第26話 夫婦の夜と、最初の目標
寝室の扉を開ける。
部屋の中では、小さなランプが一つだけ灯っていた。
淡い明かりに照らされ、サラが寝台の端へ腰掛けている。
湯上がりの栗色の髪は、まだ少し濡れていた。薄い白色の寝間着が火照った肌へ張りつき、豊かな胸の形と細い腰の線を浮かび上がらせている。
「お待たせ」
「いえ……」
サラは膝の上で両手を重ねたまま、俺と目を合わせようとしない。
図鑑を一緒に見ていたときや、食事を作っていたときとは別人のように緊張している。
俺も同じだった。
何を言えばいいのか分からない。
扉を閉め、サラの隣へ腰掛ける。
二人分の重さで、寝台が小さく軋んだ。
「今日は、いろいろあったな」
「はい」
「結婚して、図鑑が一緒になって、みんなに祝ってもらった」
「とても幸せな一日でした」
サラが胸元の指輪へ触れる。
「眠ってしまうのが、もったいないくらいです」
「明日になっても、結婚したことは変わらないぞ」
「分かっています。それでも、今日という日を忘れたくないのです」
「俺も忘れない」
サラの左手を取る。
薬指には、俺が贈った銀の指輪がはめられていた。
「指輪、緩くないか?」
「少しだけです」
「やっぱり直してもらおう」
「今は外したくありません」
サラが俺の手を握り返す。
「今夜だけは、このままでいさせてください」
「ああ」
しばらく、手を繋いだまま座っていた。
鉱山では、誰かの足音が聞こえるたびに身体を強張らせていた。
今は、この部屋へ勝手に入ってくる者はいない。
扉には鍵がある。
窓から逃げる道を確認する必要もない。
ここは俺たちが選んだ家だ。
「ルナト」
「何だ?」
「私を妻にしてくれて、ありがとうございます」
「礼を言うのは俺のほうだ。ずっと一緒にいてくれた」
「私が一人では逃げられなかっただけです」
「俺だって一人では無理だった」
サラと出会わなければ、逃げようとさえ思えなかったかもしれない。
守りたい相手がいたから、剣と盾を手に取った。
「サラがいたから、俺は鉱山から逃げられた」
「ルナトがいたから、私は生きてここまで来られました」
「なら、お互いさまだな」
「はい」
サラが微笑む。
先ほどまでの緊張が、少しだけ和らいだように見えた。
「……でも、まだ怖いです」
「何が?」
「幸せになったことが、です」
サラは俯き、俺の手を強く握った。
「家族に売られたとき、私は自分に価値がないのだと思いました。鉱山でも、働けなくなれば食事を減らされました」
静かな声が震えている。
「だから、役に立たなければ、また捨てられるのではないかと……今でも考えてしまいます」
「俺がサラを捨てると思うのか?」
「思いたくありません。でも、何もできなくなったらと考えると、怖いのです」
料理を作る。
掃除や洗濯をする。
俺が怪我をすれば、誰よりも心配して手当てをしてくれる。
サラがいつも何かをしようとするのは、優しいからだけではなかった。
自分の居場所を失わないためでもあったのだ。
「サラ」
俺は繋いでいた手を離し、彼女の身体を抱き締めた。
「役に立つから結婚したんじゃない」
「……はい」
「料理ができなくても、掃除ができなくても、サラは俺の妻だ」
細い背中へ腕を回す。
「怪我をして動けなくなっても、俺がサラを守る。何もできない日があっても、ここにいていい」
「本当に?」
「ああ」
「ずっと?」
「ずっとだ」
サラの両腕が、俺の背中へ回る。
胸元へ顔を埋め、小さく息を漏らした。
「そんなことを言われたのは、初めてです」
「これから何度でも言う」
「では、私も何度でも伝えます」
サラが顔を上げる。
「ルナトも、何もできない日があっていいのです。怪我をして戦えなくなっても、私の夫です」
「ああ」
「私が守ります」
「サラに守られるのか」
「嫌ですか?」
「嬉しい」
蜂蜜色の瞳に涙が浮かぶ。
