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第38話 図鑑が決める家族ではない



翌朝。


目を覚ますと、俺の顔の上に白いものが乗っていた。


柔らかな毛が鼻をくすぐり、息をするたびに小さな身体が上下する。


「……重くはないけど、邪魔だ」


俺が身体を起こすと、顔の上で眠っていたシロちゃんが、ごろりと膝へ転がった。


「朝だっピ?」


「朝だ。どうして俺の顔で寝てるんだ?」


「サラの胸元へ入ろうとしたら、寝ながら捕まえられて、ルナトのほうへ投げられたっピ」


隣を見ると、サラが毛布を胸元まで引き上げて眠っていた。


寝ていてもシロちゃんから胸を守ったらしい。


「シロちゃんの扱いが、少しずつ雑になっている気がするっピ」


「自業自得だろ」


「シロちゃんは生まれたばかりなのに、世間が厳しいっピ……」


反対側のベッドでは、リオナが大の字になって眠っている。


毛布は床へ落ち、短い寝間着が腹の上までめくれていた。細く引き締まった腰から、健康的な太腿までが朝の光にさらされている。


さすがにこのままでは冷えるだろう。


俺は床に落ちていた毛布を拾い、リオナへかけようとした。


「ルナト」


背後からサラの声がする。


振り向くと、いつの間にか目を覚ましたサラが、蜂蜜色の瞳で俺を見ていた。


「違う。毛布をかけようとしただけだ」


「まだ何も言っていませんよ」


「そうだったな」


「でも、リオナの脚を見ていましたよね?」


「見えるものは仕方ないだろ」


サラは少しだけ頬を膨らませたあと、自分の毛布をめくった。


白い寝間着から、滑らかな脚が覗く。


「私の脚も見ますか?」


「サラ、朝からどうしたんだ?」


「ルナトが、どちらを見たいのか気になっただけです」


俺が返答に困っていると、シロちゃんが膝の上で立ち上がった。


「ここでシロちゃんから説明だっピ! どちらか一方を選べば、選ばれなかったほうが傷つく可能性があるっピ。こういう場合は、二人とも魅力的だと答えるのが安全だっピ!」


「なるほど。二人とも魅力的だ」


「シロちゃんに教えられてから言っても、あまり嬉しくありません」


サラは毛布を戻してしまった。


「説明するタイミングを間違えたっピ……」


そんな騒ぎにも気づかず、リオナは幸せそうに眠り続けていた。


朝食のあと、俺たちは《スキル図鑑》を開いた。


正確には、俺とサラの前に半透明のページが浮かび、その横でシロちゃんが長い棒を持っている。


棒をどこから取り出したのかは聞かないことにした。


「現在の登録数は三十四種類だっピ!」


シロちゃんが棒で数字を指す。


初級スキル図鑑


登録数:34/90


戦闘系統:6/15

魔法系統:4/15

探索系統:8/15

生産系統:5/15

生活系統:9/15

身体・耐性系統:2/10

一般系統:0/5


「生活系統が一番進んでいますね」


サラが嬉しそうに言った。


料理や洗濯、掃除、保存食作りなど、サラが日々の暮らしの中で覚えたスキルが多いからだ。


「でも、一般系統はまだ一つもないんだな」


「一般系統には《読み書き》《話術》《交渉》《接客》《教導》があるっピ。どれも簡単そうに見えるけれど、ただ文字を読んだり、誰かと話したりしただけでは習得できないっピ!」


「読み書きは、俺たちにもできるぞ」


「文字を知っていることと、《読み書き》をスキルとして習得することは少し違うっピ。図鑑へ登録するには、ある程度長い文章を正しく読み、その内容を理解し、自分でも相手へ伝わる文章を書ける必要があるっピ!」


「俺は書くほうが怪しいな」


鉱山では文章を書く機会がほとんどなかった。


町へ来てからも、冒険者ギルドの依頼書を読んだり、自分の名前を書いたりする程度だ。


サラも自信がないのか、困ったように笑った。


「私も簡単な手紙なら書けますが、長い文章となると難しいです。家では、文字より家事を教わることのほうが多かったので……」


「それなら、これから練習すればいいだろ」


「はい。いつか私たちの畑で採れたものを売るなら、値段や品物の名前を書けたほうが便利ですからね」


椅子に座っていたリオナが、浮かんでいる図鑑を横から眺める。


ただし、リオナには半透明のページが見えていない。


俺たちの視線を追い、そこに何が表示されているのか想像しているだけだ。


「シロちゃん。図鑑には、次に何をすればいいかまで書いてあるのか?」


「スキルを得るためのヒントは載っているっピ。でも、すぐに習得できる正解が書かれているわけではないっピ。本人がヒントを理解し、正しい行動を繰り返して、安定して成功させる必要があるっピ!」


