17. 海と魚と港町〈2〉
「ヨハンナさんのおうち、どのへんなんですか?」
尋ねてみると、ヨハンナさんはベンチから立ち上がり、石積みの堤防へと歩み寄った。
「もう少し南の、埠頭の辺りですね」
そう言って、堤防沿いにはるか先を指し示す。
「見えますか? あそこに大きな船が停まっているでしょう」
私は堤防から身を乗り出して、目を細めてそちらを眺める。
遠景はぼんやりと霞んで見えるけれど、海岸の地形がゆるやかに湾を成しているのは分かる。
大きな船か、どこだろう。
「あ、あれですね!」
見つけた。
陸近くに、なんだかキャリーケースみたいな形のモノが浮かんでいる。
キャリーって、あれだ。うにたんを獣医さんに連れて行くときの、あの入りたがらないカゴだ。
「ええ。だいたいあの辺りがわたくしの生家ですね」
一瞬、誤ってキャリーケースに入っているヨハンナさんを想像してしまったが、何食わぬ顔でやり過ごしておいた。
大きな船は、いったい何を乗せているのだろう。
旅人だろうか、はたまた外国からの貴重品だろうか。
この国にチョコレートや紅茶があるってことは、どこかに搾取されてる地域があるってことだろうか? うーん、気の重い話ではある。
(大きな船に、大きな猫がみっちり詰まってたらおもしろいのに)
そんなのんきな妄想をして、一人で笑う。
キャリーに入ってくれる猫なら、なかなか聞き分けの良い子だろうな。
何色の子かな。ミケかな、茶トラかな。
(うーん、あれは、……キジトラちゃん!)
とくに理由はないけど、なんとなく、そんな感じがした。
潮風が、少し湿り気を帯びてきた。
空はまだ明るいけれど、そろそろ日が傾いてくる頃だろうか。
「いったん、馬車に戻りましょうか」
「はい。……あ、でも」
頷いたあと、私は急いで言葉を付け足す。
「どこかで、レオン君へのお土産を見たいです!」
そういえば、レオン君には「いってきます」を言わないまま出かけてきてしまったのだ。
今ごろ一人でしょんぼりしていないか、ちょっと心配だ。
「……って、お金はヨハンナさん持ちになっちゃうんですけど……」
「構いませんよ」
ヨハンナさんは笑う。
「坊ちゃんも喜ぶでしょう。道すがら、見ていきましょうか」
「はい!」
じゃあさっそく出発だ、と思ったものの、ふいにヨハンナさんの足が止まった。
「――そういえば、テオはどこに行きました?」
「テオくーん!」
名前を呼びながら、私たちは堤防沿いを探し回った。
(困ったな。どこに行っちゃったんだろ?)
たしかにテオ君って、ちょっと目を離すとどっかにダッシュしていきそうな感じの子ではある。だけど不思議とはぐれてしまうことはなくて、必ずヨハンナさんの周りにいるはずなのだ。
その辺の距離感は、リードのない犬みたいなものだと思うんだけどなあ。
「……ぅわあー……」
はるか遠方から、声が聞こえた。
(ん?)
私は耳を澄ませる。
テオ君、……ではない。けれど、埠頭の方向からだ。
(んん?)
目を細めて注視する。
いかんせん遠くてよく分からないが、さっき見つけたキャリー、もとい大きな船の上で、何かがぴょんぴょん飛び跳ねている、ような?
「ぅううわああ―――!」
あ、人が走ってくる!
男の人が数人、声をあげながらこっちに走ってきた。
「あのっ……」
「お嬢ちゃんも逃げなァ‼」
こちらが問うより早く、逆に大声でどやされる。
「ど、どうしたんですか?」
「猛獣だ! 船の荷台から、フェレンゲルシュターデンが出たんだよ‼」
「えっ」
私は絶句した。
ほんの数十分前の、自分の妄想が脳裏をよぎる。
『大きな船に、大きな猫がみっちり詰まってたらおもしろいのに』
(わ、わたしは予言者か!?)
ていうか、そんなこと、あるわけないんじゃないかな!?
「あかりさん!」
「ここからあの船まで、どれくらいですか⁉」
駆け寄ってくるヨハンナさんに、私は早口に尋ねる。
「えっ? えっとそうですね、船が25メートルくらいだとして、いま目測2センチ弱ですから、えっと、えっと」
混乱のためか、ヨハンナさんの解答も的を射ない。
「……とにかく、わたくしが走り切れない距離であることは、確かですね!」
「わあ!」
突然の戦力外自己申告!
