02
「菊家だー」
ふと背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、あざみはビクリと肩を跳ねさせる。妙に間延びした男の声、それはあざみにとってこの学校では珍しくかなり聞き馴染みがある声だ。萩の方からは彼の顔が見えていたが、同じクラスになったことがない人物であることしか分からない。色を抜いた髪、左耳にはイヤーカフがついている。そんな、いかにも不良といった特徴のわりにそう感じさせないのは彼が漂わせている気品の良さからだろうか。ニコリと笑っているもののどこか抜け目のなさそうな表情を浮かべているその顔は、鼻筋がスッと通り、フェイスラインや目元も無駄なく引き締まった、涼しげかつ端正なもので。こんな派手な男子とあざみが知り合いなのだろうか、と萩が彼女を見ると困り果てた顔のまま固まっていた。振り返ろうとしないあざみに、彼が彼女にとって好ましい相手ではないのかと萩はその男を警戒しながらジッと見つめる。
「花」
しかし驚いたことに彼に声をかけたのは紫苑だった。その様子に萩は安堵の息を漏らす。紫苑があざみに悪意のある人間に挨拶をするわけがない。花、という名前も萩は紫苑から聞いたことがあった。仲良しになるおまじないを上書きしよう、と紫苑と二人で行ったショッピングモールで彼の話を聞いたのだ。庭石 花、去年から同じクラスの男子で、普通科に双子の弟の菖がいて、クラスで唯一あざみに話しかけてる。六人掛けのテーブル、花は紫苑の隣の椅子に断りもなく座った。しかし誰も彼に文句を言うことはできない。優雅に椅子に座り、日替わり定食を食べる為箸を手に取った彼には有無を言わせない雰囲気がある。まるで王様、と萩は彼のことを観察していた。
「何で座るんだ」
「えー、今日は菖が休みでつまんないしさー? 文句あるー?」
「い、いや! 無い!」
彼を睨みながらあざみは不満を漏らしたが、すぐさま首を振り撤回する。そんなあざみを一瞥してから花は萩に向かって笑った。
「君、宮城野さんだよねー? 俺は庭石 花だよー」
「萩で良いよ、花クン」
萩がそう言うと彼はニコリと笑って、それから定食の味噌汁を一口飲んだ。あざみは彼のそんな様子に溜め息をついてからカツ丼を食べ始める。追い出す気は無いが話す気も無いのだろう、彼女は黙り込んでしまった。更にはいつも元気に話しているひまも知らない先輩が来たからか言葉を発していない。紫苑が発言をしないのはいつものことである。萩があざみと昼食を共にし始めてから早二ヵ月、こんなに静まり返ったのは初めてのことだった。
「……えっと……花クンは……普段は菖クンとご飯食べてるの?」
「そうだよー。でも今日は菖が休みでさー? お兄ちゃんサミシー」
「…………ブラコン」
「菊家何か言ったー?」
ボソリと呟いたあざみは花に聞き返されブンブンと首を振った。花は彼女を笑ったまま見つめており、彼女は顔を逸らして卵でとじられたカツを食べている。美味しいのか、顔が綻んでいた。
「花クンは……その、あざみチャンや紫苑クンと仲良いんだ? ちなみに、この子は一年生なんだけど……」
萩は隣のひまの方に首を傾け、花に紹介しようとする。ひまはいつものように可愛らしくニコリと笑っていた。花はそんな彼女に微笑み返す。
「菊家たちが一年生を寄ってたかって囲んでるっていうのは聞いていたよー」
「人聞きが悪いな、ただの友だちだ」
「へー? 菊家がそんなこと言うなんて珍しー。俺とはずっと口きいてくれなかったのにねー? それにしても一年生となんて何処で知り合ったのー?」
「それは保健室で」
「保健室ー?」
「いや! えっとぉ……違う、あー……ちょっと待って、思い出すから」