「つまり、答えを教えてもらえるわけじゃないんだな」


「そうだっピ。図鑑が教えてくれるのは道の場所までで、実際に歩くのは本人だっピ!」


「いいことを言うじゃないか」


リオナが感心すると、シロちゃんは胸を張った。


「説明担当だから当然だっピ!」


だが、リオナの表情はすぐに曇った。


「その図鑑に、私の名前はあるのか?」


部屋が静かになる。


サラがリオナへ顔を向けた。


「今は、ありません」


「そうか」


リオナは笑った。


いつもの明るい笑顔だったが、頭の獣耳がわずかに伏せている。


「いや、責めているわけじゃない。サラとルナトは夫婦だから、二人の図鑑がつながった。それは分かっている。ただ、シロちゃんまで生まれて、二人だけが見えるものが増えていくと、私は本当にここにいていいのかと考えてしまっただけだ」


「リオナ……」


「図鑑の名前には《家族》と書かれているんだろう? そこに私が含まれていないなら、私はまだ居候なのかもしれないな」


サラが立ち上がり、リオナの隣へ移動した。


そして伏せられた獣耳の間へ、優しく手を置く。


「図鑑に決めてもらわなくても、リオナは私たちの大切な仲間です。それに私は、一緒に暮らして、同じ食卓を囲み、帰りが遅ければ心配する相手のことを、ただの居候だとは思いません」


「でも、家族として図鑑へ登録されているのはサラだけだ」


「それは私がルナトと結婚したからです。もしリオナが図鑑に名前を載せることだけを目的にルナトと結婚したいと言ったら、私は反対します」


サラは穏やかな口調で言った。


しかし、その言葉には迷いがなかった。


「結婚はスキルを増やすためにするものではありません。ルナトと一緒に生きたいと思って、ルナトからも同じように望まれたときにするものです。図鑑との共鳴は、そのあとについてきただけです」


リオナは驚いたようにサラを見つめた。


「サラは、私がルナトを好きになるのは嫌じゃないのか?」


「何も感じないと言えば、嘘になります。リオナは綺麗ですし、強くて、ルナトと二人で依頼へ出ることもあります。心配になりますし、少し嫉妬もします」


サラは正直に答えた。


「でも、私もリオナのことが好きです。だから急いで答えを出すのではなく、三人で過ごしながら、自分たちの気持ちを確かめたいと思っています」


「サラは強いな」


「怖がっているだけでは、欲しいものを失ってしまうと知りましたから」


リオナは少し黙ったあと、サラの腰へ両腕を回した。


「ありがとう。私も図鑑へ入るためにルナトと結婚するつもりはない。そんな理由でサラと同じ場所に並んだら、サラにもルナトにも失礼だからな」


「はい」


「ただ、いつか本当に好きになって、二人にも望んでもらえたら、そのときは逃げないつもりだ」


「……そこまで正直に言われると、やっぱり少し困ります」


サラの頬が赤くなる。


「サラは可愛いな」


リオナが抱く腕へ力を入れると、サラの柔らかな胸が押し上げられた。


俺が思わず視線を向ける。


二人が同時にこちらを見た。


「今の話を聞きながら、どこを見ていた?」


「大切な話は聞いていた」


「胸も見ていましたよね?」


「見えてしまっただけだ」


シロちゃんが机の上へ飛び乗った。


「ここでシロちゃんから――」


「説明しなくていい!」


今度は三人の声が重なった。


その日の依頼は、町の北側にある森で薬草を集める仕事だった。


冒険者ギルドから指定された薬草を二十束採取し、夕方までに持ち帰る。


危険度は低いが、似た形の毒草を間違えて採取する新人が多いため、報酬は一万二千Gと少し高めに設定されていた。


「今日は私が先頭を歩く。ルナトとサラは、なるべく地図とコンパスを見ないでついてこい」


町を出ると、リオナがそう告げた。


「迷わないか?」


「完全に使うなとは言っていない。道を確認したあと、一度しまえ。太陽の位置、風の向き、地面の傾き、目立つ木や岩を覚えながら歩くんだ」


リオナは自分の鼻先を軽く叩く。


「私は匂いでも方角を判断できるが、人間には難しい。だから、目と耳で得られる情報を組み合わせろ。森へ入る前に町がどちらにあったのかを確認して、歩きながら頭の中の地図へ道を書き足していくんだ」


