18. 海と市場と港町〈3〉+でっかいネコ
三百メートルほど走ったところで、ねこ怪獣らしきものの姿が、船上から消えてしまった。
「ああ……!」
私は落胆の声をあげて、ついでに息を切らせて足を止める。
たしかに、少し考えればそりゃそうだった。私たち人間は必死に走っているけれど、見知らぬ猫が待っていてくれる保障なんてない。
それから、勢いで走り出したものの、私も六百メートル全力ダッシュなんてできるわけがなかった。
ごめんなさい、私、書道部なんです。
(……どこ? どこに行ったの?)
喘ぎながら、前方に目を凝らす。
海に飛び込んだとは考えづらい。だって猫だもの。
と、なると埠頭に上陸したのだろうか?
街中に突入でもしたら大変だ。
周囲の空気は緊迫していた。
船のほうから、ばらばらと逃げてくる人たちとすれ違う。ちょうど先ほど、割鐘を叩くような音がけたたましく鳴り響いていたが、どうやら警報だったらしい。
(こんな時に、テオ君がいれば!)
両膝に手をつき、息を切らしながら歯痒く思う。
くそう、どこをほっつき歩いているんだテオ君!
あんな身体能力おバカみたいなキッズ、こんな時にこそ居てほしいというのに!
「――どォこ行ってたんだよっ!」
「どえっ!?」
私は驚いて顔を上げる。
「な・ん・で・ベンチのとこに居ねーんだよ‼ 探したじゃねーか!」
件のテオ君だった。
「こっちのセリフです‼」
すかさず、後方から半泣きの声が飛んできた。
ほぼ瀕死のヨハンナさんだ。
「馬鹿テオ! バカドール! どこに行ってたんですか! 罰として今日から貴方の食事はハム一枚です!」
「わりぃわりぃ! ってあまりにも質素⁉」
「二人とも漫才してる場合じゃないです!」
私は叫ぶ。
とにかく、ねこ怪獣を見失ってしまった。
いかんせん相手は猫なのだ、追いかけっこに勝ち目はない。人間としては、何か作戦を考えなくてはなるまい。
(うーん、猫……海……市場……)
私は脳みそをフル回転させ、そして提案する。
「街を焼きましょう!」
「はい!?」
ヨハンナさんの声が裏返る。
「どうしました⁉ 突然、鬼畜みたいなことを!」
「あ、言い間違えました」
私も頭に酸素が足りていないのかもしれない。
深呼吸をして、落ち着いて提案しなおす。
「お魚を焼きましょう!」
かくして私の眼前に、青魚がうず高く積み上げられた。
「かっぱらってきてやったぜぇ!」
テオ君がドヤ顔で、痛い中学生みたいなことを言う。
私の提案から、ものの数分だった。
正直、速すぎて正直ちょっと恐怖した。
このおそるべき短時間で、テオ君は一体どういう手段で市場通りに戻り、サンタクロースよろしく麻袋いっぱいに魚を詰めて、再び戻ってきたというのか。
考えるだけ無駄だ。ただ走ってきたのだ。
しかも袋が路地につっかえたのか、帰りは違う道から戻ってきた。テオ君がメロスだったら、おそらく名作もチートラノベと化してしまうだろう。
それはそうと。
私の提案した作戦はこうだ。
『お魚をたくさん焼いて、その匂いを風で流して、ねこ怪獣をおびきよせよう』
だって、猫だもの!
「それじゃあ、焼いちゃってください!」
「うっ」
私のお願いに、なぜか表情を曇らせるヨハンナさん。
「えっ、もしかしてそういう魔法は無理みたいな?」
私はあせる。「火と風は、ヨハンナさんの魔法でなんとかなるだろう」という希望的観測にもとづく作戦だったのだが、やっぱり魔法にも、得意・不得意があるのだろうか?
異世界生活二日目にして、早くも他人様をアテにしている私はどうなんだ、というツッコミは聞かないことにして。
「いえ、できますよ。可能ですけども……」
あいまいな返事とともに、ヨハンナさんはお魚山の裾野にしゃがみこむ。そうして顔を背けながらも、そこに両手をぺたりと当てる。
「〈昇りゆかん、喜びのつばさ以て
太陽も月も星々も知らぬ、空のいと高きへと〉」
出た! カッコいい呪文だ!