俺は指先で、その涙を拭った。
「口づけをしてもいいか?」
「先ほど言いました。夫婦なのですから、聞かなくてもいいですよ」
「それでも聞きたい」
「……してください」
サラが目を閉じる。
頬へ手を添え、唇を重ねた。
神殿で交わしたものより、長い口づけだった。
一度離れ、もう一度触れる。
繰り返すうちに、サラの身体から力が抜けていく。
首へ回された腕に引かれ、二人で寝台へ倒れ込んだ。
俺が上になり、サラを見下ろす。
白い寝間着の襟元が開き、柔らかな胸の谷間が露わになっていた。
サラは恥ずかしそうに胸を隠そうとする。
「見ないでください……」
「嫌なら目を閉じる」
「嫌ではありません」
隠しかけた手を、ゆっくり下ろす。
「恥ずかしいだけです」
「俺も緊張してる」
「ルナトも?」
「ああ」
「少し安心しました」
サラが小さく笑った。
「近くへ来てください」
言われるまま、身体を寄せる。
柔らかな胸が、俺の胸板へ押しつけられた。
サラの唇が、今度は向こうから俺の唇へ触れる。
「私を……ルナトの妻にしてください」
「もう妻だろ?」
「そういう意味ではありません」
囁くような声だった。
意味を理解すると、心臓の鼓動がさらに速くなる。
「本当にいいのか?」
「はい。ルナトと一つになりたいです」
俺はもう一度、サラへ口づけをした。
寝間着の紐へ指をかける。
一つずつ解いていくと、白い布の隙間から、湯上がりの肌が少しずつ露わになった。
肩。
鎖骨。
柔らかな胸の膨らみ。
サラは両手で顔を覆いながらも、俺を拒まなかった。
「綺麗だ」
「今は、言わないでください……」
「どうして?」
「恥ずかしくて、顔を見られなくなります」
「なら、あとで言う」
「あとでも恥ずかしいです」
そう言いながら、サラは指の隙間から俺を見ていた。
俺も自分の服を脱ぐ。
左腕へ痛みが走り、わずかに顔をしかめた。
「腕、まだ痛むのですね」
「これくらい平気だ」
「無理は駄目です」
裸になったサラが身体を起こし、俺の左腕へ触れる。
こんなときまで怪我を心配している。
「今日はやめるか?」
「それは嫌です」
「でも――」
「私が無理をさせません」
サラが俺の肩を押し、今度は俺を寝台へ寝かせた。
「サラ?」
「私も、ルナトを大切にしたいですから」
薄明かりの中、白い肌が淡く輝く。
豊かな胸が重力に従って揺れ、その先にある淡い桃色が覗いていた。
目を奪われる。
サラは俺の視線に気づくと、恥ずかしそうに腕で隠した。
「やっぱり、見すぎです」
「悪い」
「……少しだけなら、いいです」
消え入りそうな声だった。
俺はサラの頬へ手を伸ばす。
「無理だと思ったら、すぐに言ってくれ」
「はい」
「痛かったら、やめる」
「分かりました」
「怖くないか?」
「少しだけ。でも、ルナトとなら大丈夫です」
もう一度、唇を重ねる。
互いの温もりを確かめるように、ゆっくりと触れ合った。
その夜。
俺とサラは初めて、夫婦として一つになった。
痛みも、恥ずかしさも、ぎこちなさもあった。
それでも最後まで手を離さなかった。
すべてが終わったあと、サラは俺の胸へ頬を乗せていた。
裸の身体に薄い毛布をかけ、ぴったりと寄り添っている。
「ルナト」
「何だ?」
「幸せです」
「ああ。俺もだ」
「明日になっても、妻ですよね?」
「当たり前だろ」
「何度も確認して、ごめんなさい」
「何度でも答える」
栗色の髪を撫でる。
サラが心地よさそうに目を細めた。
「おやすみなさい、あなた」
「おやすみ、サラ」
その夜は魔力循環を行わなかった。
それよりも大切な温もりが、腕の中にあった。
◇
翌朝。
目を覚ますと、サラが俺の腕の中で眠っていた。
毛布の下では、互いに何も身につけていない。
白い肩と背中が朝日に照らされている。
