第34話 料理人サラの初仕事
翌朝。
台所から聞こえてくる包丁の音で目を覚ました。
隣を見ると、サラの姿がない。
寝間着から普段着へ着替え、居間へ向かう。
台所では、サラが朝食を作っていた。
白いブラウスに、淡い青色の長いスカート。栗色の髪は邪魔にならないよう後ろで一つに束ねている。
まな板の上には、野菜と腸詰め肉が並んでいた。
サラは野菜へ包丁を入れたあと、一度手を止める。
断面を確かめ、先ほどより少し薄く切り始めた。
「おはよう」
「おはようございます、あなた」
夫として呼ばれることには、まだ慣れない。
「何を作ってるんだ?」
「野菜と腸詰め肉のスープです」
「手伝うことはあるか?」
「では、そちらのパンを切ってください」
包丁を借り、パンを三人分に切り分ける。
サラは鍋へ入れる順番を考えながら、野菜を分けていた。
「いつもと違うな」
「分かりますか?」
「切る厚さを変えてる」
「火が通りにくいものは薄く、煮崩れしやすいものは少し厚くしました」
以前も同じような工夫はしていたはずだ。
だが、今日は食材の状態を何度も確かめ、調理の順番まで紙へ書いている。
「《料理人》へ転職したからか?」
「おそらく」
サラが鍋の火を弱める。
「料理が勝手に上手くなったわけではありません。知らない料理を突然作れるようにもなっていません」
「では、何が変わったんだ?」
「今まで見落としていたことへ、気づきやすくなりました」
野菜の硬さ。
肉に含まれている脂の量。
火を入れる順番。
どのくらい作れば三人分になるのか。
これまで経験として覚えていたことを、以前よりも意識しやすくなっているらしい。
「職業は、技能を使いやすくするものなのか」
「はい。ただ、気づいても判断を間違えることはあります。練習は必要です」
剣士になった俺も同じだ。
剣が身体へ馴染んだように感じても、振り方を間違えれば隙ができる。
職業へ就いただけで、経験豊富な達人になれるわけではない。
「いい匂い……」
眠そうな声が聞こえた。
リオナが寝間着姿のまま、台所へ顔を出している。
赤褐色の短い髪には寝癖がつき、片方の獣耳だけが横へ倒れていた。
「もう食べられる?」
「顔を洗って、着替えてからです」
「食べてからでは駄目?」
「駄目です」
「スープは逃げないよ?」
「私も逃げませんから、先に顔を洗ってきてください」
リオナは名残惜しそうに鍋を見つめたあと、洗面所へ向かった。
「サラは母親みたいだな」
「私は十九歳です」
「年齢の話ではない」
「分かっています」
少しして、着替えたリオナが戻ってくる。
三人で食卓を囲み、朝食を食べた。
野菜にはちょうどよく火が通り、腸詰め肉の塩気もスープへ溶け込んでいる。
「いつもより美味しい」
リオナの獣耳が立つ。
「本当ですか?」
「うん。野菜が柔らかいけど、形は残ってる」
「《料理人》の効果はありそうだな」
俺もスープを飲む。
急に味が何倍もよくなったわけではない。
それでも、以前より丁寧に作られていることは分かった。
朝食を食べ終え、食器を片づけていると、玄関の扉が叩かれた。
「誰でしょう?」
サラが扉を開ける。
外に立っていたのは、カレンだった。
工房で着ている白いタンクトップ姿ではなく、灰色の上着と黒いズボンを身につけている。
それでも上着の下にある豊かな胸は隠しきれず、前の留め具を内側から押し上げていた。
「朝から珍しいな」
「頼みがある」
カレンが家の中へ入る。
「以前の保存食は作れるか?」
「はい。材料があれば作れます」
「十食分欲しい」
「十食?」
サラが目を丸くする。
「工房で大きな仕事を受けた。今日は近くの職人たちにも手伝ってもらう。途中で食べられるものが必要だ」
「今日中ですか?」
「ああ。無理なら別の店へ頼む」
サラが考え込む。
カレンへ保存食を売ったことはある。
だが、前回よりも量が多い。
「代金は一万Gでどうだ?」
「材料費も含めてですか?」
「ああ」
「少し待ってください」
サラが台所へ行き、残っている食材を確認する。
乾燥肉。
野菜。
パン。
