悪感が消えているので、触れるのは苦ではなかった。彼の心の傷につい深く触れてしまったのも彼の能力のせいであって同情したからではないはずだ。それでも、まぁこの男が何かを一人で抱え込もうとすれば話ぐらいは聞いてやっても良いかなと思える程度にはなっている。
「それにしても驚いたな。今日の現象は機関でもあまり聞いたことねぇから」
「機関は不思議現象に詳しいわけ?」
「まぁ能力者も多いしな」
「この学校、不思議な噂多いらしいから役に立つかもね」
「アンタも今日みたいに変な事が起こったらここに相談に来て良いぞ。一人で抱え込むより一緒に解決しようぜ」
「はいはい。そういう風に女の子たちを誑しこんでいくわけね、すけこましの深見君は」
呆れた顔であざみが彼を見ても、深見はにこやかに笑っているだけだ。無駄にイケメンな顔しやがって、とあざみは内心吐き捨てる。
ただ、ここ最近だけでも二回も不思議な現象に巻き込まれている為、次も同じ様なことがあれば相談に来ても良いかもしれない。素人のあざみよりもきっと知っていることは多いはずであるし、休みでなければ『力』を使えるひまも居る。
「さて……部活中だったから部室に帰るよ。紅茶ご馳走様、またね」
あざみはそう言ってフッと笑ってから先ほどの少女が開けたままだった扉から去っていく。
彼女の手で扉が閉められ、保健室は静寂に包まれた。深見は自身の頭に手を一度置いてから、今度はその手をジッと見つめた。あんな風に人から頭を撫でられたのはいつぶりだろうか。そもそもそんなこと、これまであっただろうか。遠い遠い記憶にあったような気がしているが、思い出せるわけではなかった。
彼は机の上で閉じていたノートパソコンを開いた。そして一つのデータを開くと、頬杖をついて眺める。
「やっぱり、魔女か」
手描きであろうイラストは先ほど見た少女にどこか似ている。機関ですらその実態を把握できていない存在である魔女。これまではこちらから接触しようとも彼女に出会うことができなかった。そんな彼女が何故突然出てきたのか、深見には分からない。しかし突然現れたのも、空気に溶けるように消えていったのも、ここに書かれている特徴と合致している。
データの一番左上、そこには〝『時空間』の魔女〟と書かれていた。




