第17話 待ち伏せる獣
茂みの向こうから、苦しそうな息遣いが聞こえてくる。
助けを求めた男は、まだ生きている。
だが、その周囲には四匹の獣が潜んでいるらしい。
「相手の姿を確認したいね」
リオナが声を抑えて言った。
「サラ、あたしと一緒に右から回れる?」
「はい」
「ルナトはここに残って。何かあったら、剣で木を二回叩いて」
「俺が囮になるのか?」
「まだ囮にならなくていいよ。音を立てずに待っていて」
リオナとサラが身を低くし、右側の茂みへ入っていく。
二人の背中は、すぐに木々の間へ消えた。
俺は剣と盾を構えたまま、その場に残った。
姿は見えない。
聞こえるのは、風で揺れる葉の音と、遠くで鳴いている鳥の声だけだ。
「助けて……」
再び男の声が聞こえた。
今度は先ほどより弱い。
早く助けなければならない。
だが、焦って飛び出せば、待ち伏せている獣の思うつぼだ。
俺は呼吸を抑え、正面の茂みを見つめる。
何も動かない。
それでも、こちらを見ている何かの気配があった。
鉱山にいた頃も、姿の見えない監視の存在を意識することがあった。物陰に隠れた監視役が、俺たちの働きぶりを見張っていたからだ。
目だけに頼るな。
小さな音を拾え。
そう自分に言い聞かせ、意識を耳へ集中させる。
風が葉を撫でる音。
小枝が擦れる音。
虫の羽音。
その中に、一定の間隔で繰り返される低い音が混じっていた。
荒い呼吸だ。
正面の茂みに一匹。
少し左の木の陰にも、別の呼吸がある。
さらに奥から、爪が土を引っかく微かな音が聞こえた。
ミネルに教えられた魔力感知とは違う。
耳から入る無数の音を分け、必要なものだけを拾い上げていく。
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文字が浮かんだ直後、左側で葉が不自然に揺れた。
一匹が場所を変えようとしている。
俺がそちらへ顔を向けると、茂みの中の動きが止まった。
こちらに気づかれたと分かったのだろう。
低い唸り声が漏れる。
同時に、右側の離れた場所で鳥が一斉に飛び立った。
リオナたちのいる方向だ。
剣で木を叩くべきか迷った、その瞬間。
「ルナト、伏せて!」
サラの声が飛んだ。
考えるより先に身を沈める。
頭上を一本の矢が通り過ぎ、正面の茂みへ突き刺さった。
獣の鳴き声が響く。
茂みを突き破って現れたのは、灰色の毛に覆われた巨大な狼だった。
森狼より一回り大きい。肩の高さは俺の腰を超え、口から伸びた牙には黄色い汚れがこびりついている。
「灰牙狼だ! ルナト、正面を押さえて!」
離れた場所からリオナの声が聞こえた。
灰牙狼が地面を蹴る。
俺は盾を前へ出し、その突進を受け止めた。
「くっ……!」
腕に重い衝撃が走る。
身体ごと押し倒されそうになったが、右足を後ろへ引いて踏みとどまった。
灰牙狼が盾の縁へ噛みつく。
牙が木製の部分へ食い込み、表面を削った。
剣を振り下ろそうとしたとき、左から別の足音が迫ってきた。
もう一匹いる。
音で気づいていなければ、反応できなかった。
盾に噛みついている一匹を蹴り離し、身体をひねる。
二匹目の爪が胸元をかすめ、革鎧の表面を裂いた。
「ルナト!」
サラが茂みから飛び出してくる。
その後ろから三匹目の灰牙狼が追っていた。
「こっちへ走れ!」
俺が叫ぶと、サラは迷わず俺へ向かってくる。
彼女を追う灰牙狼へ、横からリオナの矢が刺さった。
矢は後ろ脚を貫き、灰牙狼が体勢を崩す。
サラは走る勢いを殺さず、腰の短剣を抜いた。
俺の横を通り抜ける瞬間、身体を回転させる。
短剣が灰牙狼の首筋を切り裂いた。
浅い。
致命傷には届いていない。
しかし、灰牙狼の注意が完全にサラへ向いた。
「離れろ!」
俺は一歩踏み込み、剣を横へ振る。
刃が灰牙狼の傷口を深く切り裂いた。
獣はその場に倒れ、二度ほど脚を震わせて動かなくなる。
「右から来るよ!」
リオナの警告。
振り向くと、最初に盾へ噛みついた灰牙狼が再び飛びかかってきた。
受け止めるのではなく、爪が届く直前に盾の表面を傾ける。
