02
物理講義室は音楽室と同じく十字棟の三階にある。ひとまず部室から少し離れてこの化け物と対峙しなければならない。この得体の知れない存在の目的が分からないからだ。他の人間をなるべく巻き込まないに越したことはない。
「アンタの目的は」
振り返りながら問いかけたあざみの視界に入ってきたのは伸びてくる腕。強い力で押されあざみの身体は後ろに倒れる。よく知っている自分の顔の、見たこともないような歪んだ顔が見えた。その途端に彼女は背中の痛みを感じる。階段から落とされたのだということに気がついたのは、歪んだ顔の自分がゆっくりと降りてくるのを見た時だ。
「……っ、私さぁっ! シオンからよくどんくさいって怒られるんだけど……っ!」
あざみは起き上がり、彼女を睨みながら言った。
「階段からもよく落ちるんだよね……っ! つまりこの痛みは慣れっこってわけ!」
いつもの癖でとっさに受け身をとっていた。腕の痛みはあるが走れないわけではない。相手の目的が分からないので人の少ない所へ誘導しなければと彼女は階段を駆け下りていく。十字棟から中庭を挟んですぐ隣、図書視聴覚棟の方へ進んでいった。一階にある図書室には人が居るかもしれないが、二階にある視聴覚室は放課後に生徒が居るはずがない。階段を駆け上り、視聴覚室の扉を開ける。この学校で唯一の階段教室が広がっていた。カーテンが閉まっている薄暗い教室の中、机を用いてもう一人の自分と距離を取りながら彼女は叫ぶ。
「お前は何が目的なんだ!」
「分かんないんだァ? ばーか」
「私と同じ顔でそんな表情するな」
「えへ、気をつけないと……私はこれからアンタになるんだから」
やはりこれがドッペルゲンガーなのか、とあざみは目を見開いた。先ほど顔しか知らない女子生徒が言った噂が速攻本当になってしまったのか。そうなると今あざみにできることは目の前の存在から逃げることしかできない。恐らくだが、あざみに成り代わることを目的としているのならば他の人間には危害を加えないはずである。
ちょうどすぐ目の前の机に誰かの忘れ物のアルミ製の筆箱があった。あざみはそれを手に取ると思い切りドッペルゲンガーに投げつける。筆箱がが彼女の顔に直撃しうずくまった瞬間、あざみは走って入口の方へ逃げていく。そのま入口近くの机の後ろにしゃがみ込んで隠れ、左手で胸元の指輪を握り入口の方を睨む。その瞬間、開いていた入口の扉が勢い良く閉まった。やはり紫苑と萩から指輪を受け取ってから『力』を上手く使えるようになっているし、一度使ったぐらいでは倒れないようになっている。
「あァもう、外に逃げられたか……面倒臭いな……」
息を潜めているあざみの耳に、苛立っているドッペルゲンガーの声が聞こえる。このまま一度撒いてしまえば、落ち着いて立て直せるはずだ。正直もう体力の限界で、逃げることすら難しい。さっきのタイミングで外に出たとて人の多い場所に辿り着くまで逃げ切れるかが怪しいゆえの判断だった。スリッパ特有のペタペタという足音、入口に向かっているようだ。顔を覗かせるわけにはいかず、音だけでそれを認識するあざみは机の陰で小さくなり呼吸を止めていた。
それから入口が開き、閉まる。その音が聞こえてもあざみはしばらく息を止めたままだった。もう行ったかと彼女が入口の方へ振り返ったその時、逆さまの自分の顔がすぐ目の前に見えたのだ。
「あはは、小賢しいことするねェ」
息を止めていた為、あざみは悲鳴を出せなかった。出せたとしても誰も助けてはくれないだろう。何故足音がしなかったのか、パニックになりながら彼女の姿を見るとスリッパを脱いでいるではないか。しかしそれが分かったとてもう遅い。ドッペルゲンガーの手があざみの首へと伸びてくる。あざみは急いで立ち上がり一気に教室の下へと走っていく。大きなスクリーンのすぐ左、そこには投影用のパソコンなどが置いてある小部屋があるのだ。そこに入って鍵を閉めるしかない。
「……はっ……鍵……っ、閉めて……はぁっ……!」
息を切らしながらも扉をバタンと力強く閉め、真っ暗な部屋の中ドアノブの鍵を探す。しかし無慈悲にもそこに鍵など存在しなかった。あざみが扉を閉めようとドアノブを掴んで引っ張るも、ドッペルゲンガーのほうが力が強いのかどんどん隙間ができていく。
「頼むから閉まって……っ!」
あざみがそんな悲鳴を上げた瞬間、扉は再び勢い良く閉まった。その勢いに押されあざみは後ろによろけ尻もちをつく。ガチャガチャと乱暴にドアノブが回されるも、扉はビクともしない。そんな様子を見ながら、あざみの意識は遠退いていった。




