第3話 脱走の夜
《見習い剣士》へ転職してから、七日が過ぎた。
昼間は鉱石を掘り、夜は折れた剣と木板で訓練を続ける。
職業を得たからといって、急に強くなったわけではない。
折れた剣を振れば腕は疲れる。
体勢を崩せば、足元もふらつく。
それでも、無職だった頃より剣の動きを理解しやすくなっていた。
どう構えれば身体が安定するのか。
どこで力を抜き、どの瞬間に力を込めればいいのか。
失敗するたび、次はどこを直せばよいのかが分かる。
これが職業の補助なのだろう。
俺が剣と盾の練習をしている間、サラは監視役の動きを調べていた。
サラは《斥候》へ転職してから、以前より周囲の気配に敏感になっている。
誰かが近づけば、足音が聞こえるより早く気づく。
暗い坑道を歩くときも、俺より音を立てない。
今では、《隠密》に関しては完全にサラのほうが上だった。
「分かったことがある」
古い資材置き場へ戻ってきたサラが、地面へしゃがみ込んだ。
指先で砂の上に線を引く。
「これが奴隷たちの寝床。こっちが武器庫」
「ああ」
「夜の見回りは三人。二人は決められた道を歩いて、もう一人は入口の詰め所にいる」
サラが砂の上へ小石を三つ置いた。
「武器庫の前には?」
「普段は一人いる。でも、真夜中に交代する」
「交代するときも、無人にはならないだろ」
「普通ならね」
サラが少し得意そうに笑った。
「先に来るはずの人、毎晩遅れてる」
「どれくらいだ?」
「少なくても百は数えられるくらい」
百をゆっくり数えるなら、かなりの時間になる。
錠前を開け、中へ入り、必要なものを探し出す。
余裕があるとはいえないが、不可能でもない。
「それと、見回りの二人は途中で酒を飲んでる」
「仕事中にか?」
「うん。食料庫の裏に隠してあるみたい。そこでしばらく動かなくなる」
監視役たちは、奴隷が逃げるとは思っていない。
周囲は深い森と山に囲まれている。
食料も地図も持たずに逃げれば、町へ着く前に魔物に襲われるか、道に迷って倒れる。
過去に逃げようとした者も、ほとんどが捕まった。
だから、見張り方も雑になっている。
まして俺は無職だと思われてきた。
サラも、負傷者の手当てしかできない細い少女だと見られている。
二人が職業を得たとは、誰も知らない。
「鉱山の外へ出る道は?」
俺が尋ねると、サラは砂の上へ新しい線を引いた。
「正面の入口は無理。夜も詰め所に人がいる」
「ほかの道があるのか?」
「水を外へ流すための排水路がある。格子がついているけど、錠前は古かった」
「人が通れる広さは?」
「私は通れると思う。ルナトは……少し狭いかも」
「少しなら、なんとかする」
問題は、排水路がどこへつながっているかだ。
外へ出た瞬間、監視所の近くに出るのでは意味がない。
「外側の出口までは確認できなかった」
サラが申し訳なさそうに言った。
「それ以上進めば、見つかる可能性があったから」
「それでいい。無理をするなと言っただろ」
「でも、途中までは調べたよ。排水路は鉱山の南側へ延びている。正面入口とは反対方向」
俺は砂の上に描かれた道を見つめた。
武器庫へ忍び込み、剣と盾を手に入れる。
地図、コンパス、食料、水も必要だ。
そのまま排水路へ向かい、格子の錠前を開けて外へ出る。
一度武器庫へ入れば、後戻りはできない。
地図や武器がなくなれば、朝を待たずに気づかれる可能性がある。
「決行するなら、月が隠れる二日後がいいと思う」
サラが言った。
「外に出ても、暗いほうが見つかりにくいから」
「二日後か……」
不安がないわけではない。
準備を続ければ、もっと多くのスキルを習得できるかもしれない。
剣の扱いも上達する。
より安全な道も見つかるかもしれない。
だが、時間をかけるほど、秘密が知られる危険も増える。
監視役に水晶の欠片を見つけられれば、すべて終わりだ。
「分かった。二日後に出る」
俺が答えると、サラの表情が引き締まった。
「うん」
「必要なものを、もう一度確認しよう」
俺たちは砂の上へ、持ち出すものを書き始めた。
剣。
盾。
地図。
コンパス。
食料。
水筒。
火打ち石。
傷薬。
外套。
そして、町へ入るためのG。
「欲張るな」
俺はサラにも、自分にも言い聞かせた。
「持ちすぎれば、逃げるのが遅くなる。生きて町へ着くために必要なものだけだ」
「着替えは?」
「余裕があれば一組だけ」
「ルナトの服、袖が破れてるよ」
「サラの服もだろ」
「私は縫ったから、ルナトよりはまし」
そう言われると、何も返せなかった。
「分かった。服も探す。ただし、荷物に余裕があればだ」
「うん」
サラが笑う。
脱走の話をしているのに、二人で旅の準備をしているようにも感じた。
実際、外へ出れば旅が始まる。
俺たちがまだ一度も見たことのない、自由になるための旅だ。
◇
二日後の夜。
俺はいつもと同じ時間に寝床へ入った。
周囲の奴隷たちも疲れ切っている。
話し声はすぐに消え、暗い部屋へ寝息が広がった。
