第5話 初めての町
川辺で短い休息を取ったあと、俺とサラは再び歩き始めた。
目指すのは、地図に記された東の町だ。
鉱山から流れる川を南へ下れば、途中で街道と交わる。そこから東へ進めば、二日ほどで町へ着くはずだった。
地図が正しければ、だが。
「この川で合ってるよね?」
サラが地図と周囲を見比べる。
「鉱山の南を流れている川は、これしかない」
「途中で分かれていたら?」
「そのときはコンパスを使う」
「コンパスが壊れていたら?」
「……少しは信用してくれ」
「ルナトじゃなくて、盗んできた道具を心配してるの」
そう言いながら、サラはコンパスを軽く振った。
針は少し揺れたあと、同じ方向を指し示す。
今のところ、壊れている様子はない。
俺たちは川に沿って森の中を進んだ。
鉱山から少しでも距離を取りたい。
だが、急ぎすぎて体力を使い切れば、魔物に襲われたときに戦えなくなる。
俺は左腕を動かした。
盾で攻撃を受けたため、まだ鈍い痛みが残っている。
剣を振れないほどではない。
それでも、昨日と同じ魔物が三頭現れれば、無事に勝てる自信はなかった。
「腕、まだ痛い?」
前を歩いていたサラが、こちらを振り返る。
「少しだけだ」
「見せて」
「朝に見ただろ」
「歩いて悪くなってるかもしれない」
サラは譲らなかった。
仕方なく、盾を外して左袖をまくる。
赤くなっていた部分が、少し青黒く変わっていた。
サラが指先で周囲へ触れる。
「痛い?」
「そこは大丈夫だ」
「ここは?」
「少し痛い」
「骨は大丈夫そうだけど、今日はなるべく盾を使わないで」
「魔物が出ても?」
「そのときは使っていい。でも、それ以外では休ませて」
「分かった」
サラは鞄から布を取り出し、俺の腕へ巻いた。
鉱山から持ち出した傷薬は使わない。
傷口があるわけではないし、残りも少ないからだ。
「サラは疲れてないか?」
「少しだけ」
「鞄を持つ」
「腕を休めるんでしょう?」
「右腕は使える」
「私の荷物まで持ったら、ルナトが先に疲れるよ」
「重くないならいいが」
「大丈夫」
サラは鞄を背負い直し、再び前を向いた。
鉱山では、誰かを心配する余裕などなかった。
自分の仕事を終えなければ食事を減らされる。
倒れた者を助ければ、その分だけ自分の仕事が遅れる。
それでもサラは、負傷した奴隷たちを何度も手当てしていた。
だから《応急処置》と《看護》を習得したのだろう。
職業は《斥候》だが、いつか治療に関係する職業も見つかるかもしれない。
水晶の欠片があれば、条件を満たした職業へ転職できる。
だが、今は《斥候》の力が必要だ。
追手と魔物を警戒しながら、無事に町までたどり着かなければならない。
◇
昼を過ぎても、鉱山からの追手は現れなかった。
警報の鐘も、もう聞こえない。
だからといって、諦めたとは限らない。
俺たちが南へ向かったと知られれば、街道や町で待ち伏せされる可能性もある。
「街道へ出る前に、少し離れた場所で様子を見よう」
俺が言うと、サラも頷いた。
「人がいたら、私が先に確かめる」
「頼む」
森を歩き続けると、川幅が少しずつ広くなってきた。
水の流れも緩やかになっている。
日が傾き始めた頃、サラが立ち止まった。
「水の音に混じって、別の音がする」
「どっちだ?」
「あっち」
サラが指した先へ、慎重に近づく。
木々の隙間から、土を踏む音が聞こえてきた。
馬の蹄だ。
俺たちは草むらへ身を隠した。
しばらくすると、荷車が街道を通り過ぎていく。
御者台には男が一人。
荷台には、布をかけられた木箱が積まれていた。
追手ではない。
普通の商人だろう。
荷車が見えなくなってから、俺たちは森を出た。
「街道だ」
地図に描かれていた道へ、ようやくたどり着いた。
広くはないが、荷車が通れる程度には整えられている。
車輪の跡も残っていた。
「こっちが東」
サラがコンパスを確かめる。
「町まで、あとどれくらい?」
「地図では一日か、それより少しかかる」
「今日はここまでにする?」
空を見る。
森の向こうへ、太陽が沈みかけていた。
暗くなってから街道を歩くのは危険だ。
魔物だけでなく、盗賊が現れる可能性もある。
「街道から見えない場所で休もう」
「うん」
俺たちは再び森へ入り、野営できそうな場所を探した。
雨を避けられる大木の近くに、少し開けた場所があった。
周囲には魔物の足跡も見当たらない。
サラが《気配察知》で何度も安全を確かめる。
俺は乾いた枝と落ち葉を集めた。
昨日習得した《火起こし》を使い、小さな火を作る。
明るくしすぎれば遠くから見つかるため、必要最低限に抑えた。
「今夜は、ここで寝るの?」
