04
「アザミ、部活」
「あれ……今日は休みじゃないっけ」
「文化祭の話があるからって先週部長が言ってた」
「……あ、そうだった。ごめんごめん」
紫苑が部活だと言うと彼女は不思議そうな顔をした。今日は金曜日なので文芸部が無いと思い込んでいた彼女は片手を上げて謝る。紫苑はそんな彼女を一瞥してから十字棟に向けて歩き出す。彼がこちらを見ていないことを確かめると、彼女は歪んだ笑顔を浮かべる。
危ない、調べ損ねていた。これから『本物』を殺して『偽物』の自分が『本物』になるというのに。『本物』になれるのが楽しみで仕方がない。つい笑い声が漏れそうになって、彼女は堪える。今こんなところで笑えば目の前を歩く彼にバレてしまう。そうすれば自身の存在が危うくなるのだ。堪えて堪えて。
「こんにちは、アザミちゃん」
十字棟の三階に着いた二人に声をかけた人物は三階と屋上の間にある踊り場に座っていた。紫苑の隣にいる人物と同じ顔をしている。隣の彼女は怯えた顔で紫苑の後ろに隠れた。
「……昨日の子、だよな」
「そう。昨日電話くれたよな、深見の所までわざわざ」
「何の話?」
「……あのさ、シオン」
「やめて! シオンを巻き込まないでくれ」
同じ声が前後から聞こえ、紫苑の頭はどんどんと混乱していく。そんな彼の右手を隣にいる彼女が包む。彼女は心配そうな顔で彼を見上げていた。弱気な姿は彼の望むあざみの姿だ。
でも、本当は、おっちょこちょいで、お人よしで、それなのに口は悪くて、すぐ人に誤解されて、凹んで、けれども彼女は芯の強さがあるのだ。友人ができてもいつかこの『力』のせいで怪我をさせてしまうかもしれないから、と一人でいることを選んで生きてきた彼女には強さがある。ずっと側で彼女を見てきた、それでも彼女は紫苑に弱音を吐いたりましてや泣いたりなどしなかった。
「……手を、放してくれ」
紫苑は隣に立つ彼女にそう告げる。彼女は驚いたような泣きそうな顔をして、紫苑の手を更に力を込めて握った。そんな手を紫苑は振り払う。
「どうして、シオン」
「お前が偽物のアザミだ」
最初こそ彼に甘える姿に歓喜こそしたが、次第にその違和感は増えていった。しかしその違和感を認めてしまえば自分の過ちも認めることになる。のこのこと偽物のあざみを連れて帰り、本物のあざみを置いていってしまった自分の愚かさを思い返し彼は歯を噛み締めた。奥歯がギリっと鳴る、悔しい時に嚙み締めてしまうのは良くない癖だと分かってはいるが止められない。
認めたくはなかったが、今朝の駐車場での出来事は決定的だった。あんなにもあざみに懐いていた黒猫が彼女に威嚇したうえ、彼女はまるでその猫を知らないかのような態度をとった。そのうえあざみが文芸部の活動日を忘れるわけがない。今でこそ萩という友人ができ、認めたくはないものの保健室という彼女の逃げ場もできたが、これまでは文芸部だけが彼女にとってこの学校で落ち着ける場所だったのだから。良くも悪くも他人に興味の無い部員たち、友人と呼ぶほどの距離ではなくともあざみがそこに愛着を持っているのは明らかだった。
「どうして、どうして」
手を振り払われた彼女はそう繰り返しながら紫苑に近づこうとする。伸ばした彼女の腕から、まるでアイスクリームが溶けるようにボタリボタリと何かが溶けだしていた。顔の一部もドロリと溶け始め、紫苑の後ろから小さな悲鳴が上がる。悲鳴の元は勿論あざみだ、それもそうだろう自分の顔が溶けていく様を見れば誰だって悲鳴を上げるはずだ。紫苑はあざみに駆け寄り、その肩を庇うように抱く。
「……ありがと、シオン」
目の前の溶けていく化け物に少し動揺したが、あざみは呼吸を落ち着かせてから紫苑に礼を言う。昨晩深見の家で手に入れたドッペルゲンガーへの対処法。それは〝化けられた本人にとって一番大切な人物からの否定〟だった。あざみには何故紫苑がそれに気がついたのか分からない。それこそこれから『力』を使って紫苑に自分が本物であることを信じてもらおうと思ったのだ。他人の心を操るのはかなり体力を消耗するし、そもそも倫理的にあまりやりたくはないが、今回ばかりは仕方がないと腹を括っていた。
「もうお前は私に化けられない」
