8. 私の神様は
「なにしてんだコラァァ‼」
怒声と激痛に意識を取り戻す。
テオ君は私を回収し、そのまま前方の茂みへとダイブ。
「何してんだよ!」
ベタな映画の死にゆくヒーローさながら、テオ君の腕に抱かれ叱責される。
「命は、ひとつしかないんだぞ!」
「ご、めんな、さ」
応えようとして、私はごほっと嘔吐いた。
口の中に不快な感触が溢れる。
(なにこれ、血?)
どうりで胸が痛むはずだった。
身じろぎはおろか、息をするたびに刃物を突き立てられるかのようだ。
(なんだ、人間ってあっけなく死んじゃうんだなあ)
痛みに霞む意識の中で、漠然と思う。
「いい、いい。寝てろ。なんとかなるから」
茂みの外を窺いながら、テオ君はぶっきらぼうに応えた。
(なさけない、なあ)
私は自分の行動を心から悔いた。
奇跡は起きる、とムシの良い期待を抱いた結果――しかも私の力で起こすのだとか思い上がった結果、事態をさらに悪化させてしまった。
ハチワレに飛びつく直前に、『やれやれ、無能じゃないって分かったら、帰宅予定が延びちゃうかな?』なんて思いさえしたのだ。
恥ずかしさも含め、万死に値する。
「――なんだ?」
テオ君がバッと振り返る。
私たちの後方で、ガサゴソと茂みが揺れる。
「ミャン!」
「あ!」
件のサビ猫ちゃんが、ぴょこっと顔を出した。
「おまえ、どこ行ってたんだよ! って、ああもーこんなタイミングで……」
私の頭を無慈悲に放り出し、テオ君がサビ猫ちゃんを抱き上げる。
そのとき、ごしゃっ! と鈍い音が響いた。
私たちは息を飲む。
マッスルさんの盾が、砕けた。
盾の破片は地面に落ちる間もなく、瞬時に砂となり崩れた。
彼はここまで、たった一人で防戦を続けてきたのだ。
何十発、何百発とも知れない殺人ねこパンチを受け、ついに盾が破られた。
それは同時に、彼自身の限界であると見てとれた。
地面に膝を着いたマッスルさんに、ハチワレ怪獣が襲いかかる。
「〈スプラッシュ!〉」
エマさんが叫ぶ。
ライブの演出さながら、マッスルさんの左右から水蒸気と銀テープが激しく噴き上がる。
食らいつく寸前でハチワレが怯む。
そのわずかな隙をついて、マッスルさんは右腕を下から斜め上方へと、勢いよく振り抜いた。
たとえるならば、葉野菜に包丁を入れるような音が響いた。
その刹那、悲痛な咆哮が耳をつんざいた。
ハチワレ怪獣が飛び退く。
私の前髪や頬にも、ぴしゃりと飛沫が飛び散る。
私は呼吸を失った。
喉元から額にかけて、きれいなハチワレ柄の顔が、大きく裂けていた。
マッスルさんの右腕は、肘から先がナイフのようなものに変形していた。荒々しくいびつな形の、大きなナイフだった。
ハチワレは恐慌状態に陥っていた。
ふらつき、血の泡を噴きながらも牙を剥き出し、なおも敵に襲い掛かろうと構えている。
その顔から血はとめどなく溢れ続け、ハチワレの白い胸から両腕をむごたらしく濡らし続ける。
四月の新緑に撒き散らされた赤色は、嘘のように鮮やかだった。
それはまさに、飛び散り流れ出していく命そのものだった。
私の頭の中で、すべての音がふつりと途絶えた。
ぎしり、と胸が軋む。
けれど、足元に渾身の力を込める。
痛い。
胸が貫かれたかのように痛むが、そんなことはどうでもいい。
本気で立とうと思えば、立ち上がれる。
「ヨハンナさんに、あの子を治して、って伝えて」
「――あかり?」
空気と血反吐が漏れてしまったが、喋ろうと思えば喋れる。
だから、走ろうと思えば走れるんだ。
私は地面を蹴った。
――「猫」になれば。
猫にさえなれば、この子は生きていけるんだ。
私は腕を伸ばす。
どうか届いて。
このままでは、あなたは死んでしまうの。
視界が一歩ごとに明滅する。
意識が途切れそうだ。
ほんの数メートル先が、とほうもなく遠い。
だけど、私ならばどうなってもいい。
だから、もう一度だけチャンスをください。
(うにたん。――うにたん)
私は祈る。
私の神様は、きっと猫の姿をしている。
あたたかな鼓動を持つ、猫の形をしたものは、みな、私の愛するうにたんだ。