俺は毛布の下に丸めた服を入れ、人が眠っているように見せた。
向かい側では、サラも同じ準備を終えている。
見回りの足音が近づく。
扉が開き、監視役が部屋の中を見渡した。
俺は寝台の陰へ身を伏せている。
手のひらに汗がにじんだ。
今、見つかれば終わる。
監視役は灯りを掲げ、並んだ寝台を順番に確認する。
光が俺の寝台で止まった。
毛布の下には、丸めた服と石しかない。
近づいて触れられれば、すぐに分かる。
「……ちっ」
監視役が舌打ちする。
しかし、寝床までは来なかった。
扉を閉め、次の部屋へ向かう。
足音が離れるまで待ってから、サラが俺の近くへ来た。
「行ける?」
「ああ」
俺たちは部屋を抜け出した。
もう戻らない。
何年も眠ってきた寝床だったが、振り返りたいとは思わなかった。
《隠密》を意識しながら、武器庫へ向かう。
サラが先を歩き、俺は少し離れてついていく。
曲がり角へ近づくたび、サラが立ち止まって気配を探る。
一度、見回りの監視役と遭遇しかけた。
サラが早く気づき、資材を積んだ荷車の陰へ隠れる。
監視役は俺たちに気づかず、そのまま通り過ぎた。
武器庫が見えてくる。
扉の前には、見張りが一人立っていた。
俺たちは暗い横道へ入り、交代の時間を待つ。
しばらくすると、見張りが大きな欠伸をした。
周囲を確認し、武器庫から離れる。
交代する相手は、まだ来ていない。
サラが俺へ合図を送る。
今だ。
俺たちは武器庫の前まで走った。
錠前へ細い金具を差し込む。
練習に使ったものより新しく、内部の感触も違う。
焦るな。
力を入れすぎれば、金具が折れる。
指先へ意識を集中させる。
一つ目の引っかかりを外す。
二つ目。
最後に錠前を少し持ち上げながら、金具を回した。
小さな音が鳴る。
「開いた」
扉を静かに開け、二人で中へ入った。
サラが扉を閉める。
武器庫の中は暗かった。
灯りをつければ、扉の隙間から光が漏れる。
俺たちは手探りで棚を調べた。
壁に剣が並べられている。
一本を取り、鞘から少しだけ抜いた。
暗くても、刃が錆びていないことは分かった。
監視役が使う予備の片手剣だ。
腰へ下げる。
次に、小さな丸盾を見つけた。
木板とは違い、表面が金属で補強されている。少し重いが、片腕で扱える大きさだった。
腕へ通し、革紐を締める。
初めて持つ、本物の剣と盾。
これがあれば、魔物や追手に遭遇しても、サラを守れるかもしれない。
「ルナト、こっち」
サラが小声で呼ぶ。
棚の下に、革製の鞄が置かれていた。
中には巻かれた紙が何枚か入っている。
サラが一枚ずつ広げ、指先で確かめる。
「これ、鉱山の地図」
「周辺の町まで載っているか?」
「待って……あった。川と街道も載ってる」
目的の地図だ。
その隣には、手のひらに収まる丸いコンパスも入っていた。
鞄へ入れる。
別の棚から、水筒を二つ、火打ち石、傷薬、小さな鍋を見つけた。
保存食は硬いパンと干し肉。
欲張らず、二人で数日分だけ取る。
外套も二着あった。
鉱山の外がどれほど寒いか分からない。これも必要だ。
「Gもある」
サラが小さな革袋を持ち上げた。
中から硬貨の触れ合う音がする。
二人で数える時間はない。
少しだけ中を確認すると、銀色と銅色の硬貨が入っていた。
町へ入るために必要になる。
「持っていこう」
「いいの?」
「剣も地図も盗んでる。今さらGだけ遠慮しても仕方ない」
人を閉じ込めて働かせてきた者たちの金だ。
罪悪感はなかった。
それでも、必要以上には取らない。
もう一つ革袋があったが、そちらは棚へ戻した。
鞄をサラが背負う。
俺は剣と盾を装備し、保存食を入れた袋を持った。
そのとき、扉の外から足音が聞こえた。
サラの顔が強張る。
「来る」
交代の見張りだ。
予定より早い。
扉には鍵をかけていない。
外から錠前を見れば、外されていることにすぐ気づく。
隠れる場所を探す。
木箱の陰では、扉を開けられた瞬間に見つかる。
戦うしかないのか。
剣の柄へ手をかける。
見習いの俺が、監視役に勝てる保証はない。
勝てたとしても、騒ぎになればほかの者が集まってくる。
扉の前で足音が止まった。
「見張りはどこへ行った?」
低い声が聞こえる。
扉へ手がかけられた。
その瞬間、サラが俺の袖を引いた。
部屋の奥に、小さな扉がある。
物資を運び入れるための裏口だろう。
俺たちは音を立てず、裏口へ向かった。
鍵はかかっていなかった。
扉を開け、外へ出る。
直後、武器庫の正面扉が開く音がした。
「誰かいるのか!」
声が響く。
「走るよ!」
「ああ!」
俺たちは暗い通路を駆け出した。
もう隠れている時間はない。
背後から怒鳴り声が聞こえる。
「奴隷が逃げた! 起きろ!」
鉱山の奥で、警報の鐘が鳴り始めた。
サラが先を走る。
俺は剣と盾を手に、その背中を追った。
目指すのは南側の排水路。
そこから先に何があるのか、誰にも分からない。
それでも、戻るつもりはなかった。
俺たちの脱走が、始まった。




