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第九話
『私は君の名前を呼べないから』
『私が君の名前を呼ぶ時、私は消えてしまうから』
甘く儚い、淡い悪夢。目を覚ますと真っ暗闇な部屋の中だった。隣を見ても誰もいない。一人きりの部屋に彼は自分がかつて閉じ込められていた部屋を思い出し、息が上がっていくのを止められない。
「違う、大丈夫だ……ここはひまとの家で、俺は外に出られる……」
混乱する頭で今の自分の状況を整理する。今日はドッペルゲンガーが出たと言っていたあざみを家に泊めたのだ。夕飯を食べ、片づけをして、それから機関に集まっているドッペルゲンガーの情報を調べて。ひまがあざみと寝たいと言ったので、二人の為に客室のベッドを用意した。そして一人でいつもの寝室へ向かったのだ。久しぶりに悪夢を見た、ひまと眠るようになってからは全く見なかったというのに。
「馬鹿だな……あれからどれだけ経ったと……」
深見はそう呟いて大きく息を吐いた。彼女の閉じ込められていた真っ白な部屋を今でも覚えている。その部屋が赤く染まった日のことも、忘れられるわけがなかった。
「……リン」
深見は落ち着くべく、ベッドから降りて寝室の扉を開く。水を飲もうと階段を降りてキッチンに向かった。開けた冷蔵庫の明かりが真っ暗な部屋を照らす。悪夢で見ていたのは彼の幼馴染の日野 輪だ。名前を呼ばれた人を誘惑する能力を持っていた。古くから伝わる伝承に『魔女が死ぬ直前に手を握ることでその能力は継承される』というものがある。その実験に、輪も深見も使われたのだ。不幸にしたくない、触らないでくれ、と泣きそうな顔で繰り返す彼女の手を取らないなんて深見にはできなかった。そして機関の目論見通り、彼は死ぬ直前の魔女の手を握り、能力を手に入れたのだ。
「……はぁ」
グラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。能力を手に入れた彼は危険人物として隔離部屋に閉じ込められた。外に通じる窓も無い閉鎖的な部屋で、食事は廊下に通じる扉の小窓から差し入れられる。誰とも顔を合わせることも、話すこともできない日々。機関が彼の能力を必要とした時にだけ、目隠しをして目的地へ連れていかれる。彼の能力に、彼の見た目だけにしか興味が無い連中に吐き気がした。彼がどういう人間か、そんなことには全く興味が無い、ただの道具としか思っていない人々。
『ムコウビ アオイだよ。ほら自己紹介しなさい』
ある日機関の職員が連れてきた輪にそっくりの少女。大人しくする為に使ったという薬の副作用で記憶を失い意識も朦朧としている彼女に、相変わらず悪趣味なことをする機関だと憤りを覚えた。そのうえ深見のトラウマを抉るように彼女を連れてきたことも、腹が立つ。彼女の監視をしろと同じ部屋に詰められた深見は、ふと思い立って彼女の名前を呼んだ。
『アオイ』
彼の能力は、人の名前を呼ぶだけで誘惑が出来るという。鼓動が速まり、意識が全て彼に向くのだ。そうすれば彼女の今の朦朧とした意識も、どうにか取り戻せるのではないかと思った。彼の声に彼女の目の焦点が合う。
『アオイ』
『……だれ?』
『俺は……』
意識を取り戻した彼女は深見を不思議そうな顔で見た。名前を聞かれても彼は研究所で番号で呼ばれていたので、何も答えられない。けれど、何か、昔に何か、名前を貰ったことがある。君にこっちでの名前をつけてあげる、と。フカミ、深いの深に見るの見だよ、と。
『深見』
『本当に? それ本当の名前じゃないよ?』
『……分からない、けど誰かが俺をそうやって呼んだんだ』
『そうなんだ! あのね、ひまはアオイじゃなくてひまだよ!』