「《方角把握》のヒントにも似たことが書いてあるっピ!」


シロちゃんが俺の肩の上で声を上げた。


今回、シロちゃんも連れてきている。


町の中では珍しい使い魔として通すことにしたが、すれ違う人のほとんどが振り返った。


「具体的には、何と書いてあるんだ?」


「『一つの目印だけに頼らず、変化しにくい複数の情報から帰る方向を保て』だっピ!」


「ずいぶん曖昧だな」


「だからヒントなんだっピ! 『右へ三回、左へ二回曲がれば習得できます』と書いてあったら、スキルではなく道順を覚えるだけになってしまうっピ!」


「なるほどな。今日はそのヒントを意識して歩いてみよう」


俺たちはリオナを先頭に、森へ入った。


これまでにもリオナから、森で迷わないための基本は何度か教わっている。


苔だけを見て方角を決めてはいけないこと。


曇りの日は影に頼れないこと。


小川が必ず町へ続いているとは限らないこと。


知識として聞いてはいたが、実際に自分で帰り道を考えながら歩くと、森の見え方が変わった。


「ルナト。町はどちらだ?」


薬草の群生地へ到着したところで、リオナが尋ねた。


俺は空を見上げた。


太陽は左後方にある。森へ入ったときより少し高い位置まで昇っていた。


足元には緩やかな傾斜があり、ここまで少しずつ下ってきた。途中で渡った小川は、今いる場所の西側に流れているはずだ。


「南東だと思う」


「理由は?」


「太陽の位置と斜面だ。あと、途中で渡った小川があっちにある。帰りは小川へ向かって歩けば、渡った場所の近くへ出られるはずだ」


「悪くない。ただし、小川へ真っすぐ向かうと崖に当たる。少し南へ回る必要があるな」


今度はサラが周囲を見回した。


「私は、あちらだと思います。ここへ来る途中で、幹が二つに分かれた大きな木を見ました。あの木の左側を通ってきたので、帰りは右側へ進めば元の道へ戻れるはずです」


「正解だ。二人とも以前より周囲を見られるようになっている」


リオナに褒められ、サラが嬉しそうに笑った。


薬草を探している途中、サラが足を止めた。


「これは似ていますが、違いますね」


サラが指した草は、依頼品と同じ形の葉を持っている。


しかし、葉の裏側には紫色の筋が入っていた。


「毒草だな。触っただけでは問題ないが、食べれば腹を壊す」


リオナが答える。


「図鑑の《採取》にも、見た目だけで判断せず、匂いや葉の裏側を確かめるように書かれています」


「図鑑のヒントを役立てているっピ!」


シロちゃんは薬草の上へ降りようとして、慌てて飛び上がった。


「虫がいたっピ!」


「森では珍しくないぞ」


「シロちゃんは虫が苦手だっピ!」


「胸の谷間には平気で入るのにな」


「胸の谷間には虫がいないっピ!」


サラが無言で自分の襟元を押さえた。


シロちゃんは視線をそらし、俺の肩へ戻ってきた。


昼を少し過ぎた頃、必要な薬草が集まった。


帰りはリオナではなく、俺とサラが相談しながら先頭を歩く。


最初の分かれ道で迷いかけたが、サラが幹の傷を見つけ、来た道を判断した。


次の斜面では、俺が太陽の位置と小川の音を頼りに方向を決める。


途中で二度ほどリオナに修正されたものの、地図とコンパスを使わずに森の入口まで戻ることができた。


木々の間から町の外壁が見えた瞬間、聞き慣れた声が頭の中へ響いた。


《方角把握を習得しました》


《初級スキル図鑑へ登録します》


取得者:ルナト


登録数:35/90


初級スキル図鑑 探索系統:9/15


続けて、サラにも同じ通知が届いた。


《方角把握を習得しました》


《初級スキル図鑑へ登録済みのスキルです》


取得者:サラ


登録数:35/90


「二人とも《方角把握》を習得したっピ!」


シロちゃんが空中を飛び回る。


「これまでリオナから森の歩き方を教わり、何度も依頼で周囲を確認していた積み重ねがあったっピ! 今日は地図とコンパスに頼らず、複数の情報を使って帰る方向を保てたから、安定して使える技術として認められたんだっピ!」


「一日歩いただけで覚えたわけじゃないんだな」


「そうだっピ。危機的な状況や一度の成功だけで、何もないところからスキルが生まれるわけではないっピ!」


リオナはシロちゃんの説明を聞きながら、俺とサラの肩を軽く叩いた。


「よくできたな。これなら、二人だけで森へ入っても簡単には迷わないだろう」


図鑑に登録された取得者は、俺とサラ。


そこにリオナの名前はない。


だが、このスキルを覚えられたのは、間違いなくリオナが何度も教えてくれたからだ。


「シロちゃん。取得者とは別に、教えた人の名前は残せないのか?」


「今の図鑑には、そういう機能はないっピ」


「そうか」


少し残念に思っていると、サラがリオナの手を取った。


「図鑑に名前が残らなくても、私たちは忘れません。このスキルは、リオナが教えてくれたものです」


「そうだな。ありがとう、リオナ」


「やめろ。二人そろって改まると、恥ずかしくなる」


リオナは照れたように顔を背けた。


その尻尾は、隠しきれないほど大きく左右へ揺れている。


「図鑑へ登録されていなくても、リオナは二人の先生だっピ!」


シロちゃんが言うと、リオナは白い身体を片手で捕まえた。


「ようやくいいことを言ったな。褒美に、今日は私の頭へ乗っていいぞ」


「最初から勝手に乗っていたっピ!」


「なら、今夜は私の胸で寝かせてやろうか?」


「本当だっピ!?」


「服の上からな」


「それでも十分だっピ!」


シロちゃんは喜んだが、サラはなぜか少し悔しそうだった。


図鑑の数字は、三十五。


まだ初級図鑑の半分にも届いていない。


それでも一つのスキルを覚えるたび、その裏側には誰かと過ごした時間がある。


図鑑に名前が載る者だけが、家族なのではない。


同じ家へ帰り、同じ食卓を囲み、お互いのできないことを補い合う。


俺にとってリオナは、もう大切な家族の一人だった。


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