「あァァ! ウザイウザイウザイ!」
「こっわ……頭イってんじゃん……」
紫苑が彼女を否定したことで、彼女は二度とあざみに化けることはできない。ただ、それだけだ。その存在を消す方法は、機関も手に入れてはいなかった。今日は既に一度『力』を使ったが、まだあと一回は使えるはずである。使った後は倒れてしまう可能性が高いが、ドッペルゲンガーさえいなくなれば良い。これまで物を消そうと考えたことはなかったが、できるだろうか。左手で胸元の指輪を握りしめ、ドッペルゲンガーを睨みつける。しかしその瞬間、彼女は伸ばしていた腕を大きく振った。腕から溶けだしていたものがあざみや紫苑を目がけて飛沫のように飛んでくる。液体だったはずのものが鋭利なナイフに姿を変えた。咄嗟に防衛本能が働く。一瞬の浮遊感の直後、あざみたち目がけてきたナイフを巻き込むように強風が吹いた。ナイフとともにドッペルゲンガーは強い力で吹き飛ばされ壁に叩きつけられる。あざみの視界がぐにゃりと歪んだ。
「やば、ちょっと、まだ何も」
根本的な対処は何もできていない、けれどごっそりと体力を削られ立っていることすらできない。紫苑の手が彼女を支える、まだ意識は失っていない。今度こそ『力』で彼女を消してみるか、けれど今までにない三回目の発動をすれば自分はどうなるのか。ひょっとすると死ぬかもしれない、けれどドッペルゲンガーが存在する限り他の人が死ぬ。どうせあざみが死んだとて悲しむ人は多くないはずだ。少なくとも他の生徒のほうが悲しまれる、こんな悪評だらけのあざみよりも。まぁなるようになるだろう、と彼女はもう一度指輪を握りしめようと手を伸ばした。
しかしその手は胸元へ辿り着く前に他の手によって押し止められる。
「××、やめて」
いつの間に目の前に現れたのか、あざみには分からない。けれど彼女は神出鬼没なので何ら不思議なことではないのだろう。きっとその名のとおり『時空間』を操っているのだから。
「お前、この前アザミといた」
「はーい、×××。元気? 会えて嬉しい……でもちょっと待ってね」
彼女は壁に叩きつけられた痛みからか立ち上がれていないドッペルゲンガーに近づいていく。溶けていたドッペルゲンガーは辛うじてあざみのような姿には見えるが、それでも化け物だった。その時、十字棟の廊下を風が吹き抜け『時空間』の魔女が深々と被っていたフードが脱げる。しかし後ろにいるあざみや紫苑にはその顔が見えない。
「やぁ『道化』の魔女。中々なことしてくれたね」
ドッペルゲンガーの名前は『道化』の魔女というのか、とあざみは薄れつつある意識の中で聞いていた。つまりこの化け物と自分も、同類ということである。自分もやはり化け物なのか、とあざみは乾いた笑いを零した。『道化』の魔女は『時空間』の魔女の顔を見た瞬間、耳をつんざくような悲鳴を上げる。
「何でッ! アンタがッ!」
「あのさ、あの人から言われてんの、君たちのことは大目に見てくれって……まぁ、気持ちは分からないでもないよ? やっぱり愛してるんだなぁってなるしさ、素敵だとは思うんだけどぉ……だからこちとら××たちが多少危険な目に遭おうと頑張って手を出さないようにね、してるわけで」
『道化』の魔女は酷く怯えた顔をしていた。何をそんなに怯えているのか、あざみにも紫苑にも分からない。『道化』の魔女は知っていた。『時空間』の魔女は、違うのだ。特別な存在で、他の魔女たちとは違う。
「でもね『道化』の魔女、君は私を怒らせた」
「やめて、許して、やだ、来ないでッ!」
「道化師はもういるから、二人もいらない」
「やめて、いや、来ないで、いや、やめて、お願い、助けて、誰か、お願いだから、助けてよ、おねが」
ぐしゃり、と耳障りな音が廊下に響いた。命乞いをしながら這いつくばって逃げようとする『道化』の魔女を『時空間』の魔女はゆっくりと追いかけ、腕を振り上げた。彼女がその腕を振り下ろした瞬間、『道化』の魔女はバラバラになったのだ。紫苑は呆気に取られていたが、慌てて隣のあざみの顔を見る。溶けているとはいえ、自分と同じ姿の人物が見るも無残な姿にされているのを直視させられるわけがない。幸い彼女は既に気を失っており、紫苑は安堵の息を吐いた。