あざみはそう言って箸を丼の上に並べて置き、水筒からお茶を一口飲んだ。保健室の話をすれば、そこにあざみが毎朝入り浸っている話になるだろう。そしてそうなれば何故入り浸っているのかまで説明する羽目になりかねない。どこをどう端折り、どう説明をすれば良いのか。途方に暮れたあざみは無言で再びカツ丼を食べ始めた。
「菊家ー? 話終わってないよー?」
「……また今度話す。今は忘れた、とにかくひまは友だちだから」
「ふーん、ま、良いけどねー……それって最近菊家が朝から保健室に入り浸ってるのと関係あるー?」
花のその言葉を聞いた瞬間、あざみは米が喉に詰まり噎せた。ゲホゲホと咳き込んでいるあざみに紫苑は慌てて彼女の水筒の蓋を開け渡す。彼女はそれを受け取ってから勢い良くお茶を喉に流し込んだ。ゼーハーと荒い息を繰り返してからやっと落ち着いたのか、彼女は一度深く息を吐いた。そしてキッと花を睨みつける。
「何でそのことッ!」
「いやー、あのさー……自分がどれだけ人の注目を集めやすいか分かってないー? しかも毎日楽しそうに教室出て行ってるらしいし、帰ってきた時も分かりやすく嬉しそうだしさー? そりゃ噂になるってー」
楽しそう、嬉しそう、という言葉に紫苑の顔が険しくなるのを萩は見た。ついでにいうと自分が注目を集めやすいということにあざみの表情が暗くなっていたし、更には常日頃の自身の様子を他者からどう見えるか知ってしまったのか暗い表情のまま耳まで赤くなっている。
「あわわ……あわ……あわ~~! 花クン! 裏メニューの噂って知ってる⁉」
こうなればどうにか話を変えなければならない、と萩は慌てて別の話題を切り出した。花はそれに少しだけ驚いた様子だ。それから可笑しそうに笑って、箸を盆の上に置いた。
「知ってるよー」
「本当⁉ 私たち、それが何かなぁって気になってて!」
「へー、萩たちは裏メニューが何か知りたいんだー?」
「うん、何かヒントとかあるかな?」
うーん、と少し悩んでから花は紫苑の肩に手を置いた。嫌がるでもなく、紫苑は不思議そうに花を見ている。
「椎名はカレー好きなんだー?」
「そうだな」
「菊家は何食べてんのー?」
「見て分からないのか? どう見てもカツ丼だろ」
「何で分かんないのかなー? ねーそこの一年生、もう分かるよねー?」
突然話しかけられ、ひまは驚いた顔をしている。それから彼女は少し悩んだ様子であざみと紫苑の皿をそれぞれ見た。萩もそれに倣って二人の皿を眺める。そんな視線に気がついていないのか、あざみは丼を持ち上げ米をかっ込んでいた。それから丼に残った米粒を一つ一つ箸で摘まみ残さず食べていっている。満足そうな顔をしているので、今日もカツ丼は美味しかったのだろう。萩も食べたことがあるが、卵には甘めの出汁がたっぷり含まれていて美味しいのだ。紫苑もちょうどカレーを食べ終わる頃だった。
「あっ!」
萩は後ろを振り返り、壁に張られたメニューを右から一つずつ見た。カツ丼、きつねうどん、月見うどん、カレーうどん、カレーライス、日替わり定食。分かってしまえば何てことはなかったのだ。
「カツカレーだ! ねぇひまチャン! カツカレーじゃないかな⁉」
「本当だ~~! カツ丼とカレーがあるんだからカツカレーも作れるよ~~!」
嬉しそうに手を取り合う萩とひまに花は得意気に頷いた。心が読めない萩でも分かる、これは正解ということだろう。あざみと紫苑も驚いた顔でお互いを見ていた。本当に分かってしまえば何てことはないことだった。花はそんな四人の様子を満足気に眺めてから立ち上がり盆を持ち上げた。
「じゃー、俺はもう教室戻るよー」
「花クンありがとう! 今度お礼するね」
「本当にー? じゃあ今度俺と遊んでねー」
ヒラヒラと手を振り、花は机から離れていった。萩も手を振り返す。自分の弁当も食べ終わり、彼女は弁当箱の蓋を閉めた。