サラが地面を見つめる。
「嫌か?」
「鉱山の寝台より柔らかそう」
「それは言いすぎだろ」
「石の上に薄い布を敷いただけだったよ」
「……それよりはましか」
地面へ外套を一枚敷いた。
もう一枚は、二人でかけるために残す。
保存食の硬いパンと干し肉を取り出し、鍋で温めた湯と一緒に食べた。
味はよくない。
それでも、自分たちで食べる時間を決められる。
監視役の目を気にせず、ゆっくり噛むこともできる。
「町へ着いたら、最初に何をしたい?」
サラが干し肉を小さくちぎりながら尋ねた。
「身分証を手に入れる」
「それは必要なこと。そうじゃなくて、自由に選べるなら何をしたい?」
考えたことがなかった。
鉱山では、明日の仕事を終えることしか考えられなかった。
自由になったら何をしたいか。
そんなことを考えても、苦しくなるだけだったからだ。
「温かい料理を食べたい」
しばらく考えてから答えた。
「硬いパンと薄いスープじゃないもの」
「私も」
「それから、風呂に入りたい」
「それは絶対に入りたい」
サラが自分の髪へ触れる。
川の水で顔や手は洗ったが、身体や髪には鉱山の汚れが残っている。
「サラは?」
「服が欲しい」
「今の服では町で目立つからな」
「そういう理由じゃなくて、自分で選んだ服が欲しいの」
サラは自分が着ている粗末な服を見下ろした。
「これも、鉱山で渡されたものだから」
「そうか」
「色も形も、自分で選んでみたい」
高価な服を買う余裕はない。
それでも、古着なら手が届くかもしれない。
「町で仕事を見つけたら、買おう」
「うん」
サラが嬉しそうに笑った。
俺は武器庫から持ち出した革袋を取り出した。
町へ着く前に、所持金を確認しておく必要がある。
二人で硬貨を数える。
合計は二万三千六百Gだった。
「多いの?」
サラが尋ねる。
「分からない」
俺も鉱山へ売られる前は子供だった。
物の値段について、詳しく覚えていない。
「少なくとも、何日か食べるくらいはできると思う」
「町へ入るのにも必要かもしれないね」
「ああ。無駄遣いはできない」
硬貨を革袋へ戻し、服の内側へ隠した。
水晶の欠片は、別の小袋に入れている。
Gを盗まれても困るが、水晶の欠片を失うほうが危険だ。
欠片がなければ、ステータスの確認も転職もできなくなる。
「先に寝てくれ」
俺は剣を手元へ置いた。
「最初は俺が見張る」
「腕は大丈夫?」
「ああ。眠るときに休ませる」
「交代の時間は?」
「火が半分くらいになったら起こす」
「分かった」
サラは外套の上へ横になった。
俺はもう一枚の外套をかける。
「ルナトは寒くない?」
「火がある」
「でも――」
「交代したら、俺が使う」
サラは少し迷ったあと、目を閉じた。
疲れていたのだろう。
すぐに小さな寝息が聞こえ始める。
俺は火のそばに座り、周囲の暗闇を見つめた。
鉱山とは違う暗さだ。
風が吹き、枝葉が揺れる。
虫や小動物の声も聞こえる。
一つひとつの音へ反応していたら、眠るまで身体がもたない。
危険な音と、そうではない音。
まだ俺には区別がつかなかった。
サラが《斥候》でいてくれることが、どれほど心強いか分かる。
夜の途中でサラを起こし、見張りを交代した。
俺も外套の上へ横になる。
地面は硬い。
だが、鉱山の寝台より不思議と眠りやすかった。
誰かに起こされる心配がないからかもしれない。
◇
翌朝。
目を覚ますと、サラが火のそばに座っていた。
「おはよう」
「何かあったか?」
「近くを小さな動物が通っただけ。魔物も人も来なかったよ」
俺は身体を起こした。
その瞬間、頭の中で声が響く。
> 《野営を習得しました》
> 《初級スキル図鑑へ登録します》
>
> 登録数:12/90
「《野営》を覚えた」
「一晩、外で眠ったから?」
「それだけじゃないと思う。安全な場所を探して、火と見張りを用意したからだろう」
図鑑を開き、《野営》の項目を確認する。
> 《野営》――登録済み
> 習得のヒント:屋外で安全に夜を越すため、寝床、火、食料、見張りを整える。
昨日行ったことが、そのままヒントに含まれている。
「図鑑があれば、欲しいスキルを狙って習得できるんだね」
「ああ。ただ生活するだけでも、埋められるものは多そうだ」
初級スキルは残り七十八種類。
まだ先は長い。
だが、すべてを俺一人で覚える必要があるのだろうか。
サラが習得した《応急処置》や《看護》は、俺の図鑑には登録されていない。
今のところ、図鑑が記録しているのは俺自身のスキルだけだ。
今は一つずつ、自分にできることを増やすしかない。
「出発しよう」
火へ水をかけ、完全に消えたことを確認する。