「ごめんねぇ、ショッキングだよねぇ、すぐ消すから待ってて」
いつの間にかフードを被り直していた『時空間』の魔女は紫苑に振り返って吞気にそう言った。辛うじて見えるその口元は満足気に笑っているが、その服には返り血が飛び散っていてかなり異様な光景である。彼女がぐちゃぐちゃになった『道化』の魔女の残骸に手を伸ばすと、空気に溶けるように消えていった。
「お前は、何者だ」
「××から聞いてないのぉ……? ま、それもそうか、最近悔しいけどあの薄情なすけこましにベッタリだしな」
「はぐらかすな」
「ごめんごめん。私は『時空間』の魔女って呼ばれてる。あんまり気に入ってない名前だけど……可愛くなくない?」
「魔女……?」
「えぇ……そこからかぁ……××ってば本当×××のこと大事にしすぎ、巻き込まなさすぎ」
紫苑の名前やあざみの名前らしき単語が紫苑には聞き取れない。けれど本能的にそれが自身の名前やあざみの名前であることは分かった。呆れた様子の彼女は紫苑の腕の中でぐったりとしているあざみに近づき触れようとする。紫苑は咄嗟に彼女を庇った。しかし何故か『時空間』の魔女は既に彼の後ろに移動しており、あっさりとあざみの額に触れたのだった。額をに触れられたあざみはその目を覚ます。
「あれ……『時空間』……?」
「ちょっと! 『時空間』って縮めないで、ますますダサい」
「いやでも長ったらしいし……」
ぼんやりとした声であざみは彼女と話している。まだ完全に意識が戻ってきていないのだろう。意識がハッキリしているのならば、こんな大人しく紫苑の腕の中にいるわけがないからだ。そこまで考えて紫苑は自分の不甲斐なさに少し凹む。
「じゃあさ! ××がつけてよ!私の名前」
「えぇ……? 何言ってんのぉ……?」
「良いでしょ? 今回なんて『道化』の魔女を消してあげたんだよ?」
『道化』の魔女、という言葉にあざみの目が見開いた。彼女の意識はその瞬間覚醒し、それから自分が紫苑に支えられていることに気がつく。顔を真っ赤にして彼女は紫苑の腕から藻掻いて抜け出した。
「アイツは⁉ アンタが消したって⁉」
「落ち着いて××、今そう言ったでしょ」
「そう、そうか……良かった……じゃあもう誰も殺されなくて済む」
「あのさ、××こそ魔力切れで死ぬかもしれないところだったんだから。気をつけてよ本当」
「魔力切れ……? というか『道化』の魔女って何だったわけ?」
「今日もう疲れたからその質問の答えはまた今度、私に名前をくれたら答えてあげる……またね!」
欠伸をしながら『時空間』の魔女はそう答え、空気に溶けていった。相変わらず自分の言いたいことだけを言って消える魔女だ、とあざみは呆れる。大きな溜め息をついて、あざみはその場にしゃがみ込んだ。一件落着として間違いないのだろう。
「アザミ」
「ごめんシオン、迷惑かけて……怒ってる?」
「何で、自分を大事にしない」
彼女の隣にしゃがみ込んで視線を合わせてきた紫苑の目は確かに怒っているように見えた。まぁよく怒っているしな、とあざみはあまり気にしていない。昔からよく紫苑に怒られているので、珍しいことではないのだ。何故自分を大事にしないと言われても、それなりには大事にしているつもりなのでよく分からない。何なら最近なんて甘ったれすぎているとあざみは自覚している。
「今日、何回『力』を使ったんだ」
「二回……」
「さっきのが一回として、あと一回は何で……そもそも、いつの間に複数回使えるようになったんだ」
「その、シオンと萩から指輪を貰ったおかげで……自分の『力』を制御できるようになったみたいで……一日に二回は使えるようになった、二回目で倒れちゃうけど」
そもそもあざみは自分の『力』についていつの間にそんなに詳しくなったのか、紫苑は聞かなくとも理由が分かる気がした。どうせ深見に聞いたのだろう。最近は毎朝保健室に行っているのも紫苑は知っている。あざみは紫苑のことは頼ってくれないがあの男には頼っている、そのことに紫苑は無性に腹が立つのだ。
「それで、あと一回はどうした」
「それはぁ……そのぉ……」