起こさないように毛布をかけ直そうとしたが、サラが目を開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
「……見ましたか?」
「少しだけ」
「また正直に言うのですね」
サラは頬を赤くし、俺の胸へ顔を隠す。
「昨日の夜は、もっと見ただろ」
「明るいところでは違うんです」
「そういうものか」
「そういうものです」
しばらくして、サラが身体を起こす。
毛布が胸元から滑り落ちそうになり、慌てて両手で押さえた。
「服を取ってもらえますか?」
「自分で取れないのか?」
「寝台から下りると、全部見えてしまいます」
「もう見たけどな」
「ルナト」
「分かった」
床に落ちていた寝間着を拾い、サラへ渡す。
俺が後ろを向いている間に、衣擦れの音が聞こえた。
「もう大丈夫です」
振り返ると、サラは寝間着を着ていた。
ただし、慌てて着たためか胸元の紐がうまく結べていない。
「少し曲がってる」
「え?」
「俺が直す」
紐を結び直す。
指先が胸元へ触れるたび、サラの身体が小さく震えた。
「くすぐったいです」
「もう終わる」
紐を結び終えたところで、目の前に淡い文字が浮かんだ。
《初級スキル図鑑を確認しますか?》
昨夜は、図鑑を見る余裕がなかった。
「サラにも見えるか?」
「はい」
俺たちは寝台へ並んで腰掛け、図鑑を開く。
昨日登録された二十八種類のスキルが、分類ごとに並べ替えられていた。
《初級スキル図鑑》
戦闘系:6/15
魔法系:3/15
探索系:8/15
生産系:4/15
生活系:5/15
身体・耐性系:2/10
汎用系:0/5
合計登録数:28/90
「分類ごとに表示されています」
「ああ。前は全部同じ一覧だったはずだ」
さらに、一番下へ新しい文字が浮かぶ。
《家族共有機能の解放に伴い、分類別達成報酬が追加されました》
《各分類をコンプリートすると、分類別達成報酬を受け取れます》
「達成報酬?」
サラが文字へ手を伸ばす。
生活系の表示を選ぶと、登録済みのスキルが並んだ。
《生活系スキル:5/15》
登録済み:
《火起こし》
取得者:ルナト
《応急手当》
取得者:サラ
《料理》
取得者:サラ
《洗濯》
取得者:サラ
《掃除》
取得者:サラ
分類別達成報酬:未開封
開封条件:生活系スキル十五種類の登録
「報酬の中身は書いていませんね」
「ああ。埋めるまで分からないみたいだ」
「何がもらえるのでしょう」
サラの声が少し弾んでいる。
昨日までの図鑑は、空欄を埋めるだけのものだった。
今は、その先に何かが待っている。
「どの分類が、一番達成に近いでしょうか」
「数だけなら探索系だな」
探索系を開く。
《探索系スキル:8/15》
登録済み:
《隠密》
《鍵開け》
《逃走》
《野営》
《採取》
《追跡》
《聞き耳》
《気配察知》
分類別達成報酬:未開封
開封条件:探索系スキル十五種類の登録
「あと七種類ですね」
「生活系は、あと十種類か」
「では、先に探索系を集めますか?」
それが一番早い。
リオナに教えてもらえば、森で使う技能をさらに身につけられるかもしれない。
だが、新しい家の中を見回す。
まだ家具は少ない。
庭は雑草だらけで、台所にも足りない道具が多い。
「いや。生活系から集めたい」
「達成まで遠いですよ?」
「ああ。でも、俺たちは暮らし始めたばかりだ」
剣や盾の技能は、命を守ってくれた。
隠密や逃走がなければ、鉱山から出られなかった。
それでも、逃げるためだけに生き続けるつもりはない。
「料理や掃除も、剣術と同じ一つのスキルとして載っている」
「はい」
「役に立たない技能なんて、ないんだと思う」
鉱山では、職業を持たない俺は価値がないと思われていた。
サラも、役に立たなければ捨てられると恐れている。
だが、図鑑の中では《剣術》も《料理》も同じ一枠だ。
魔物を倒す力だけが、人を支える力ではない。