灰牙狼の身体が横へ流れた。
俺はその脇腹へ剣を突き入れる。
手応えはあったが、刃が骨に当たって止まった。
灰牙狼が暴れ、剣を持つ腕を振り回される。
「放して!」
サラに言われ、俺は剣から手を離した。
直後、リオナの矢が灰牙狼の目を射抜く。
獣は苦しそうに身体を跳ねさせたあと、脇腹に剣を刺したまま倒れた。
「あと二匹!」
リオナが次の矢をつがえる。
残った灰牙狼は茂みの奥にいた。
一匹はリオナを狙い、もう一匹は倒れている男のそばから動いていない。
傷つけた人間を餌にして、助けに来た者を襲う。
狡猾な獣だ。
「サラ、男のところへ行けるか?」
「やってみます」
「俺が引きつける」
地面へ落とした盾を拾い、倒した灰牙狼から剣を抜く。
刃についた血を払う暇はない。
俺は盾を剣の腹で二度叩いた。
硬い音が森に響く。
「こっちだ!」
倒れている男のそばにいた灰牙狼が、こちらを向いた。
牙を剥き、低い唸り声を上げる。
俺がもう一度盾を叩くと、獣は男を踏み越えて走り出した。
その隙にサラが動く。
木々の間を駆け抜け、倒れている男のもとへ向かった。
灰牙狼が俺へ飛びかかる。
正面から盾を構えたが、獣は空中で身体をひねり、俺の横を通り抜けた。
狙いは俺ではない。
サラだ。
「サラ、後ろだ!」
俺は灰牙狼を追う。
だが、獣のほうが速い。
男のそばへ膝をついたサラが振り返る。
灰牙狼との距離は、すでに数歩しかない。
リオナが矢を放つ。
しかし、走る獣の肩へ当たり、深くは刺さらなかった。
間に合わない。
俺は剣を投げ捨て、そのまま灰牙狼へ飛びついた。
両腕で後ろ脚を抱える。
引きずられながらも、全身の力を込めて地面へ引き倒した。
「ルナト!」
「俺はいい! その人を!」
灰牙狼が身体をひねり、俺の左腕へ牙を立てようとする。
右腕を首へ回し、必死に頭を押さえ込んだ。
獣の臭いと、荒い息が顔へかかる。
次の瞬間、短剣が灰牙狼の喉へ突き刺さった。
リオナだ。
彼女は柄を握ったまま刃を横へ引き、喉を切り裂いた。
温かい血が地面へ広がる。
灰牙狼の身体から力が抜けた。
「無茶するね、あんた……」
リオナが息を弾ませながら言う。
「サラが襲われそうだった」
「だからって、武器を捨てて狼に飛びつく?」
「ほかに間に合う方法がなかった」
「それは、そうだけどさ」
リオナは困ったように眉を下げた。
だが、すぐに表情を引き締める。
「まだ一匹残ってる」
少し離れた場所で、低い唸り声が聞こえた。
最後の灰牙狼が、リオナの背後から近づいている。
「後ろだ!」
リオナが振り返る。
同時に、一本の矢が灰牙狼の額へ突き刺さった。
俺たちの誰が放ったものでもない。
灰牙狼は走る勢いのまま地面へ倒れ、枯れ葉の上を滑った。
「間に合ったか!」
森の奥から三人の冒険者が現れる。
先頭にいた弓使いが、周囲を警戒しながら俺たちへ駆け寄ってきた。
「ギルドから追加で捜索を頼まれた。行方不明者は?」
「一人はここです!」
サラが答える。
彼女は倒れていた男の傷を布で押さえていた。
男の脚には深い噛み傷がある。顔色は青白いが、意識は残っているようだ。
「もう一人……仲間が、奥に……」
男が震える指で森の奥を示した。
「採取中に狼に襲われた。俺が助けを呼びに……でも、捕まって……」
「ここから先にも血の跡が続いてる」
リオナが立ち上がった。
俺たちは追加で来た冒険者たちと役割を分けた。
二人が負傷した男を町へ運び、弓使いが俺たちと一緒にもう一人を捜すことになった。
血痕を追って森の奥へ進む。
見つかったのは、太い木の根元に背を預けている若い女性だった。
左肩を負傷しているが、手にした採取用の鎌で灰牙狼を牽制し、どうにか生き延びていたらしい。
「助けが……来た……」
俺たちの姿を見た途端、女性は安心したように意識を失った。
サラが駆け寄り、呼吸と傷を確認する。
「大丈夫です。傷は深いですけど、息は安定しています」
俺たちは簡単な手当てを施し、交代で女性を背負って町へ戻った。
ギルドへ着いた頃には、空が赤く染まり始めていた。