しかし、そのわりにはテンションが低い。
――って、ヨハンナさんの触れた箇所から舐めるように炎が這いあがり、あっという間にお魚山が炎上する。
「ひぇっ⁉ もっと弱火でお願いします!」
「あっ、つい荼毘に付す調子で」
「あいつさ、死体に触るのはイヤなんだよ」
テオ君が声をひそめて教えてくれる。
「まだ生きてるモノなら、どんなに酷くても平気らしいけど」
「いや、死体て」
私はツッコむ。たしかに、「新鮮な魚」は「死にたての魚」ではあるけれども。
「けど、直接触らないとダメなんだってさ」
「そういうものなの? 魔法って」
問い返す私に、テオ君は肩をすくめて「さあ?」というジェスチャー。
「ヨハンナはそうなんだろ。
あとついでに、料理っていうガイネンもないんだろーな。生か消し炭か、どっちかしか見たことねーわ」
「ちょっと! 誤解を招くような物言いはやめなさい!」
間髪入れずに、ヨハンナさんが反論してくる。
「――いや、そんなことより、風ですよ!」
弱火で燃えるお魚山は、香ばしい匂いをあたりに振りまいている。思わずお腹が鳴ってしまいそうなこの香りを、向こう側へと流さなくてはならない。
私は再度、ヨハンナさんにお願いする。
「風、起こせますか?」
「善処します」
あれっ⁉
このリアクションは善処できないやつでは⁉
しかし、その点に関しては悩む必要はなかった。
必要というよりも、悩む暇が無かった。
「ぎょわっ‼」
唐突にテオ君が叫び、私は息をのんだ。
いつからそこに居たのだろうか。路地の奥から、巨大な目玉がこちらを凝視していた。
――びゃっびゃっ!
路地から素早い左フックが繰り出される。
私はきゃっと叫んで飛び退くが、幸いリーチも足りず、こちらには届かなかった。
――ぬるり。
しかし、息をつく暇はなかった。
ねこ怪獣は路地に身体を滑り込ませ、スイスイとこちらに向かってくるではないか。
さすが猫、大きさに反してなんという柔らかさ!
「わ、わああ……」
案の定というべきか、それはクラシックなキジトラ柄のねこ怪獣だった。
「フンスフンス!」
しかし、キジトラ怪獣は私たちには目もくれず、お魚山へとまっしぐらに突撃すると、
「ギャアアアア‼」
熱さに悲鳴をあげ、勝手に暴れた。
「わ⁉」
同時に、こんがり焼けた灼熱のお魚が、私たちの頭上に降り注ぐ。
「おっと!」
私とヨハンナさんを両脇に抱えて、テオ君が飛び退く。
た、助かった!
突然のことで、ぐえっと変な声が出たけれど。
「これでハムは二枚になったよな?」
「タックルでなければ三枚でしたね」
一方キジトラ怪獣は、散らばった焼き魚に向かって背中を逆立て、歯をむき出して威嚇を始めた。
「フシャシャシャシャ!」
焼き魚の様子をうかがっては、素早くパンチを繰り出してみたり、再び飛び退いては威嚇を繰り返したりしている。
もしかしてこの子、ちょっとおバカさんかもしれない!
(――よし)
ここからは私の役目だった。
私は長い瞬きの間に、愛するうにたんの姿を思い描く。
私の胸の裡のいちばん柔らかく美しい場所、そこに黒猫の姿をした、私の神様は住んでいる。
うにたん。そう呼びかければ、まどろむ神様が私を見とめてミャンと鳴く。
私は短く息を吸って駆け出す。
しかし、まさにその瞬間だった。
「エンヤサッカ、サー‼」
威勢のいい、謎の掛け声が響き渡った。
「えっ⁉」
キジトラ怪獣の眼前で、私は思わず足を止めてしまった。しかしキジトラも、キョトンとして空を見上げている。
――ばさばさっ!
まもなく、音を立てて何かが空から降ってきた。
「いたっ⁉」
思いのほか衝撃は軽かったけれど、地味に痛い。
なんだこれ? 妙にスカスカした……
――えっ、洗濯ネット?
(いや、網だ!)
なんとキジトラ怪獣もろとも、私は突如投げられた網に捕まってしまったらしい。
「ギャアッ‼」
「ぎゃっ⁉」
しかも暴れるキジトラ怪獣にどつかれ、倒れた弾みに、思いっきり頭を地面に打ち付けてしまった。
焼き魚の散らばる中、魚網に絡まりながら、私は意識を失った。
あまりにもあんまりだ。