「この家を、もっと暮らしやすくしたい」
サラを見る。
「みんなが安心して帰ってこられる家にしたい。そのために必要なことを覚えていけば、図鑑も埋まる」
「暮らすために、図鑑を埋めるのですね」
「ああ。図鑑のためだけに暮らすんじゃない」
スキルを集めれば、できることが増える。
できることが増えれば、この家での生活を豊かにできる。
「まず生活系を十五種類集めよう」
「はい」
サラが嬉しそうに頷く。
「二人で最初の分類をコンプリートしましょう」
「リオナも一緒だ」
「そうですね。まだ図鑑とは共鳴していませんが、大切な家族ですから」
そのとき、寝室の扉が叩かれた。
「二人とも、起きてる?」
リオナの声だ。
「起きてる」
「入っていい?」
「少し待ってください!」
サラが慌てて自分の格好を確認する。
寝間着は着ているが、寝台の上や床には昨夜脱いだ服が散らばっていた。
「どうした?」
「昨夜のことが分かってしまいます」
「夫婦なんだから、別にいいんじゃないか?」
「それでも恥ずかしいです!」
サラは床の服を拾い、毛布の下へ押し込んだ。
その間にも、リオナが扉の外から声をかけてくる。
「朝ご飯できたよ。入っていい?」
「もう少しです!」
「何を片づけてるの?」
「何でもありません!」
サラの顔が真っ赤になっている。
俺は笑いを堪えながら、扉を開けた。
「おはよう、二人とも」
リオナが料理の載った盆を持って立っていた。
パンと焼いた卵、それに少し形の悪い腸詰め肉だ。
「リオナが作ったのか?」
「卵を焼いただけだけどね。結婚した次の日くらい、サラを休ませてあげようと思って」
「ありがとうございます」
サラが嬉しそうに盆を受け取る。
「それで、昨夜はどうだった?」
「朝食を食べましょう」
「聞こえなかった?」
「聞こえましたが答えません」
「サラ、歩き方が少し――」
「リオナさん!」
サラの声が裏返る。
「冗談だよ」
「朝からやめてください……」
三人で居間へ移り、朝食を食べる。
少し焦げた卵だったが、リオナが俺たちのために作ってくれたと思えば十分にうまかった。
「それで、さっき二人で何を見てたの?」
「図鑑だ」
分類別達成報酬について説明する。
リオナの金色の瞳が輝いた。
「全部集めたら、何かもらえるの?」
「何が出るかは分からない」
「面白そう!」
「最初は生活系を埋めようと思っています」
「探索系のほうが近いんでしょ?」
「そうですが、まずこの家で暮らすための技能を集めたいのです」
リオナは少し考え、尻尾を揺らした。
「じゃあ、今日は庭を片づけようよ。畑を作るんでしょ?」
「いいですね」
「でも、俺たちは農業のやり方を知らないぞ」
「近所の人に聞けばいいんじゃない? 隣のマーナさんの庭にも野菜があったよ」
自分たちだけで分からないなら、知っている人に教えてもらえばいい。
「庭を片づけて、畑を作る」
「それから、足りない家具も作りたいですね」
「料理を売る準備もするんでしょ?」
やりたいことが、次々に増えていく。
図鑑を埋めるためだけではない。
三人で、この家を暮らしやすい場所へ変えていく。
「よし。食べ終わったら庭へ出よう」
「その前に、二人とも着替えたほうがいいよ」
リオナが俺とサラを交互に見る。
「特にサラ。寝間着の紐、少しずれてる」
「えっ?」
サラが胸元を見る。
俺が結び直したはずの紐が緩み、寝間着の隙間から白い胸の膨らみが覗いていた。
その先にある淡い桃色まで、わずかに見えている。
俺とリオナの視線が、同時にそこへ向く。
「見ないでください!」
サラが両腕で胸を隠した。
「ごめん」
「ルナトは昨夜、もっと見たんじゃないの?」
「リオナさんは黙っていてください!」
新しい家で始まった、夫婦と家族の最初の朝。
今日から俺たちは、生活系スキルのコンプリートを目指す。




