第52話 夫婦だけの結界
浴室へ入った俺は、いつもより念入りに身体を洗った。
サラに言われたからではない。
いや、言われたからかもしれない。
髪を洗い、採石場でついた細かな傷の周りまで丁寧に流す。
湯船に浸かっても、なかなか落ち着かなかった。
目を閉じると、先ほどのリオナが浮かんでくる。
濡れた褐色の肌。
俺へ押しつけられた柔らかな胸。
引き締まった腰と、弾力のある尻の感触。
「女として見てる?」
そう尋ねた、金色の瞳。
「考えるな」
いま寝室で待っているのはサラだ。
それなのに、リオナの裸を思い出したままサラに会うのは、何かが違う気がした。
「遅いっピ」
浴室の外から、シロちゃんの声が聞こえた。
「まだ入っているのかっピ?」
「もう出る」
「サラが待ちくたびれているっピ」
「どうしてシロちゃんが知らせに来るんだ」
「伝言役だっピ」
「サラは何て言っていた?」
「まだでしょうか、と三回聞かれたっピ」
「分かった。すぐに行く」
「今夜のシロちゃんは、リオナの部屋で寝るっピ」
「そうしてくれ」
「何かあっても呼ばないでほしいっピ」
「呼ばない」
「家族の危機なら呼んでいいっピ」
「今夜は何も起きない」
「本当かっピ?」
返事をする前に、シロちゃんが飛び去った。
湯船から上がり、乾いた布で身体を拭く。
寝間着に袖を通すと、浴室を出た。
居間の灯りは消えている。
リオナの部屋の前には、シロちゃんの小さな籠が置かれていた。
「ルナト」
扉の奥からリオナの声がする。
「どうした?」
「サラ、待ってるよ」
「分かってる」
「おやすみ」
「おやすみ、リオナ」
一瞬の沈黙。
「……楽しんでね」
「何をだ?」
「知らない」
それきり返事はなかった。
俺は寝室へ向かう。
扉の前に立つと、なぜか緊張した。
夫婦になってから、同じ寝台で何度も眠っている。
サラの身体に触れたこともある。
それでも今夜は、いつもと違う。
俺は扉を開けた。
「遅かったですね」
サラは寝台の端に座っていた。
長い栗色の髪を下ろし、白い寝間着を身につけている。
薄い布越しに、豊かな胸の形が浮かんでいた。
「念入りに洗っていた」
「私が言ったからですか?」
「それもある」
「きれいになりましたか?」
「ああ」
「確認してもいいですか?」
サラが立ち上がる。
俺の前まで歩き、胸元へ顔を近づけた。
「石鹸の匂いがします」
「同じ石鹸を使ってるだろ」
「そうですけど、ルナトからすると違う匂いに感じます」
サラの指が、俺の濡れた髪に触れる。
「まだ乾いていません」
「そのうち乾く」
「駄目です。風邪を引きます」
サラは用意していた布を手に取り、俺の髪を拭き始めた。
寝台へ座らされ、その後ろにサラが立つ。
髪を拭くたび、柔らかな胸が俺の後頭部へ触れていた。
偶然なのか。
わざとなのか。
「サラ」
「はい?」
「当たってる」
「何がですか?」
落ち着いた声だった。
しかし、耳は赤い。
「分かってるだろ」
「分かりません」
「胸が当たってる」
俺がはっきり言うと、サラの手が止まった。
「……嫌ですか?」
「嫌じゃない」
「それなら、もう少し我慢してください」
再び髪を拭き始める。
今度は先ほどより、はっきりと胸が押しつけられた。
大きく柔らかな膨らみが、頭の後ろで形を変える。
「乾きました」
しばらくして、サラが布を置いた。
俺の隣へ腰を下ろす。
「ルナト」
「うん?」
「リオナの裸は、きれいでしたか?」
予想していなかった質問だった。
「どうして聞くんだ?」
「気になるからです」
「怒らないのか?」
「正直に答えてくれたら、怒りません」
「……きれいだった」
「やっぱり」
サラは自分の胸元を見る。
「私よりも、引き締まっていましたよね」
「比べてない」
「本当ですか?」
「そんな余裕はなかった」
これは本当だ。
リオナが転ばないように支えるだけで精いっぱいだった。
「胸は?」
「サラ」
「大きかったですか?」
「それも答えないと駄目か?」
「はい」
「大きかった」
「私と、どちらが?」
「比べてない」
「ルナトは、逃げています」
サラが身体を寄せてくる。
「確かめますか?」
「何を?」
「どちらが大きいか」
「リオナを呼ぶつもりか?」
「呼びません!」