塩や香草。
数を調べ、紙へ書いていく。
「十食分なら、肉と野菜が足りません。塩と油も追加で必要です」
「買えば間に合うか?」
「昼過ぎまでには」
「では頼む」
カレンが前払いとして五千Gを机へ置いた。
「残りは受け取るときに払う」
「分かりました」
「無理はするな。間に合わないと思ったら工房へ知らせろ」
それだけ言い、カレンは帰っていった。
扉が閉まる。
サラは机の上にある硬貨を見つめていた。
「大丈夫か?」
「十人分を一人で作ったことがありません」
「一人で作る必要はない」
俺はサラが書いた材料の一覧を見る。
「三人で受けた仕事にしよう」
「あたしたちも手伝うよ」
リオナが尻尾を揺らす。
「二人とも料理はできませんよね?」
「できることをやる」
「肉なら、あたしが用意できるかも」
リオナが腰の短剣を確認する。
「森で角兎を一匹狩れば、十食分には足りると思う」
「依頼以外で狩ってもいいのか?」
「町の近くで数が増えてるから、ギルドへ届け出れば大丈夫。討伐部位を持ち帰れば、少しだけお金も出るよ」
「では、リオナと俺で森へ行こう。サラは家で準備を進めてくれ」
「ですが、ルナトの肩は?」
「もうほとんど痛まない」
「無理に戦わないでくださいね」
「ああ」
俺は水晶の欠片を取り出す。
今日は魔物の討伐より、食材となる動物や植物を探すことが目的だ。
欠片を握る。
《転職可能職業》
《剣士》――現在の職業
《盾戦士》
《野外探索者》
《鉱夫》
「《野外探索者》へ転職する」
《職業を《野外探索者》へ変更しました》
身体の奥で感覚が切り替わる。
剣士のときよりも、窓の外から聞こえる鳥の声や、風の匂いが気になった。
「サラは《料理人》のままでいいな」
「はい。今日はこの職業で作ります」
リオナと一緒にギルドへ立ち寄り、角兎を狩ることを届け出る。
そのあと、町の北側にある森へ向かった。
「《野外探索者》はどう?」
森へ入り、リオナが尋ねる。
「まだ分からない。でも、周りの変化に気づきやすい気がする」
「魔物の場所まで分かる?」
「そこまでは無理だ」
職業へ就いただけで、リオナのような熟練の狩人になれるわけではない。
俺はまだ、獣の足跡や匂いを見分ける経験が足りない。
しばらく進むと、地面の一部に小さな足跡を見つけた。
「これは角兎か?」
リオナがしゃがみ込む。
「似てるけど、古いね。昨日より前のものだと思う」
「そこまでは分からなかった」
「でも、自分で見つけられたのは進歩だよ」
痕跡を探しながら森を歩く。
途中で、香りの強い草が群生している場所を見つけた。
「これは食べられるか?」
「香草だね。肉の臭みを消すのに使えるよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんで採るのは危険じゃないか?」
「あたしは食べたことあるよ」
リオナが葉を一枚ちぎり、口へ入れる。
「ほら、平気」
「今すぐ毒の効果が出ないだけかもしれないぞ」
「心配性だなあ」
図鑑を開いても、植物の名前までは表示されない。
《採取》を持っていても、未知の草が食用かどうかを自動で教えてくれるわけではない。
念のため、リオナが確実に知っているものだけを採取した。
さらに奥へ進み、角兎の新しい糞と足跡を見つける。
「近くにいる」
リオナが弓を構える。
「今日は肉を傷めたくない。あたしが頭を狙うよ」
「俺は逃げ道を塞ぐ」
「お願い」
茂みを回り込み、角兎の後方へ移動する。
逃げ道を塞いだところで、リオナが矢を放った。
矢は角兎の頭へ正確に刺さる。
俺が剣を抜く必要もなく、狩りは終わった。
「さすがだな」
「狩人だからね」
二人で角兎を解体する。
肉と使える部位を分け、袋へ入れた。
新しい職業へ就いても、解体の腕が急に上がった感じはしない。
それでも森の中で動く疲れは、剣士のときより少なく感じられた。
家へ戻ると、台所はすでに忙しい状態だった。
大きな鍋には湯が沸き、切り分けられた野菜が籠へ入っている。
サラは俺たちが持ち帰った角兎の肉を確認した。