私は拳をにぎりしめて、埠頭を見据える。
船員さんたちが全力ダッシュで走ってきたことだし、ぜんぜん1キロなんて無いと思う。せいぜい600メートルくらいだろうか。
「行きましょう、ヨハンナさん!」
「善処します」
めちゃくちゃ暗い面持ちでヨハンナさんが頷く。
あ、この人、体育はダメなタイプなんだ!
さて、その頃レオンハルトは意気消沈していた。
昼食のあと、自室で一休みしているうちに、つい眠りこんでしまったらしい。
目を覚ますと、あかりたちはすでに、どこかへ出かけた後だという。
(……ちぇ)
ひどく損をした気分だった。そのうえ、なんとなく身体も重い。
教会堂に遊びに行こうかと思ったが、妙な気だるさに抗えず、玄関先でしゃがみこんでしまう。
「なぁん……」
ワッフルが、ふわふわの頭をぐいぐい押し付けてくる。
琥珀色のおだやかな目は、「げんきをだして」と言いたげだ。
ワッフルは良いクリームパン、もとい猫だと思う。猫という生き物が皆そうなのかは分からないが、つねに付かず離れずの距離を保って、どこに行くにも付いてきてくれる。
「レオンハルト様?」
たそがれていると、声を掛けられた。
「お風邪を召しますよ、――って、レオンハルト様?」
執事のモリッツだった。
彼はなぜかこちらの名前を連呼すると、なぜか眉をひそめて鼻をくんくんさせながら近づいてきて、なぜかこちらの手元に目を留め、声を上げた。
この指輪が、どうかしたのだろうか?
レオンハルトは左手をひょいと挙げて、中指にはめた指輪を執事に見せる。
「おとうさま、から」
「ああ、お誕生日にもらったものですか。失礼ながら、拝見しても?」
「ん」
父からのプレゼントは、奇妙な指輪だった。
言うなれば、黒いテントウ虫の指輪だ。――もちろん本物の虫ではなく、「黒いテントウムシのような石」の据えられた指輪だ。
つるりと磨かれた黒い石の肌に、鮮やかな紅色の点々が散らばっている。だからその指輪を身につけると、ちょうど指にテントウムシがとまったように見えるのだ。
レオンハルトは、その指輪を一目で気に入ったのだった。
しげしげと指輪を観察していた執事は、端的にコメントを述べた。
「激ヤバ」
「げき?」
どういう意味だろう?
「いえ、とても良い物ですよ。それは間違いありません。ただ、指にははめずに、ポッケにでもしまっておくほうが宜しいかと。
――なんと形容しましょうか、これは、非常に重いですから」
執事はそう言って、指輪を返してくれる。
「おもい?」
しかし、受け取った指輪は、もちろん指輪一個分の重さしかない。
「はい。あのムキムキの神父、100人分くらいの重さでしょうね」
「……?」
いよいよもって、どういう意味だろうか?
レオンハルトの頭の中に、瞬時に100人の神父が現れ、ピラミッドを組み始める。
40人が最下団に四つん這いで膝を付き、その上に30人がワラワラと乗りあがり、さらにその上に20人が、そして最後に10人が、……あ、だめだ。
人数の配分を間違えた。
組みかけた筋肉ピラミッドが、一瞬で爆発解体される。
いや、そんなことよりも、だ。
「あかり、は?」
そう、彼女はどこへ行ったのだろう?
ヨハンナとテオドールも彼女に同行したのだろう。のんきに昼寝をしていたとはいえ、自分一人だけ蚊帳の外なんて酷いじゃないか。
「んなぁ~ん」
ほら、ワッフルだってそう言っているぞ。
「ソノリ様は、外にお出かけです」
しかし、そう言われてしまうと、レオンハルトは黙るしかなかった。
何かを言おうとしたが、言うべき言葉も纏まらず、唇を引き結ぶ。
この箱庭の『外』。
それは自分にとって未知の場所であり、ややもすると生涯踏むことのない地だ。
出向いていくことなど、とうてい叶わない。――お荷物にしかならない、自分には。
「あらら」
執事が短く呟く。
うつむいた目元にかかる前髪を揺らして、そよ風が通り過ぎた。
ほんのかすかに、雨上がりの匂いがした。
どこかでは雨が降ったのだろうか。
「レオンハルト様」
視線を上げると、執事は口元に、人差し指をぴっと立てた。
内緒ですよ、のジェスチャーだ。
その目元が、まるで悪戯の計画でも持ちかけるかのように笑っている。
「このモリッツと、『ヒミツの特訓』をいたしませんか?」
その頃の領主さま:
庭木を拾ってきて猫じゃらしをルンルンで自作するも、執務室のお鉢植えにウンチッチがしてあるのを発見し、ドン凹み。