向日 葵というその名前を深見は空に指で書いて納得した。彼女は満面の笑みを浮かべて深見を見ている。どうせ彼女も機関で利用され続けて、最後は殺されるのだろう。けれど、例え深見のエゴでも、今度こそ守り抜きたいと思った。それが目の前で殺された輪への贖罪になれば良いと思ったのだ。
深見は水をもう一杯グラスに注ぎ、今度はゆっくりとそれを飲み干した。
「深見」
「……っ、あ」
「私がつけた名前、気に入ってくれてるんだ、嬉しいな」
そうだ、この声だ。この声が自分に、名前を付けたのだ。深見は驚いてグラスを落としそうになった。落としかけたグラスを掴んでから慌てて部屋を見回したが、誰もいない。今のは何だったのか、悪夢の続きだったのだろうか。深見は力無くその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。このままベッドに戻って寝ても、きっとまた一人輪を殺すだけだ。
「……深見? え、どうした⁉ 具合悪いのか⁉」
「あざみ……?」
「喉渇いたからお水飲もうと思って来たんだけど……大丈夫か? 立てる?」
あざみは慌ててキッチンの隅に座り込んでいる深見に駆け寄る。名前を呼ぶなと叱りたいところだが、今の明らかに具合が悪そうな彼に言えるわけがない。夕方とは真逆の立場だな、と思いながらあざみは彼をソファに促す。いつまでも床に座っているよりもソファのほうがまだマシだろう。フラフラとソファまで歩く彼を支えるが、正直身長の差を考える限りあまり意味があるとは思えない。それでもひとまず彼をソファに座らせてから、あざみは一度冷蔵庫の前まで戻り水を飲んだ。夏の夜は喉が渇く、それもひまに密着されて寝ていたのでクーラーをつけていてもかなり暑かった。一息ついて、あざみは再度ソファに向かい深見の隣に座る。
「落ち着いた?」
「…………あぁ」
「嘘つき、全然駄目じゃん……電気つけようか、薬とかある? というかどこが痛いの?」
「どこも……電気も大丈夫だ、寝れなくなっちまうし」
「具合悪そうだけど……熱っぽいとか?」
「……昔の夢を見ただけだから、大丈夫だ……悪ィな、心配かけて」
「そう、悪い夢だったのか……それは嫌だな」
あざみは彼の右手に自身の左手を重ねた。夢見が悪いと眠れないのは、あざみにもよく分かる。『あっちの世界』の夢を見てから眠れない時が多々あるからだ。
彼は指を絡めるようにあざみの手を握り返す。
「どうしたの、寂しいわけ?」
「…………そうだな」
「もー……しょうがないな」
あざみはぎこちない動きで彼の背に腕を回した。彼にとって寂しいが何を意味するのか、ひまから聞いている。自分よりも広い背中に頑張って腕を伸ばしていると、あざみはバランスを崩して彼の膝の上によろけてしまった。正直気恥ずかしいが、まぁ仕方ないかとあざみはそのまま膝の上に座り彼の背中を優しく叩く。
「子どもみたい。私より年上のクセに」
「……どうとでも」
「何、アンタ泣いてんの?」
涙声にあざみは呆れたように笑い、彼の頬に両手で触れる。その頬は確かに濡れていて、彼が泣いているのだと分かった。深見の過去についてあざみはざっくりとしか聞いていないが、きっとあざみの想像を絶するような事が行われたのだろうとは予想はついている。
部屋は相変わらず暗いが、夜目がきいてきてよく見えるようになってきた。彼の濡れた瞳と視線がぶつかる。深見の右手が彼女の後頭部へ添えられた。
「…………ねっ、寝れるまでは深見の側に居てやる」
何かが危ない気がして、あざみは慌てて彼から目を逸らす。名前を呼ばれてもいないのに心臓がバクバクとその存在を主張していた。きっと寝不足だからだろうとは思うが、何だか落ち着かないのだ。そんな彼女を深見は抱き締めた。
「ありがとな」
「べ、別に。一宿一飯の恩がとっとと返せるからだし」
あざみらしい返しに深見が笑い声を漏らした。
おい、アウトだぞ、すけこまし
何を後頭部に手を添えてるんだ
アザミが目ェ逸らさなかったら何するつもりだった、言ってみろ