「十分です。これだけあれば、十人分作れます」
「香草も採ってきた」
「肉の下味に使えそうですね」
リオナが肉を切り分け、俺は井戸から水を運ぶ。
さらに薪を割り、火が弱くならないよう準備した。
サラは料理全体の順番を決める。
「最初に肉へ塩と香草を馴染ませます。その間に野菜を煮ます。パンは最後に切ります」
「俺は何をすればいい?」
「物置の上段にある大きな鍋を取ってください」
物置へ向かう。
大きな鍋は、一番上の棚に置かれていた。
「これか?」
「はい」
手を伸ばす。
届くには届くが、肩へ少し痛みが走った。
「俺が取るより、踏み台を使ったほうがよさそうだ」
「では、私が取ります」
サラが木製の踏み台へ上がる。
今日は長いスカートを穿いていた。
背伸びをして鍋へ手を伸ばすと、裾が少し持ち上がる。
白い脚。
さらに上にある、白い下着が一瞬だけ覗いた。
「サラ」
「何ですか?」
「裾が上がってる」
「えっ?」
サラが慌てて下を見る。
俺と目が合う。
「見ましたか?」
「見えてしまった」
「下から見ないでください」
「落ちないように支えてるだけだ」
「では、目を閉じてください」
「目を閉じたら支えられない」
「白だね」
反対側からリオナが言う。
「リオナさんまで見ないでください!」
サラが慌てたことで、踏み台が揺れた。
「危ない!」
腰を支える。
サラの身体が俺の胸へ倒れ込み、豊かな胸が顔の近くまで迫った。
鍋はリオナが受け止める。
「大丈夫か?」
「……大丈夫です」
俺に腰を抱かれたサラが、真っ赤な顔で頷く。
「もう下ろしてください」
「ああ」
床へ下ろす。
サラはスカートの裾を何度も確認した。
「今度から、高い場所の物は俺が取る」
「肩が治ってからにしてください」
「じゃあ、あたしが取るよ」
「リオナさんは、下から見ないでくださいね」
「見えたら見るよ?」
「見ないでください」
料理を再開する。
途中、塩が足りないことに気づいた。
「今ある分では、保存に必要な量へ届きません」
「少なくしたら駄目か?」
「今日中に食べるものなら構いません。でも、カレンさんたちがいつ食べるか分からないので、安全を優先したいです」
油も、予定より少ない。
サラが家計簿を開き、今月使える生活費を確認する。
「追加で千Gまでなら使えます」
「俺が市場へ行ってくる」
「値段と量を確認してください。同じ塩でも、店によって違います」
「分かった」
「一番安いものを買えばいいわけではありません。湿って固まっているものは避けてくださいね」
「……一緒に来てくれないか?」
注意点が多い。
サラは調理から離れられないため、リオナが同行することになった。
二つの店を回り、値段と状態を比較する。
少し高いが、乾いていて不純物の少ない塩を選んだ。
油も必要な分だけ買う。
合計九百G。
予算内だ。
だが、《買い物》は登録されない。
一度正しく選べただけでは、安定した技能として認められないのだろう。
家へ戻り、購入した材料をサラへ渡す。
調理は昼過ぎまで続いた。
角兎の肉を香草と一緒に焼き、野菜を煮込む。
余分な水分を飛ばし、持ち運びやすい形へ分ける。
パンと一緒に包み、十人分の食事が完成した。
「できました……」
サラが椅子へ座る。
額には汗が浮かんでいた。
「疲れたか?」
「はい。でも、最後まで作れました」
「味見しよう!」
リオナが余った肉へ手を伸ばす。
「待ってください。味を確認するのは私が先です」
サラが一口食べ、ゆっくり噛む。
「塩味は大丈夫です。香草も強すぎません」
「俺たちも食べていいか?」
「はい」
三人で味を確かめる。
肉は少し濃いめの味だが、パンと一緒ならちょうどいい。
持ち運び、仕事の途中に食べる料理として作られていた。
「うまい」
「本当ですか?」
「ああ。朝の料理とも違う。食べる状況まで考えられてる」
「《料理人》の職業へ就いたおかげで、何を作るべきか整理しやすくなりました」
「でも、作ったのはサラだよ」
リオナが言う。
「職業が勝手に料理したわけじゃないからね」
「はい」
サラが嬉しそうに微笑む。
