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第七話
朝七時半、深見はいつものように学校に着く。駐車場に車を停めた後、エンジンを休ませる為に十ほどエンジンを切らずにいるのも日課だった。その間に後部座席にいたひまは意気揚々と降りて下足室へと走っていく。今日はクラスメイトと朝からグループワークをするのだと昨日の夕飯の際に嬉しそうに言っていた。エンジンを切り、鞄を持って車から降りるといつものようにニャアという鳴き声が聞こえ彼は足元に視線を落とす。
「よ、元気か」
黄色い目をした短毛の黒猫が一匹、彼を見上げている。鞄を地面に置きしゃがみ込んで彼は両手でその猫の頬を包んだ。そのまま猫の顎から首にかけて撫でると嬉しそうにニャアと鳴く。
「最初の頃からは考えられねぇよな」
彼がこの学校に赴任させられて早一ヵ月と少しが経った。こんなに多くの人々と接する機会は初めてで、なかなかに興味深い毎日だ。
この黒猫とは初めてこの学校に来た日に知り合った。知り合った、というにはいささか語弊があるかもしれない。初めの日はこの猫は深見に向けて思い切り威嚇をしてきたからだ。それはもう凄まじい威嚇で、全身の毛は逆立て牙を剥きシャアと叫んでいた。機関で育った深見にとっても図鑑で知ってこそいるものの実際の猫を間近に見るのは滅多にないことで流石に驚いた。しかし毎日顔だけ覗かせては威嚇してくる猫にめげずにしゃがみ込んで話しかけているうちに、猫のほうから段々と近づいてきたのだ。初めて触れたのは話しかけ続けて三週目のことだった。彼の足に鳴きながら擦り寄ったその猫は、思いのほかふわふわで手触りが良かった。それからは毎日撫でるようになり、今日に至る。彼を信頼して寄り添ってくるその温もりは心地の良いもので。
「なぁ、今日もふわふわだな……ん? 背中撫でてほしいのか?」
彼は知らない、朝から駐車場で猫を撫でるイケメンがいるという噂が立っていることを。そのせいか朝早く登校する生徒が増え、遅刻する生徒が減ったということも。背中を撫でろと押し付けてくる猫に促されるまま首から背中へ手をスライドさせると、また嬉しそうにニャアと鳴いた。そのまま猫はくるりと寝転がり彼に腹を見せる。無防備な姿に深見もついつい満面の笑みを浮かべた。
「アンタのおかげで仕事頑張れるよ、ありがとな」
深見の言葉に返事をするかのように再び猫はニャアと鳴いた。それから猫は何かに気がついたように立ち上がり門の方へ歩き出す。猫を目で追っていった先、深見が視線を上げるとそこにはあざみが立っていた。驚いた顔で深見を見る彼女の目に、そういえばいつもの猫と同じ色の目だなと気づく。
「よぉ」
「おはよ」
彼女は無表情で深見に返事をする。その足元には黒猫が絡みついていた。彼女はリュックを背負ったまましゃがみ込む。フッと笑ってから猫の耳から頭にかけてを愛しそうに撫でていた。
「深見もこの子と仲良いんだ」
「あぁ、最初はかなり嫌われてたけどな」
「へぇ? 私は最初から好かれてたけど……なぁ? 猫ちゃん?」
得意気に笑うあざみに猫もニャアと返事をする。あざみもそれに対してニャアと返していた。普段の彼女からは考えられないぐらいに気を許している。そんな彼女も最初はかなり深見に対して警戒していたわりに今では挨拶も返してくれるぐらいにはなった。
「あ! お姉ちゃんだ! おはよ~~! 登校してくるの早いんだね?」
「ちょうどの時間だと地下鉄もバスも混むから」
「でもお姉ちゃんクラスにお友だちいないのに、一時間も何してるの?」
「失礼な……事実だけど…………普通に音楽聴きながら本読んだりスマホ見たりしてたらあっという間だし」
「ええ~~! 保健室来たら良いのに! ひまお姉ちゃんとお喋りした~~い! お昼休みだけじゃ足りないもん~~!」
「ひま、アンタ今日はグループワークするんだろ? クラスに行かなくて良いのか?」