使った場所も、できるだけ元へ戻した。
追手に見つからないためでもある。
荷物を背負い、街道へ戻った。
◇
昼を過ぎる頃には、街道を歩く人が増えてきた。
荷車。
旅人。
剣を持った冒険者らしい者たち。
誰も俺たちへ声をかけない。
それでも、すれ違うたびに身体が強張った。
鉱山からの追手ではないか。
俺たちの顔を知っている者ではないか。
サラも同じなのだろう。
人とすれ違うたび、少しだけ俺の近くへ寄ってくる。
やがて、街道の先に石壁が見えた。
「あれ……」
「町だ」
高い壁に囲まれた、小さな町。
門の前には人や荷車が並んでいる。
ようやく着いた。
安心しかけて、すぐに別の問題を思い出す。
俺たちは身分証を持っていない。
「入れるかな」
サラが不安そうに尋ねる。
「分からない。でも、ここまで来て戻るわけにはいかない」
列の最後へ並ぶ。
一人ずつ、門番へ身分証を見せている。
初めて町へ来た者は、門の脇に置かれた透明な水晶へ触れていた。
触れたあと、水晶が白く光れば、そのまま通される。
黄色く光った男は、門番に呼び止められた。
「罰金の未払いが残っている。中へ入りたければ、先に支払え」
男は不満そうにGを払い、町へ入った。
罪歴を確認する水晶だ。
俺は腰の剣へ目を向けた。
武器庫から盗んだ剣。
盾も、地図も、コンパスも、Gも盗んだものだ。
水晶が盗みを罪として判定すれば、門を通れない。
「ルナト……」
「今さら逃げれば、余計に怪しまれる」
小声で答える。
鉱山は、正式な契約もなく人を閉じ込めていた。
俺たちは犯罪者として登録されていないはずだ。
そう信じるしかない。
列が進む。
ついに、俺たちの順番になった。
「身分証を」
門番が手を差し出す。
「持っていません」
俺は正直に答えた。
門番の目が細くなる。
「二人ともか?」
「はい」
「出身と、町へ来た目的は?」
「北にある小さな村の出身です。仕事を探すために来ました」
完全な嘘ではない。
鉱山へ売られる前は、北の村で暮らしていた。
「その格好は?」
「道中で魔物に襲われました」
門番が俺の剣と盾を見る。
刃や盾には、昨夜の戦いの跡が残っている。
「罪歴を確認する。二人とも水晶へ触れろ」
先に俺が、透明な水晶へ右手を置いた。
冷たい。
水晶の奥に、淡い光が生まれる。
赤くなるな。
黒くなるな。
俺は祈るような気持ちで見つめた。
光は白いままだった。
「罪歴なし」
門番が淡々と告げる。
身体から力が抜けそうになる。
次に、サラが水晶へ触れた。
こちらも白い光。
「二人とも問題なし。ただし、身分証がない者は仮入町になる」
「仮入町?」
「一人五千Gの保証金を預けてもらう。滞在期限は三日。それまでに正式な身分証を取得するか、町から出ろ。問題を起こさなければ、保証金は返却する」
二人で一万G。
所持金の半分近い。
だが、ここで払わなければ町へ入れない。
「支払います」
革袋から一万Gを取り出す。
門番は金額を確認し、二枚の木札を渡してきた。
表面に、町の印と滞在期限が刻まれている。
> 《仮入町証》
> 滞在期限:三日
「町の中では必ず持ち歩け。期限を過ぎれば拘束される場合がある」
「正式な身分証は、どこで取得できますか?」
「冒険者になるつもりなら、ギルドへ行け。登録後に発行される冒険者カードが身分証になる」
「分かりました」
剣の柄には、町中で簡単に抜けないよう革紐を結ばれた。
武器を持ち込む旅人には、全員行っているらしい。
「通っていい」
俺とサラは門をくぐった。
石壁の向こうには、鉱山とはまったく違う景色が広がっていた。
道の両側に店が並んでいる。
行き交う人々。
荷車の音。
呼び込みの声。
どこかから、焼いた肉と温かいパンの匂いが漂ってくる。
サラが足を止めた。
「ルナト」
「どうした?」
「町に入れたね」
「ああ」
「追い出されない?」
「三日以内に身分証を手に入れればな」
まだ安心はできない。
冒険者登録。
宿。
着替え。
食事。
これから必要なものはいくつもある。
それでも、俺たちは罪人として捕らえられなかった。
鉱山へ連れ戻されることもなかった。
サラが仮入町証を大切そうに両手で持っている。
ただの木札だ。
それでも、そこには奴隷番号も所有者の名前も書かれていない。
記されているのは、この町へ自分の意思で入った一人の人間としての証明だけだった。
「まずは冒険者ギルドへ行こう」
「そのあとは?」
「温かいものを食べる」
サラの表情が明るくなる。
「約束だからね」
「ああ」
俺たちは並んで歩き出した。
誰にも鎖を引かれず、自分たちで選んだ道を。




