3. 今はまだ遠きネコの国
しかし私の決心は、ものの数分で揺らぎかけた。
ヨハンナさんの話をかいつまむと、こうだ。
今朝未明、「神託の塔」の上に現れ、しかしあっけなく転落した私は、ハチャメチャな重症を負ったものの、領主・クライセン侯爵家の侍医であるヨハンナさんによってチユマホウを施され、事なきを得た。
めでたし! いやちょっと待って!
「ち、チユマホウって何でしょうか……?」
「治癒魔法は治癒魔法ですね。
――え、そちらの国には無いんですか、治癒魔法」
私はなにか、絶望的な気分で応える。
「魔法自体がないですね」
「ははあ……」
落胆のような労わりのような、なんとも言えない相槌を打ってヨハンナさんが呟く。
「それでは大変ですね、ソノリ様の国は」
「あっ、それ、その呼び方なんですけど」
――ソノリ様って、なんですか?
そう尋ねてしまったばかりに、私はさらに困惑を重ねることになってしまった。
このクライセンという国には、「ソノリ」と呼ばれる来訪神伝承がある。それは未知なるものを携えてこの地に訪れ、叡智と繁栄をもたらす「異邦からのお客様」であり、これまでも数百年ごとに来訪しては、その都度新たな時代を導いてきたのだとか。
なるほどね、ナマハゲみたいなものか……?
ただ、絶望的なことが三点くらいあるよね。
まず「ソノリ」に対する期待値が高すぎる点。
それから、私がそれであるとみなされている点だ。
二点しか無いって? 三点目は、あまりに受け入れ難いのだけれど、
「あの、もしやここ、『異世界』ってやつですか……?」
「はあ、そういうことになるかもしれませんね」
そういうことになるのだった。
(……って、ええっ⁉)
私は言葉を失う。
そんな、まさか。紙や液晶画面の上ではちょくちょく目にする出来事だけど、よもや自分がその当事者になろうとは。
――それにしても、「魔法」って。
そんなの、都合が良すぎるのではなかろうか?
私は首を傾げてしまう。怪我を治す魔法さえ存在するなら、ここは日本の何万倍も進んだ世界じゃないだろうか。
あまり考えたくはないけれど、昨夜「ハチャメチャな重症を負った」私が生きているのも、その恩恵なのだろうし。
(私が呼ばれた意味、なくない?)
正直なところ、そんな気がしてくる。
そもそも私は、ごく普通の高校生だ。これといった特技も知識も、他人と違ったところもない。だからきっと、何のタシにもならないだろう。
今すぐにでも帰らせてほしい。
(だって、うにたんに朝ごはんをあげてないし)
そう、うにたん。
私の本意は、むしろそちらだ。
私には、異世界よりも大事なものがあるのだ。
時刻はもうお昼前だろうか。
うにたんは、お腹を空かせていないだろうか?
私が突然消えてしまって、悲しんでいないだろうか?
あおーん、あおーんと大声を上げて、家の中を右往左往するうにたんの姿が思い浮かぶ。
困った顔でソファーの下を覗いたり、カーテンの後ろを探したり、玄関に残されたままの私の靴を嗅いだりしているかもしれない。
(う……)
想像すると、私のほうが泣きそうだった。
あんなに愛くるしい生き物を悲しませることほど、罪深いことはない。
「さて、これからの予定ですが」
ヨハンナさんの言葉が、一方的に流れていく。
「貴方の能力について調べさせていただきます。
――要するに、魔力の測定ということですね」
まずいな、帰らせて、って言わなくちゃ。
そうは思うものの、タイミングをつかみ損ねてしまう。
「まあ調べると言いましても、オペランドの構成元素の属性や、エネルギー循環量を測定する程度の簡易的なものです」
説明は留まる気配がない。
私はうにたんが気がかりで、それどころではない。
不安に胸が締め付けられる。
右耳から左耳へと、理解不能な言葉がただBGMのように流れていく。
「測定には国家認定の機器を用いますが、まれに刺激によるショック症状を引き起こす可能性があります。――が、命に関わるようなことはまずありません。測定結果は即時解析されますので、報告を含めても小一時間で終わるでしょう。他、詳細につきましては道中で説明いたしますが」
「ぶぇっくしょ―――い‼」
バカでっかいくしゃみが、響き渡った。
(――え⁉)
いや、断じて私ではない。
私は驚いて振り返る。
ヨハンナさんも口を開けたまま、固まってしまっている。
「なははは!