十食分を籠へ入れ、カレンの工房へ運んだ。
工房では複数の職人が、大きな金属部品を前に作業していた。
カレンが籠を受け取り、その場で一つ開く。
肉を一切れ食べた。
「前よりうまい」
「ありがとうございます」
「量も問題ない。残りの五千Gだ」
サラが代金を受け取る。
「次も必要になったら頼む」
「はい。お待ちしています」
工房を出たあとも、サラは受け取った硬貨を大切そうに持っていた。
「二回目の注文ですね」
「ああ」
「これなら、続ければ家の仕事になるかもしれない」
「三人でやった仕事です」
サラが俺とリオナを見る。
「一人では、十食分を時間までに作れませんでした」
「次はもっと上手く役割を分けよう」
「肉は任せて」
リオナが自分の胸を叩く。
「では、次も三人でお願いします」
家へ戻り、残った食材を確認する。
サラは傷みやすい順番に並べ、いつまでに使うか紙へ記録した。
乾燥した食材は棚の上。
塩や油は湿気の少ない場所。
残った野菜は、明日の朝食へ使う。
これまで一週間以上、家庭の食材と保存食を管理してきた。
さらに今日は、十人分の材料を用意し、余りまで無駄なく使えるよう整理した。
淡い文字が浮かび上がる。
《食材管理を習得しました》
《初級スキル図鑑へ登録します》
取得者:サラ
登録数:32/90
《生活系スキル:9/15》
《生活系分類別達成報酬の開封まで、あと六種類です》
「登録されました」
サラが表示を見つめる。
「《食材管理》か」
「はい。料理だけでなく、家にある食べ物を無駄にしないための技能ですね」
「あと六つ!」
リオナが声を上げる。
「報酬まで、かなり近づいてきたね」
「まだ六種類もありますよ」
「最初は十五種類だったんだよ?」
「そう考えると、半分以上埋まりました」
「次は何を取る?」
生活系の未登録欄を確認する。
《整理整頓》
《看病》
《給仕》
《身だしなみ》
《衛生管理》
《買い物》
残っているのは六種類。
つまり、ここに表示されているすべてを習得すれば、生活系をコンプリートできる。
「先に決める必要はないんじゃないか?」
俺が言う。
「暮らしていれば、必要になることもある」
「図鑑のためだけに、病気になって《看病》を取るわけにはいきませんからね」
「それは絶対に駄目だよ」
リオナも真剣な顔で頷く。
「取れるものから、自然に覚えよう」
「はい」
今回受け取った一万Gから、追加で買った材料費を含め、使った金を引く。
材料費は合計四千二百G。
残りは五千八百Gだった。
その半分の二千九百Gを家族共通の貯金へ入れる。
残りは三人の個人分として、ほぼ同じ額へ分けた。
「サラが一番働いたんだから、多くてもいいんじゃない?」
リオナが言う。
「ですが、肉を用意したのは二人です。水や薪も運んでもらいました」
「次からは、仕事を受ける前に分け方を決めよう」
俺が提案する。
「今回は三人で同じでいい。でも、誰か一人だけが受けた仕事なら、その人の分を増やす」
「分かりやすいですね」
「串焼きを買う仕事は?」
「それは仕事ではありません」
サラが即答した。
夕食には、注文用とは別に残しておいた角兎の肉を食べた。
昼に作ったものより薄味にし、採取した香草と野菜を加えている。
「冒険へ出なくても、この家でお金を稼げました」
サラが料理を見つめながら言う。
「ああ」
「私の技能が、仕事になったのですね」
「剣で魔物を倒すことだけが仕事じゃない」
俺はサラの作った料理を一口食べる。
「サラの料理も、この家を守る力だ」
「……はい」
サラが嬉しそうに微笑む。
「ルナトは剣、サラは料理。あたしは狩りだね」
リオナが肉へかじりつく。
「三人で一つの仕事ができる」
「これからも、いろいろ試してみましょう」
剣を持って森へ出る日。
畑を世話する日。
家で料理を作る日。
どの一日も、俺たちの暮らしを支えている。
図鑑の登録数は三十二。
生活系の達成報酬まで、残り六種類。
まだ中身は分からない。
けれど、三人で働いた今日のような日が続くなら、いつか自然に届く気がした。




