2. フェレンゲ ……なんて?
「あーお、あーお、おあーん!」
うにたんの声に起こされた。
寝ぼけまなこでスマホを確認すると、時刻はまだ四時。
猫の朝は、すこぶる早いのだ。
(そっか、今日はお母さんが夜勤の日か……)
だから私が起こされるわけね、などと思いながら再び眠りに沈んでいくと、バリバリバリ! と勢いよくベッドでツメをとぐ音。
「わあ! 起きる、起きますよー!」
うにたんはかしこい子だ。うにたんはいつも、「バリバリウォール」でしかツメをとがない。しかし、時に不適切なツメとぎが人間を動かす手段になることも、また理解しているのだ。ううむ、とってもかしこい。
窓の外は、まだ暗い。
目をこすりながら階段を降りていく。
しっぽを上げてトコトコ先を歩く、うにたんのおしりがかわいい。
「よいしょ、っと」
背伸びをして、食器棚のいつもの場所から、お皿とカリカリを取り出す。
足元からは、はやくはやくと催促の声。
カリカリは、いろんな味が小分けになっているやつだ。適当にひとつ取ると黄色の袋。まぐろ&かつお味だ。
お皿に開けると、歓声が上がる。
カリカリ、カリカリ。
今日もいい音、元気な音だ。
うにたんは今日も、一生懸命にごはんを食べる。
「おいしいねえ、うにたん……」
意識がゆっくりと浮上していく。
ずいぶん眠った気がする。けれど、できることならこの温度の中に、もう少しまどろんでいたい。
――などという甘えは、たちまち吹き飛ばされた。
「気が付きましたか?」
ハッとして目を開けると、眩しさに目が痛んだ。
慌てて瞼をギュッと閉じ、あらためてゆっくり開きなおすと、じんわりと視界が晴れていく。
知らない部屋だった。
私は知らない部屋の、知らないベッドに寝かされていた。
ベッドサイドの大きな窓から、レースカーテン越しに白い光が降り注いでいる。外はいいお天気らしい。
「慌てないでくださいね」
身を起そうとすると、女の人の声が降ってきた。見ると、ベッドの傍らに、白衣姿の女の人が椅子に掛けている。なんとなく、「保健室の先生」を思わせる雰囲気の人だった。
齢は二十代の半ばくらいだろうか。長い髪をゆるく束ねた、姿勢のいい人だ。
私は息をついた。そして漠然と自問する。
どうして、こんな所にいるんだっけ?
そして、ふいに鳥肌が立った。
(生きてる)
思い出した。
――私は、何か高い所から落ちたはずだった。
崩れる足場と、美しい満月。
あの瞬間の恐怖が生々しく蘇ってくる。
私は確かに、自分の死を覚悟したのに。
「さぞ、怖かったことでしょう」
こちらの混乱を察したのか、女の人は少し微笑んでみせた。そうして、やや物憂げにも聞こえる落ち着いた声音で、ゆっくりと告げる。
「ソノリ様、ようこそクライセン公国へ」
――誰だ、それ。アンドどこだ、それ。
危うく思考がストップしそうになったけれど、なんとか踏みとどまる。
クライセン。
そんな国はあっただろうか?
なんとも返答しかねていると、女の人は長い睫毛を伏せて会釈する。
「わたくしは、ヨハンナ・ヴィルヘルム・ドミニクと申します」
ヨハンナ・なんとか・なんとかさん。
当たり前に言葉が通じているけれど、明らかに外人さんだった。私に向けられた彼女の両目は緑を帯びた深い青で、底の見えない湖みたいな、美しい色をしている。
さあ、本格的に困ったぞ。
あらためて眺めてみると、部屋の家具も内装も、異国情緒に溢れている。そこかしこにツル草っぽい装飾の施された、アンティーク調の素敵な部屋だ。
むかし遠足で行った、異人館によく似ている。
気を失っている間に、観光地に拉致されてしまったのだろうか。そんなワケあるか。
状況が謎すぎて、頭が割れそうだ。
(……いや、もうすでに割れてるかも)
そう思い至って、私は両腕を抱きしめる。
そういえば昨夜、キャットタワーから転落した後、生卵の割れるような音を最後に聞いた気がしないでもない。
(……って、「キャットタワー」?)
