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第49話 家族そろって、少しだけおめかし



 採石場から戻って、二日が過ぎた。


 崩落事故で傷んだ装備を手入れし、泥だらけになった服を洗い、ようやく身体の疲れも抜けてきた。


 今日は依頼を受けない。


 久しぶりの休日――のはずだった。


「ルナト。じっとしていてください」


「もう十分じゃないか?」


「まだです。襟が曲がっています」


 俺は居間の中央に立たされていた。


 目の前には、真剣な顔をしたサラがいる。


 長い栗色の髪は丁寧に梳かされ、後ろでゆるくまとめられていた。いつもの動きやすい服ではなく、淡い水色のワンピースを着ている。


 胸元を飾る白い布が、豊かな膨らみに押し上げられていた。


 目のやり場に困る。


「ルナト?」


「なんでもない」


「いま、別のところを見ていました」


「見てない」


「見ていました」


 サラが俺の襟を直す。


 顔を近づけたことで、柔らかな香りが漂ってきた。


「夫が妻を見るのは、悪くないと思うけど」


「それは……そうですけど」


 サラの頬が赤くなる。


「でも、今は動かないでください」


「はい」


 今日は冒険者ギルドで、採石場の救助に対する報奨金を受け取ることになっている。


 依頼として正式に受けた仕事ではない。


 それでも、採石場の親方と救助された作業員たちが、俺たちに謝礼を用意してくれたらしい。


 ギルドからも、ぜひ顔を出してほしいと言われていた。


 ただ金を受け取るだけだと思っていたのだが、サラは違った。


「助けた方々に会うのですから、汚れた服ではいけません」


 そう言って、朝から全員の身なりを整えている。


 俺の上着は、サラが昨夜のうちに繕ってくれたものだ。剣帯や靴まで磨かれている。


「次は私?」


 壁際で待っていたリオナが、自分の尻尾を撫でた。


 今日は狩り用の革装備ではない。


 白いシャツに、膝丈の濃紺のスカート。腰には細い革帯を巻いている。


 赤褐色の短い髪も、いつもより整っていた。


「リオナは、後ろを向いてください」


「また尻尾?」


「毛が跳ねています」


「自分でやったのに」


「届いていないところがあります」


 リオナが素直に後ろを向く。


 スカートの後ろから出た尻尾を、サラが丁寧に梳かし始めた。


「くすぐったい」


「動いたら余計に時間がかかりますよ」


「はーい」


 尻尾が左右に揺れるたび、スカートの裾もふわりと動いた。


 一瞬だけ、その奥の白い布が見えた。


 俺は静かに顔を逸らす。


「ルナト、見た?」


「見てない」


「いまの返事、早すぎない?」


「気のせいだ」


 リオナが振り返ろうとする。


 しかし、サラに肩を押さえられた。


「動かないでください」


「サラ、今日は厳しいね」


「三人そろって人前に出るんです。きちんとしておきたいんです」


 サラは真剣だった。


 思えば、サラは最近、服装や清潔さをよく気にするようになっていた。


 保存食を売るようになってからは、髪を整え、服の汚れを確認し、爪まできれいにしている。


 食べ物を扱う以上、当然のことらしい。


 俺やリオナが店を手伝うときも、必ず手や服を確認された。


 冒険者として働く日。


 畑に出る日。


 町へ買い物に行く日。


 誰かと会う日。


 その場に合った服装を考え、傷んだところを繕い、必要なら洗う。


 サラは毎日、それを繰り返していた。


「できました」


 サラが満足そうに頷く。


 リオナの尻尾は、毛先まできれいに整っていた。


「おお……いつもより、いい尻尾」


 リオナが自分の尻尾を抱きしめる。


「サラ、すごい」


「普段から手入れをすれば、もっときれいになりますよ」


「サラがやって」


「自分でも覚えてください」


「じゃあ、最初は一緒に」


「それなら構いません」


 そのとき、寝室の扉が開いた。


「待たせたっピ!」


 白い小さな影が飛び出してくる。


 シロちゃんだった。


 頭には、サラが余った布で作った小さな水色のリボンをつけている。


「どうだっピ?」


「似合っているよ」


「かわいいです」


「お菓子みたい」


「リオナ、それは褒めているっピ?」


「もちろん」


 シロちゃんは胸を張り、居間を一周した。


「今日はシロちゃんも、家族の代表として参加するっピ!」


「人前では、珍しい従魔ということにするんだったな」


「図鑑のことを話すわけにはいかないっピ。シロちゃんは空気を読める賢いウサギだっピ」


「自分で言うんだ」


「事実だっピ」


 準備を終えた俺たちは、家を出た。


 南壁近くの家から中央通りへ向かう。


 サラとリオナが並び、その少し後ろを俺が歩く。シロちゃんはサラの肩に座っていた。


 俺たちの畑では、植えた野菜が青々と葉を広げている。


 採石場で働いていた頃は、休日に家族と町を歩く日が来るなんて想像もできなかった。


 生き延びるために逃げた。


 その先にあったのが、この暮らしだ。


「どうしました?」


 サラが振り返った。


「いや。二人ともきれいだと思って」


 サラが足を止める。


 リオナも目を丸くした。


「家では、言わなかったのに」


「人通りの多いところで言うの?」


「思ったときに言っただけだ」


「ルナトらしいです」


 サラは恥ずかしそうに微笑む。


 リオナはスカートの裾を軽くつまみ、その場で一度だけ回った。


「私は?」


「似合ってるよ」


「尻尾は?」


「きれいだ」


「なら、よし」


 リオナの尻尾が大きく揺れる。


「ルナトは、もう少し言葉を増やした方がいいっピ」


「十分伝わっただろ」


「女心は、それほど簡単ではないっピ」