いっこも分からんくて、くしゃみ出たわ!」
声の主は、これまで沈黙を保ってきた赤い髪の少年だった。
「テオドール……」
話を折られたヨハンナさんが、げんなりと呟く。
一方、私はホッと胸をなでおろす。
ありがとう、止めてくれて。
そんな感謝を込めて少年を見つめると、視線がばちっとぶつかった。
「俺は、テオドール!」
少年はそう名乗った。
よく通る快活な声に、部屋の空気にぱっと火がついたようだ。
「テオでいーよ!」
彼はそう付け足すと、まるで「待て」を解かれた犬のように、ずいっと私に詰め寄ってくる。
「ソノリ様さぁ、ちゃんと『うるせー!』って言わなきゃダメだぜ!
こいつの話、死ぬまで終わんねぇから!」
「う、うん」
「ヨシ!」
勢いに押されて頷くと、むしろ私が犬であるかのような念押しをされてしまった。
「そんでさ、ヨハンナもグダグダ詰めんなよ。
また泣きそーじゃん、こいつ!」
気付いてはいたが、昨夜出会った少年だった。
キャットタワーを登って、助けに来てくれた子だ。
明るい赤銅色の髪と、夏空のように鮮やかな青い目が、勝気な顔立ちによく似合っている。
「『こいつ』じゃありません」
ヨハンナさんが、テオ君の肩をつかんで引き戻す。
「すみませんね、この子、お馬鹿さんなのであまり喋るなって言ってあったんですけど、……いかんせんお馬鹿ですが、悪い子じゃないので」
「おい! なんで二回もバカって言うんだよ!」
「あ、分かりました? お利口お利口」
しばし息の合った応酬を繰り広げたあと、ヨハンナさんは咳払いをして、私に向き直る。
「……わたくしも、失礼いたしました。つい気が急いてしまいまして」
「ああ、いえいえ」
私も、一応の平静を取り戻していた。
そうだよなあ。私に事情があるように、こっちの人にも事情があるだろう。異世界からの来客対応なんて、とんでもない大仕事に違いない。
しかもその客、開幕早々瀕死に陥るような問題案件だし。
それに、不覚ながらも忘れかけていた。
私は部屋の隅へと歩み寄り、しゃがみこむ。
そこに置かれたケージの中で、目を閉じて丸まっているサビ猫ちゃん。
私が連れてきた猫だ。
この子の身柄が落ち着くまでの責任は、私にある。
いくらうにたんがかわいいからと言って、他の猫をないがしろにするのは間違っていると思う。
ここがどこであろうとも。
そして、どんな猫であろうとも。
(私は、すべての猫に幸せであってほしい)
私はふっと息を吐いた。
(この世界の人たちに、猫のことを教えよう。
猫がどんな生き物で、どんなものを食べて、どんなふうに暮らすのかを教えて、猫との生活を知ってもらおう)
そう、知ってもらうのだ。
猫は危険じゃなくて、素晴らしい生き物なんだということを。
(それで、サビ猫ちゃんを家族に迎えてくれる人が見つかったら、私も家に帰りたいって言おう)
うにたんの待つ、私の家へ。
「どうしましたか、ソノリ様」
「あの、『ソノリ様』じゃなくって」
少しためらったけれど、思ったよりも、言葉はすんなり続いた。
「私の名前は『あかり』って言います!」
ちゃんと、名乗らなきゃいけないと思った。
私の顔を見返す二人が、一瞬キョトンとした。
私は少し怯んでしまう。
――けれど、心配はいらなかった。
「よろしくな、あかり!」
いい笑顔と一緒に、テオ君の右手が差し出された。
「うん!」
嬉しい! 私も満面の笑みでその手を取った。
「……ええ。よろしくお願いします、あかりさん」
やや遅れて、ヨハンナさんも気恥ずかしげに手を差し出してくれた。
けれど、私の右手はタッチの差ですでに塞がっていた。
少し困ったけれども、見れば、彼女は左利きらしかった。私はちょっと考えてから、空いていた左手で握手をする。
「…………?」
思いがけず変な感じになって、笑ってしまった。