サラが俺の肩を軽く叩いた。
「私のことです。きちんと見て、触れて、覚えてください」
サラは寝間着の胸元へ手をかけた。
細い紐を、一つずつ解いていく。
白い肌が少しずつ露わになる。
やがて布が左右へ開き、豊かな胸がこぼれ出した。
丸く柔らかな膨らみ。
その先にある淡い桃色まで、灯りの下に晒される。
サラは両腕で隠そうとしなかった。
恥ずかしそうに頬を染めながら、俺へ見せている。
「見てください」
「見てる」
「感想は?」
「きれいだ」
「それだけですか?」
「柔らかそうだ」
「それは、触らないと分かりません」
「触っていいのか?」
「そのために見せたんです」
俺は手を伸ばした。
掌で、サラの胸を包む。
指の隙間からこぼれそうなほど大きい。
軽く持ち上げると、想像以上の重さがあった。
「んっ……」
サラが息を漏らす。
「痛くないか?」
「大丈夫です。もう少し、優しくしてください」
掌全体で、ゆっくりと形を確かめる。
柔らかな肌が指に沈み、離すと元へ戻っていく。
親指が淡い桃色へ触れた。
「ぁ……」
サラの身体が、小さく跳ねる。
「そこは、感じるのか?」
「聞かないでください」
「嫌なら触らない」
「嫌とは言っていません」
サラが俺の手へ自分の手を重ねた。
逃げるのではなく、さらに胸へ押しつける。
「ルナトに触ってほしいです」
俺はサラを抱き寄せ、唇を重ねた。
最初は触れるだけ。
次第に深く、長い口づけへ変わっていく。
サラの腕が、俺の首へ回された。
「ん……ルナト……」
唇が離れる。
濡れた吐息が触れ合うほど、近い距離だった。
「朝の続きですね」
「そうだな」
「朝は、リオナに止められました」
「悪気はなかっただろ」
「分かっています。でも、今夜は誰にも邪魔されたくありません」
サラが右手を扉へ向けた。
淡い光が広がり、寝室の壁を薄く覆っていく。
「《結界魔法》?」
「音を完全に防ぐことはできません。でも、扉を開きにくくするくらいなら」
「そんな使い方でいいのか?」
「私たちを守るためです」
「何から?」
「シロちゃんからです」
廊下の向こうから声がした。
「聞こえているっピ!」
サラが慌てて結界を解除する。
「聞き耳を立てないでください!」
「シロちゃんは通りかかっただけだっピ!」
「自分の籠へ戻ってください!」
「今度こそ、おやすみだっピ!」
小さな足音が遠ざかっていく。
サラは両手で顔を覆った。
「恥ずかしいです……」
「サラが大きな声で言うからだ」
「ルナトも止めてください」
「面白かったから」
「もう知りません」
サラが背中を向ける。
白い寝間着が肩から落ち、滑らかな背中が露わになっていた。
細い腰。
そこから下へ続く、女性らしい丸み。
俺は後ろからサラを抱きしめる。
「怒った?」
「少しだけです」
「どうすれば許してくれる?」
「ルナトが考えてください」
耳元へ顔を近づけ、白い首筋へ口づける。
「ひゃっ……」
サラの肩が震える。
「これでどうだ?」
「まだです」
もう一度、今度は少し下へ唇を触れさせる。
「ん……」
サラの身体から力が抜け、俺へ預けられた。
「許してくれる?」
「もう少しです」
「欲張りだな」
「妻ですから」
サラが振り返り、俺を寝台へ押し倒した。
いつも大人しく、恥ずかしがり屋のサラとは思えない。
俺の腰へ跨り、寝間着の残った紐を解く。
白い布が肩から滑り落ちた。
灯りの下に現れた裸身へ、俺はしばらく目を奪われる。
豊かな胸。
柔らかなくびれ。
丸みを帯びた腰。
サラは隠そうとしたが、途中で手を止めた。
「今夜は、きちんと覚えてもらうんでした」
「ああ。忘れない」
「リオナの身体を見ても?」
「サラはサラだ。誰かと比べる必要はない」
「私は、ルナトの一番ですか?」
「当たり前だ」
「これから家族が増えても?」
「サラが俺を信じて、一緒に逃げてくれたことは変わらない」
鉱山で過ごした日々。
二人で隠れて修行した夜。
剣と盾、地図、コンパスを手に入れ、命がけで逃げ出した。
俺たちの始まりは、ずっと二人だった。
「サラがいなければ、俺はここまで来られなかった」
「私もです」
サラの目に、薄く涙が浮かぶ。
「ルナトがいなければ、今もあの鉱山にいました」
「もう戻らなくていい」