あなたに生きていてほしいんだ。
(おいしいごはんを食べて、窓辺でひなたぼっこをしよう)
私は祈る。
たくさん遊んで、イタズラもしよう。
夜になったら、温かいベッドで一緒に眠ろう。
――たとえそれが、私のわがままだとしても。
だから魔法よ、もういちど起こって。
苦しげな咆哮にハッとする。知らず、意識が途切れていた。
膝から崩れ落ちていく私に、生温かな液体が滝のように降り注ぐ。
私の真上に倒れてくる、大きな大きな猫。
つぶされたって、それでもいい。
私は力を振りしぼり、抱きとめるために両腕を伸ばす。
もし魔法が起こらなければ、その時には、私が一緒に死んであげる。
夢うつつに、思い出すことがあった。
私は小学生で、うにたんはまだ子猫だった。
うにたんは、おもちゃのネズミが大好きだった。
赤い目とピンクの耳のついた、白い小さなネズミちゃんだ。
私がそれをカーリングのように滑らせれば、うにたんもまた床を滑りながら追いかけていった。
自らテレビ台の下にシュートしてしまった時なんかは、ひっくり返って悔しがっていた。
ひとしきり遊び終えると、うにたんはそれを大事そうに口にくわえて、秘密の場所へと隠しにいくのだ。
そのネズミは、小さなうにたんの宝物だった。
ある日、私はちょっとだけ意地悪をした。
ネズミの尻尾をつまんで、うにたんには届かない高さで見せびらかした。
悔しがる様子が、かわいかったのだ。
しかし、うにたんは思いがけない大ジャンプをした。
私の指先を薙ぎ払い、ネズミをコロンと床に落とした。
私はあっと叫んで指先を見た。人差し指の先がすっぱりと裂けて、みるみるうちに血が膨らんだ。
「ひどい! ひどいよ、うにたん!」
私は怒鳴りつけた。
半泣きでキッチンの流しに走り、指先を勢いよく洗い流した。
痛むわけでは無かったが、思わぬ出血にパニックになっていた。
うにたんは、走って私を追いかけてきた。
そして調理台に飛び乗ると、ぽとり、と口から何かを落とした。
白いネズミだった。
ハッとして見つめ返すと、うにたんもまた、悲しい顔をしていた。
「これをあげるから」
と、眼差しが切なく語っていた。
猫には、こんなにも豊かな感情があるのか。
後から思い返しては、そのたびに胸が締め付けられる。
私の悲しみに、小さなうにたんは、自分の一番大切なものを迷わず差し出した。
これをあげるから、その先に続く、子猫の無垢な気持ちは何だったのだろう?
これをあげるから、なかないで。
おこらないで。
うにたんを、きらいにならないで。
ああ、どうして。
どうして私は、あの時うにたんを抱きしめてあげられなかったのだろう。
頬に、なにかヒンヤリとしたものが触れた。
ひんやりとして、少し湿っている。
「ん……」
私はゆっくりと目を開け、眩しさに眉をしかめた。
なにか、ひどく明るいところに寝かされている。
そして私の顔を覗き込む、茶色っぽいものと白黒のもの。
ピタリと焦点が合う。
サビちゃんとハチワレちゃんだった。
寝ぼけたまま体を起こすと、立派な十字架が目についた。
(そうだ、教会堂だっけ)
礼拝室らしき部屋の長椅子に、私は寝かされていた。
十字架を掲げた祭壇の後ろで、ステンドグラスが陽光を受けて輝いている。
白い床に色鮮やかな影が落ちて、まだ夢のように美しい。
「――って」
私はハッとして、ハチワレちゃんを見つめた。
「みゃん」
目が合うと、ハチワレちゃんはお返事をして、まばたきをひとつ。
きれいなツートンカラーに分かれた顔の、お鼻にポチッとぶちのある、愛嬌のある猫ちゃんだ。
前足だけに、白い靴下を履いている。
当たり前のサイズの、かわいらしい猫だった。
私の口から、安堵とも感嘆ともつかない声が漏れた。
胸中で、誰にともなく感謝する。
きっと猫の神様が、私の願いを聞き届けてくれたのだ。
それから、ヨハンナさんにも感謝のしようがないなあ……。
「くりーむぱん」
ふいに、人の声がした。
驚いて振り返ると、礼拝室の入り口に男の子がたたずんでいた。