その単語が引き金だった。
「――猫は、」
私の口から、勝手に言葉がこぼれた。
「あの猫はどうしたんですか? 無事なんですか⁉」
――なぜ忘れていたのだろう。
ひとたび声になると、記憶は堰を切ってあふれ出した。私は昨夜、巨大なねこ怪獣に襲われたのだ。けれど、危ない所でなぜかねこ怪獣が普通の猫サイズになった。
だけど、私と一緒に塔から落ちて、それから?
それから、猫はどうなったのだろう?
「昨日の猫です! 私と一緒にいたはずです!
あの子は、無事なんですか⁉」
「……はあ」
私の勢いに押されて、ヨハンナさんは綺麗な色の目をぱちくりさせる。それから一呼吸の間をおいて、ね、こ、と慎重に繰り返した。
あたかも、未知の単語を発音するかのような調子で。
『フェレンゲルシュターデン』
それは、非常に危険な大型肉食獣である。
その体格ながら、高い身体能力と優れた感覚器官を持ちあわせており、駆除には大きな危険が伴う。
おもな生息域は国境付近の森林だが、しばしば人間の生活領域に侵入し、食糧や家畜を襲う。
さらに厄介なことには、人間の子供さえ襲うことさえある。それも、食べるためにではなく、戯れになぶり殺してしまうのだ。
そう、ヨハンナさんは説明した。
「ですから、われわれはこれを悪魔のように忌み嫌っています。仮に幼獣であろうとも、見つけたからには処分せざるをえません」
それが、彼女の言うこの世界での「猫」と人との在り方だった。
「……そんな」
目の前が、真っ暗になる思いだった。
たしかに、猫が巨大化すれば人類の脅威となるかもしれない。
けれど、それでも。
(……あんまりだ)
昨夜抱きとめた、あの子のキョトンとした顔が脳裏をよぎる。
あの子は、殺されてしまったのだろうか?
私の知らないうちに、独りぼっちで死んでしまったのだろうか?
私は唇を噛みしめる。
静かな部屋に、透明な光だけが降りそそぐ。
ヨハンナさんが、ふいに後ろを振り返る。
入口の、ドアの向こう側に向かって呼びかける。
「テオ」
「おうよ」
返事があった。
キィ、とかすかな音を立てて、おもむろにドアが開かれる。
現れたのは、赤毛の少年だった。
胸の前に、大きなケージを抱えている。
「――猫ちゃん!」
私は思わず声を上げた。
ケージの中には、あの猫がちょこんとうずくまっていた。
少年はこちらへ無遠慮に歩み寄ると、ベッドの上にケージを置く。
うずくまっている猫が、顔を上げる。
「みゃあ……」
そうして、私を見つめて、か細い声で鳴いた。
――生きていてくれたのだ。
よかった。本当によかった。
視界がぼやけて、口元がゆがんでしまう。
「……やれやれ、ですね」
ため息まじりに、ヨハンナさんは幾分くだけた声色で切り出した。
「貴方だってほぼ死んでいたんですが、これを殺さないでくれと、しきりに訴えていたものですから。
その執念を汲んで、一時的に保護しました。不本意ながらですよ」
彼女は傍らの少年を軽く小突く。
「まあ、このちびっ子も、そうしろと煩かったので」
「誰がちびっ子だ」
少年が顔をしかめる。
「……ありがとう、ございます」
私は掌で涙をぬぐって、かろうじて呟いた。
夜目には黒っぽい猫に見えたけれど、日差しの下で見ると、その子は見事なサビ猫だった。温かみのある茶色の毛並みに、赤色と黒色が美しく散らばっている。
それは落ち葉の降りしきる晩秋の森のようであり、ほのかな温度を持って眠る冬の土のようでもあった。
なにか、せつない美しさをたたえた猫だった。
ケージの扉を開けると、サビ猫はかすかに喉を鳴らし、私の手におずおずと頬をすり寄せた。その体格に子猫の頼りなさは無いけれど、まだ大人の猫でもない。
(――ああ。なんだ、そうか)
ふいに霧が晴れるように、私は確信した。
(ここがどこでも、猫はかわいい)
それは私にとって揺るぎない真実たりえたし、それに加えて、もう一つ。
(猫を助けてくれる人に、悪い人はいない)
万国共通、きっとそうだろう。
(……よし)
私は心を決めた。
ひとまず落ち着いて、この人たちと話をしてみようと。