「はい」
「これからも一緒だ」
「ずっと、ですよ」
サラが身体を倒し、俺の胸へ重なる。
唇を交わし、互いの温もりを確かめる。
柔らかな胸が押しつぶされ、俺の肌へぴったりと重なった。
「ルナト」
「うん?」
「好きです」
「俺も好きだ」
それからは、言葉よりも触れ合う時間の方が長かった。
唇を重ねる。
髪を撫でる。
背中から腰へ手を滑らせる。
触れるたび、サラは小さく声を漏らし、俺の名前を呼んだ。
灯りを消したあとも、互いの身体の形は分かった。
夫婦として結ばれた夜とは違う。
今日は安心だけではなく、相手を求める熱があった。
「ルナト……もう少し、近くに」
「これ以上か?」
「足りません」
サラの指が、俺の指へ絡む。
「もっと、私を見てください」
「ああ」
掛け布が、ゆっくりと二人の身体を隠す。
声が漏れないように結界を使う余裕など、もうサラには残っていなかった。
◇
どれほど時間が経ったのか。
俺たちは薄い掛け布の中で、身体を寄せ合っていた。
サラの頬は赤く、額には汗が浮かんでいる。
乱れた栗色の髪が、白い胸へ張りついていた。
「水、飲むか?」
「はい」
俺は寝台の横に置いていた水差しから、杯へ水を注ぐ。
サラは上体を起こした。
掛け布が腰まで落ち、裸の胸が現れる。
隠す様子もなく、俺から杯を受け取った。
「おいしいです」
「喉が渇いたな」
「ルナトのせいです」
「サラも、ずいぶん積極的だっただろ」
「知りません」
「覚えてないのか?」
「忘れてください」
「きちんと覚えてほしいと言ったのは、サラだ」
「身体のことです。声や言葉は忘れてください」
「無理だな」
「ルナト」
サラが俺の肩を叩く。
力はまったく入っていなかった。
「明日の朝、リオナと顔を合わせられません」
「聞こえてないかもしれない」
「シロちゃんには、聞こえたと思います」
「耳が高性能だからな」
「結界を維持できればよかったのに……」
「途中から魔法どころじゃなかっただろ」
「もう言わないでください」
サラが掛け布の中へ潜る。
そのまま俺の胸へ額を押しつけてきた。
「でも」
「うん?」
「幸せです」
布の中から、くぐもった声が聞こえる。
「私、ずっと怖かったんです。家族が増えたら、ルナトが遠くへ行ってしまう気がして」
「行かない」
「分かっています」
サラが顔を出す。
「今日、きちんと分かりました」
「ならよかった」
「だからリオナとも、きちんと向き合ってあげてください」
「今夜のあとに言うのか?」
「今夜だからです。ルナトの気持ちを、たくさんもらいましたから」
サラは俺の胸に手を置いた。
「余裕ができました」
「サラは強いな」
「強くありません。嫉妬もします」
「それでいい」
「リオナと二人で出かけたら、帰ってきたあと私も甘やかしてください」
「分かった」
「約束ですよ」
小指を絡める。
子供のような約束だった。
それでもサラは満足したらしい。
「寝る前に、魔力循環をしましょうか」
「今日は休んでもいいんじゃないか?」
「魔力を少し残してあります」
俺たちは寝台の上で向かい合う。
服を着るのが面倒だったため、掛け布で身体を隠したままだ。
両手を前へ出す。
バスケットボールほどの大きさの球を、二人で左右から掴むように手を合わせた。
俺の右手から放った魔力を、サラの左手が受け取る。
サラの右手から返された魔力を、俺の左手で受ける。
一つの輪となった魔力が、二人の間を巡り始めた。
「今日の魔力、いつもより温かいです」
「《家族の食卓》の影響か?」
「それだけではない気がします」
穏やかな魔力が循環する。
その中心へ、蛍のような光が現れた。
以前は、注意して探さなければ見失うほど小さかった。
だが今夜の光は、米粒ほどの大きさになっている。
「大きくなっています」
「ああ」
白く淡い光が、俺たちの手の間を漂う。
一度だけ、喜ぶように瞬いた。
「この子も、私たちの魔力が嬉しいのでしょうか」
「分からない。でも、嫌がってはいないと思う」
「いつか話せるようになるといいですね」
「気が早いな」
「家族になるかもしれませんから」
サラが微笑む。
俺たちは魔力が尽きるまで循環を続けた。
小さな光は消えず、二人の間で何度も瞬いていた。