「あ! 本当だ! そしたらまたお昼ねお姉ちゃん!」
ローファーからスリッパに履き替え、教室に向かう為に再び外に出てきたひまがあざみの姿を見つける。彼女の勢いにあざみは見るからに困っていた。そんな彼女に助け舟を出すように深見がひまに教室へ行かなくて良いのかと聞くとひまは慌てて教室へ走っていく。そんな後ろ姿を見てあざみは安堵を溜め息をもらした。
「悪ィな、朝から」
「うげ、保護者面……シオンみたい」
「俺は実際アイツの保護者だしな」
「というか深見、最初に会った時ひまとの関係を他の生徒にバラすぞって萩に脅されてたのに一緒の車に乗ってきたら普通にバレるんじゃないの?」
「それはひまが車を降りる時に『力』で認識阻害してるから大丈夫だ」
「『力』で……認識阻害……?」
何だそれは、という表情をあざみは浮かべる。確かにあざみと同じひまの能力はわりと何にでも応用できるが、認識阻害までできるとは思っていなかった。そんなことができるのならば無駄に人の注目を集めてしまう自身ももう少し楽になるのではないだろうか。あざみは目を輝かせて深見を見上げる。
「その話、もっと知りたいかも……いや! あの、その、小説! 今書いてる小説でひまみたいな能力がある人を主人公にしようかな~~なんて思ってるだけ!」
「はいはい。んじゃ荷物置いたら保健室来いよ、いつまでも立ち話っていうのも何だしな」
「分かった。すぐ置いてくる」
じゃあな猫ちゃん、と彼女は猫を最後に一撫ですると下足室へ足早に向かっていった。深見も職員用玄関から入りスリッパに履き替える。保健室の鍵を開け、荷物を置いた。それから湯沸かしポットに水を入れクーラーをつける。その時保健室の扉が開いた。勿論そこにはあざみが立っている。
「早かったな」
「もう既にクラスの人が来てて気まずかったから。秒で荷物置いて出てきた」
「でも普段はそのまま本読んでんだろ」
「避難場所があるならそっちのほうが良いに決まってる。言わないと分からないのか?」
「言わないと、というかなぁ……」
クラスよりも保健室のほうが居心地が良いと言っていることに彼女は気がついていない。ポットに入れていた水が沸騰したので紅茶を用意して彼女に渡す。相変わらず何の疑いもなくそれを受け取り、すぐさま口をつけた。出会った日に比べるとかなり心を許されているな、とは深見も思っている。
「アンタ、猫みたいだよな……初日は威嚇してきたのに今じゃ普通にここに来るし」
「あんな可愛くないし。嫌味か?」
「素直に受け取れねぇかなぁ」
「うるさい、すけこまし」
あざみは深見をギロリと睨みつけた。自分が猫みたいに可愛ければどれだけ人生楽なことか
どれだけ悪いことをしても可愛さだけで許される。紫苑だって猫に思い切り引っかかれても許していたな、とあざみは思い出した。
ある日の夕方下校前、駐車場の黒猫をあざみが萩と一緒に撫でていた時だ。ちょうど剣道部も終わったのか自転車置き場に向かおうとした紫苑が下足室から出てきた。彼は二人の姿を確認すると近づいてきて、自分も猫を撫でようと手を伸ばしたのだ。けれどもいきなり触られて驚いたのか猫はしゃがんでいた彼の頬を引っ搔いた。
茫然とした彼の顔を思い出しあざみはクスクス笑う。理由は知らないが紫苑は昔から猫が好きだ
猫を飼わないのかと聞けば今は十分だと言っていた。けれどもつい最近猫用のケージを調べていたな、とふと思い出す。猫を飼い始めたのだろうか。いつもの無表情からは考えられない、怖いぐらいに真剣な目でショッピングサイトを見ていた。大型、それも160cmサイズのケージを探していたので、もしかするととんでもなく大きい猫かもしれない。デカい猫はそれはきっともう可愛いことだろう、家に行けば会わせてもらえるだろうか。その話を萩にすると彼女は遠い目でそう、とだけ言っていたが。
「それで、ひまが認識阻害してるってどういうこと?」
「ひまの『力』は『物質と波長を合わせる力』だ。それを応用して色んな現象を起こしてる……それは知ってるよな?」