二人の採取者は治療院へ運ばれた。
命に別状はないという。
「よく二人とも連れ帰ってくれました」
受付嬢が安堵した表情を浮かべる。
依頼の報酬は一万五千G。
さらに、灰牙狼の素材を売った代金が一万二千Gになった。
追加で来た冒険者と分けても、一人当たりには十分な額が残る。
報酬を受け取ったあと、俺たちはギルドに併設された食堂へ入った。
リオナは席へ着いても、なかなか口を開かなかった。
「三回目の仕事、終わりましたね」
サラが静かに切り出す。
「うん」
リオナの尻尾が、落ち着かない様子で椅子の脚へ巻きついている。
「約束どおり、これからのことを話そうと思う」
俺とサラは、彼女の言葉を待った。
「あたしは今まで、一人で仕事をすることが多かった。誰かと組んでも、その日だけ。仲間になろうって誘われたこともあるけど、全部断ってきた」
「どうしてだ?」
「分け前で揉めたり、危なくなったら仲間を置いて逃げたりする人を見てきたから。背中を預ける相手は、簡単に決めたくなかったんだ」
リオナはそう言ってから、俺の左腕を見た。
革鎧には、灰牙狼の爪が残した傷がある。
「ルナトは無茶をするし、サラは自分より怪我人を優先する。正直、見ていて危なっかしいよ」
「それは否定できないな」
「でも、二人なら、あたしが危ないときにも逃げないと思う」
金色の瞳が、まっすぐに俺たちを見る。
「あたしを、二人の仲間に入れてくれない?」
「もちろんです」
サラがすぐに答えた。
「いいの? ルナトに聞かなくても」
「ルナトも同じ答えですから」
サラがこちらを見る。
その瞳に迷いはない。
「ああ。一緒にやろう、リオナ」
俺が手を差し出すと、リオナはその手を握った。
少し遅れて、サラも俺たちの手へ自分の手を重ねる。
「よろしくね、二人とも」
リオナの獣耳が嬉しそうに立ち、尻尾が大きく左右へ揺れた。
これで俺たちは、三人になった。
ただし、リオナは冒険者として正式な仲間になっただけだ。
俺たちが鉱山から逃げてきたことも、不思議な水晶の欠片を持っていることも、まだ話していない。
いつかは打ち明ける必要がある。
それでも今は、三人で交わした約束を素直に喜びたかった。
その夜。
宿の部屋へ戻った俺は、ミネルに教わった姿勢を取った。
両手を胸の前へ上げ、見えない大きな球を抱えるように開く。
右手へ魔力を集め、ゆっくりと身体の外へ押し出す。
最初は何も起こらなかった。
それでも何度も繰り返していると、右の手のひらからわずかな熱が離れた。
目には見えない。
だが、そこに魔力があることだけは分かる。
両手の間にある空間を通し、左手で受け止める。
半分以上は空気へ散ってしまった。
残ったわずかな魔力を身体へ戻し、再び右手へ運ぶ。
右から出して、左で受け取る。
何度も繰り返すうちに、身体が重くなってきた。
「そろそろやめたほうがいいですよ」
隣のベッドに腰掛けていたサラが言う。
「ああ。最後にもう一回だけ」
残った魔力を右手へ集める。
手のひらから放ち、左手で受け止めようとしたときだった。
二つの手の間を、淡い光が横切った。
蛍のような、小さな光。
光は俺の左手の周りを一度だけ巡り、すぐに消えてしまった。
「今、何か見えなかったか?」
「何かって?」
サラが俺の両手を覗き込む。
柔らかな栗色の髪が肩から流れ、俺の腕をくすぐった。
「小さな光だ。蛍みたいな」
「窓から入ってきたのでしょうか」
窓は閉まっている。
部屋の中を見回したが、光はどこにもいなかった。
「魔力が光って見えたのかもしれませんね」
「そうなのかな」
「今日は初めてですし、疲れて見間違えた可能性もあります。もう休みましょう」
サラに促され、俺は両手を下ろした。
今夜はほとんど魔力を循環させられなかった。
あの光も、ほんの一瞬見えただけだ。
俺は深く考えず、寝台へ横になる。
灯りを消すと、部屋は静かな闇に包まれた。
やがて俺たちの寝息が重なり始める。
そのあと。
誰も見ていない暗闇の中で、蛍に似た淡い光がもう一度だけ瞬いた。