あざみの目線が泳ぎ始める。何か隠したいことがある時の彼女の癖だ。顔を逸らそうとした彼女の顎を紫苑は掴んで固定する。彼女の顔が下から上へとどんどん真っ赤に染まっていった。紫苑が彼女をジッと見つめると、彼女は観念したように口を開く。
「……保健室、で」
「まさかあの男の前で」
「違っ、シオンがあまりにも苦しそうだったから、深見とひまにはちょっとだけ出て行ってもらって」
紫苑はそこで朝の保健室での出来事を思い出した。内容は覚えていないが温かい夢を見て、ぐっすりと眠れた。それが彼女の『力』によるものだったというのならば。
「やっぱり、あの時保健室にいたのは」
「…………他に行き場所なかったし」
「あの男、嘘つきやがって」
「だってシオンが混乱するかもしれないと思って。放課後までは隠れておきたかったし……だから黙っててもらったんだ、深見は悪くない」
あざみがそう言うと紫苑は更に不機嫌になった。紫苑が深見のことを気に入っていないのは知っている。ひまとは昼休みにも普通に話すようになっているし、わりと心を開いているようだった。心を開いているというよりも、彼がすぐ押し黙るのをひまが勝手に心を読むので、開き直った形ではあるが。しかし未だ深見のことを敵視しているあたり、機関だからという理由とは別に彼のことが気に入らないのだろうな、とまではあざみにも分かった。ただ、その理由は分からないのだ。
「……あの男が好きなのか」
「まぁ、嫌いじゃない……というか普通に好き、かな」
自分によく似ている彼に同情することはたくさんあったし、彼を大事にすることはあざみにとって自分を大事にすることに近かった。最初こそ胡散臭い男だとは思っていたが、今では側に居るのが心地良いと感じている。それは萩やひまにも言えることで、最初こそ警戒していたが、今は側に居てほしいと思っているのだ。これが好きだということだと、あざみは知っている。
「…………俺は」
「へ」
突然の質問にあざみは間抜けな声が漏れた。何故今更そんなことを聞くのか。彼がドッペルゲンガーを否定してその化けの皮が剝がれたということは、つまりあざみにとって彼が一番大切な人物だというのに。
「…………別に」
嫌いじゃない、好きだ、という言葉は今更照れ臭くて素直に口にできるわけがない。それに、勝手にあざみが彼を大事に思っていることを押し付けるのはできないからだ。やっと開いてきた紫苑の世界をまた閉じるようなことを、あざみはしたくなかった。何故彼がここまであざみに尽くそうとするのか分からないが、それは思い出せないほどずっと昔からそうで。けれど最近はあざみ以外とも仲が良さそうにしていた。特に萩とはよく一緒にいるところを見るし、笑って話しているのもよく見る。あざみといる時はずっと無表情だった紫苑が、だ。萩のことが好きなのかもしれないな、とあざみは予想していた。これまで紫苑とこんなにも関わる女子はいなかったし、何より萩は優しいしとびきり可愛い。そのことに胸が痛むのは、きっと紫苑と萩が付き合えば自分が要らなくなるという不安があるからだろう。
「…………そうか」
長い沈黙の後、紫苑はたった一言そう答えた。好きだとも言われなかったことに、少なからずショックを受けていた。あざみのことが心配で色々なことを制限してきた自分が、彼女に好かれているわけもないかと彼は自嘲する。ついつい心配になって口出しして、こんな風に顔を赤くして怒っている姿ばかり見ているのだ。ともすれば目も合わせてもらえない、他の人々とはしっかりと目を見て話すというのに。
「シオン、部室行こ」
「そうだな」
文芸部の人々にも迷惑をかけたな、とあざみは唇を噛みしめた。前に一人で抱え込むのは良くないと深見に言ったが、それでも無関係の人を危険に曝すのはあざみの意志に反するのだ。萩や深見、ひまと仲良くなってから悩み事を一人で抱えるのはやめた、けれど今回紫苑を巻き込んだようなやり方は、本当はやりたくなかった。人に頼るのは加減が難しい。
これから少しずつ分かっていれけば良いな、と願うあざみに立ち上がった紫苑が手を差し伸べる。少し悩んでから、あざみはぎこちない様子でその手を取った。