「それは、まぁ……」
「それで自分自身を自分の周囲の空気と合わせて、まるでそこに居ないかのように見せてるんだ」
「なるほど。それは盲点だったかも……自分自身を周りの空気と」
「おい待て」
深見は慌てて彼女の手を握った。彼女は驚いた顔で瞬きを繰り返してから、ハッとして青ざめる。初めて会った日から早一ヵ月、深見も彼女の性格を理解してきた。何か気になることがあればすぐに試そうとするのだ。
「頼むから、迂闊なことしないでくれよ」
「わ、悪かった」
今のは自分でも迂闊だったとあざみは反省する。試したいとしても、後で深見やひまの居ない所で試さなければならない。学校にも他の機関の人間がいるというならば、後で地元に戻ってから紫苑の前で試してみようとあざみは頷いた。彼女が頷いたのを見て深見もその手を離す。
「……けれど、ひまは凄いな。そんな正確に『力』を使えるのか」
「まぁ、機関で訓練させられてるしな」
「しかも使っても倒れないんだろ」
「それもまぁ訓練と……あと、ひまのネックレスを見たことあるか?」
ひまのネックレス、というと彼女が毎日着用している橙赤色の六角柱型の石のネックレスをあざみは思い出して頷いた。ピアスは毎日違う物をつけているが、ネックレスだけは毎日同じ物をつけている。それはあざみも同じで、自身の首元にかかる二本の指輪を指でいじった。
「あれで『力』の制御をしてるんだ」
「ネックレスで制御……?」
「そ、ひまの『力』の形があのネックレスの石と同じなんだ。だからあれを身に着けてるとやりやすいらしい……まぁ、感覚的なところは俺には分からねぇんだけどな、おかげで昔は一日に一回しか使えなかった『力』も今では三回は使えるようになったんだ」
「一日に三回も⁉……しかしそうか、『力』の形っていうのがあるのか……」
「そうだぞ、人によって違うんだ」
指先でチャリチャリと音が鳴る。二本の指輪がチェーンとぶつかる音だ。そういえばこれを貰って首にかけた時に身体の調子が良くなったんだった、とあざみは思い出す。いつも不安定だった『力』の流れがハッキリと分かるような、そんな感覚。これこそひまのネックレスと同じで自分の『力』の形と同じなのではないだろうか。しかしながら流石にここで『力』を試すわけにはいかない、先ほど注意されたばかりだ。けれども試したくてうずうずしてきた。これまでは一日に一回使う『力』ですら倒れていたが、今なら何度か使えるかもしれないのだ。どこか絶対に人目につかない場所を探さなければならない。いっそ交差点から異世界に行きたいぐらいだ。
「……参考になった。良い小説にできると良いけど」
「それは良かった。ひまが世話になってるし協力できることはするぞ」
「ま、まぁ……皆でお昼食べるのは私も楽しいし……別に気にしなくて良いけど……これからも朝ここに来ても良い?」
「ひまが喜ぶし、むしろ大歓迎だけど……椎名は大丈夫なのか?」
「シオン? 何で?」
あざみは首を傾げる。ひまからも紫苑はまだ深見たちのことを警戒しているらしい、という話は聞いている。それももっともだと思うので深見としては何ともないが、あざみがここに朝来るとなるとまた揉めそうだなと彼は苦笑した。
その時、八時二十五分の予鈴が鳴る。あざみは音に驚いたのか肩を跳ねさせていた。
「やば、教室行かなきゃ」
「はいはい。気をつけてな」
「紅茶ご馳走様……それから、えっと」
彼女は慌てて立ち上がり保健室の扉を開ける。ムワっとした夏らしい空気が保健室に入ってきた。彼女は振り返り一度深見を見てから目を逸らし、フッと微笑む。
「また明日」
言い逃げるかのように彼女はすぐさま外に出て扉を閉めた。微かに聞こえる蝉時雨とクーラーの音。深見は二杯目のコーヒーを用意して椅子に座った。既に満ち足りた気持ちではあるが、これから一日が始まる。
仕事頑張れるな、と彼は笑ってパソコンを立ち上げたのだった。
ねこちゃん