「シロちゃんに女心が分かるのか?」


「知識だけなら、ルナトより上だっピ」


 反論できなかった。


 冒険者ギルドに入ると、いつもより多くの視線が集まった。


 採石場の親方と、救助された三人の作業員が待っていたからだ。


「来たか!」


 親方が立ち上がる。


 救出した作業員たちも、俺たちを見るなり頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」


「助けが来なかったら、俺たちは今頃……」


「もういい。三人とも無事だったんだから」


 俺が答えると、一番若い作業員が首を横に振った。


「よくありません。暗い穴の中で、もう駄目だと思っていました。あのとき見えた火の明かりを、俺は一生忘れません」


 俺の火魔法は、まだ弱い。


 敵を焼き尽くすような威力もない。


 だが、あの日は人の命をつなぐ明かりになった。


 それだけで、選んだ意味はあったと思えた。


「これは採石場のみんなからだ」


 親方が布袋を差し出した。


「三万G入っている」


「多すぎないか?」


「命三つと、採石場を守ってもらった礼だ。受け取ってくれ」


「でも――」


「ルナト」


 サラが小さく呼んだ。


「受け取りましょう。断り続ける方が、失礼になることもあります」


 俺は親方を見る。


 太い腕を組んだまま、こちらをまっすぐに見ていた。


「分かった。ありがたく使わせてもらう」


「そうしてくれ」


 布袋を受け取ると、親方がようやく笑った。


 受付から見ていた職員も近づいてくる。


「今回の件は、ギルドの記録にも残します。緊急時の救助実績は、昇格審査でも評価されますよ」


「すぐにランクが上がるわけではないのか?」


 リオナが尋ねた。


「討伐や護衛とは評価項目が異なりますから。ただ、次の審査では必ず考慮されます」


「なら、無駄じゃないね」


「もちろんです。そもそも、人命救助を無駄とは言いません」


 職員の言葉に、リオナが少し照れたように鼻を掻く。


 それから俺たちは、親方たちと短い食事をした。


 サラは飲み物をこぼした作業員へすぐ布を渡し、空いた皿を端へ寄せる。


 リオナの襟が乱れれば、さりげなく直す。


 俺の袖に料理の汁がつけば、濡らした布で拭き取った。


「サラは、よく気がつくな」


 親方が感心したように言う。


「食事の席ですから。みんなが気持ちよく過ごせた方がいいです」


「ルナトには、もったいない嫁さんだ」


「俺もそう思う」


「そこは否定してください」


 サラが頬を膨らませる。


 周囲から笑い声が上がった。


 食事を終えてギルドを出たところで、サラが立ち止まった。


「どうした?」


「いえ……いま、何か」


 サラの視線が宙を追う。


 俺にも、同じものが見えた。


《身だしなみを習得しました》


《初級スキル図鑑へ登録します》


 サラは自分の服装を整えただけではない。


 毎日の暮らしの中で、清潔さを保ち、その場や相手に合わせて身なりを整える意味を覚えた。


 今日だけの成果ではない。


 保存食を売り始めてから積み重ねてきた経験が、ようやく図鑑に認められたのだ。


《生活分類の登録が完了しました》


《登録数:15/15》


《分類達成報酬を確認します》


「分類達成だっピ!」


 シロちゃんがサラの肩から飛び上がった。


「生活が全部埋まったの?」


 リオナも図鑑を開く。


 生活分類に並ぶ十五個の文字。そのすべてに、登録済みの印がついていた。


 料理、洗濯、掃除、買い物。


 どれも魔物を倒す力ではない。


 けれど、俺たちが家族として暮らしてきた証しだった。


《生活分類達成報酬》


《家族の食卓を解放しました》


《初級スキル登録権を一つ獲得しました》


「二つあるのか?」


「探索分類と同じだっピ!」


「《家族の食卓》って、何?」


 リオナが首を傾げる。


 図鑑の文字が切り替わった。


《家族の食卓》


《家族登録された者が同じ食卓を囲み、同じ料理を味わうことで、心身と魔力の回復を助けます》


《食事の質、人数、互いを思う気持ちによって効果が変化します》


《治療、睡眠、休養の代わりにはなりません》


 俺たちはしばらく黙って、その説明を読んだ。


 やがてサラが、嬉しそうに微笑んだ。


「今夜は、少し豪華な料理にしましょうか」


「採石場からも三万Gもらったしね」


「肉が食べたいっピ!」


「シロちゃんは、いつも肉を要求するな」


「家族の回復に必要だっピ」


「本当に?」


「シロちゃんの心が回復するっピ」


 リオナが笑い、サラも口元を押さえる。


 俺も笑ってしまった。


「じゃあ、買い物をして帰ろう」


「はい」


「私、荷物を持つ」


「シロちゃんは献立を考えるっピ!」


「肉以外も考えてくれよ」


 これまで図鑑を埋めるために、何度も新しいことへ挑戦してきた。


 けれど今回埋まったのは、挑戦だけで得た分類ではない。


 起きて、働いて、食べて、服を洗い、家を整える。


 家族と暮らしてきた毎日そのものが、十五個のスキルになった。


 そして、もう一つ。


 俺たちの手元には、好きな初級スキルを一つ登録できる権利が残っている。


「何を選ぶかは、帰ってからみんなで決めよう」


「急がなくてもいいですからね」


「家族会議だね」


「その前に肉を買うっピ!」


 休日の町を、四人で歩き出す。


 初級スキル図鑑の登録数は、これで六十七。


 登録権を使えば、六十八。


 八十パーセントまで、あと四つ。


 だが今は、報酬の先を考えるよりも。


 家族全員で囲む、今夜の食卓が楽しみだった。


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