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16. 海と魚と港町〈1〉


 車と言えば、思い出すことがある。



 うにたんは、病院に行くのが大嫌いだ。

 そもそもキャリーに入れられるのが嫌いだ。


「ふぎゅうぅぅぅ……」


 そういうわけで、健康診断だとかワクチンの接種だとかのたびに、我が家では大捕物が繰り広げられるわけだが、うにたんは頑としてキャリーに入らない。

 結局、ブランケットにくるんで連れていくことになる。


 いつもならご機嫌でふみふみする、お気に入りのブランケットに拘束されて、うにたんは情けない顔だ。

 抱っこされたまま、お詫びの干しカニカマをもしゃもしゃと噛みしめている。


「ぁああーぉん! あああーおん! アアアア――‼」

「あかり! しっかり抱っこしてて!」


 車を発進させるなり、再び大騒ぎが始まる。

 たすけてくれぇ! しんでしまう! とばかりの大声だ。

 おうちから離れるのがよほど嫌なのか、これから病院だと理解しているのか。


「アアアアアア――オ‼」

「わっ!」


 軟体動物のように拘束をすり抜け、うにたんが後部座席に行ってしまった。

 窓の外を覗いて叫ぶ。

 たすけてくれぇ、たすけてくれぇ、うにたんをおうちにかえしてくれぇ‼


「しかたない、足元には来ないようにしてくれ」

「うん……」

 病院に着く前から、すでにお父さんも私もくたびれている。

「ああ、子猫のうちからキャリーに慣らしておくんだったなあ……」

 

 時計を見ると、すでに予約の時間に遅れそうだった。






 今なら、そんなうにたんの気持ちも分かる。

 よほど怯えた顔をしていたのか、ヨハンナさんが心配そうに尋ねてくる。


「馬車は初めてですか?」

「た、たしかに初めてですけど……」

 初めてだから、とかいう問題ではない。


「安心してください。祝福された馬に、祝福された御者。

 客車だって、ばっちり保護されていますから」

「ていうか馬車ねーの? たいしたことねーなぁ、おまえんとこ」


 ヨハンナさんの言葉にかぶせて、テオ君が鼻で笑ってくる。

 ドヤ顔がじつに小憎らしい。

 むむむ、こっちの世界にだって馬車はあるし、むしろそれよりカッコいい鉄の車がビュンビュン走っているんだからね!


「眠れないなら、窓の外を覗いてみては?」


 ヨハンナさんが、いたずらっぽい笑みを浮かべて私を促す。

 なんだろう、怖い系だったら嫌だな。

 おっかなびっくりカーテンの隙間から外を窺うと、その瞬間、何かがキラリと閃いた。


「――わあ!」


 海だ!

 私はいそいでカーテンを開ける。

 潮の香りが勢いよく吹き込んで、視界いっぱいに海が広がった。


「すごい……」


 紺碧の海原に陽ざしが白くきらめく、明るい春の海だ。


 海って、こんなに大きかったんだなあ。

 そういえば、海なんてずいぶん見ていなかった。

 ため息がもれてしまう。


 依然として馬車は超速で進んでいたが、海はどこまでもついてきた。

 夢中で眺めているうちに、やがて馬車は速度を緩め、大きな石造りの門の前で停まった。

 どうやら大いな(シュテッケン)る木馬(プフェルト)のエリアに入るらしい。


 私たちがやって来たのは、「シュテッケンプフェルト」という港街だ。


「このシュテッケンプフェルトは、もともと小さな漁港でした。

 それが四十年ほど前に、シュテファン商会という会社が運営の利権を握り、外国との貿易港を兼ねるようになっ」

「そういうの、いいから~‼」


「あっこら、待ちなさい!」

 ウキウキで駆け出していくテオ君を、ヨハンナさんと私とで追いかける。

 まもなく、にぎやかな大通りにぶつかった。


「揚げたてお魚フライのサンドイッチ、いかがですか~?」

「さあさあ、シビレキングカジキの解体ショーだ! 痺れちゃうよ~!」


 大通りの両側には、商店がずらりと軒を連ねている。

 みな店先に屋台を設けて、実演販売をやっているお店もあれば、派手なパフォーマンスをしているお店もある。

 道を行くお客さんも多い。みな、年齢も身なりも髪の色もさまざまだ。


「わああ……!」

 賑わいに圧倒されて、口から声が漏れてしまった。

「今日って、お祭りの日か何かですか?」

 ヨハンナさんに問いかけると、彼女は笑いながら答える。

「いえ、いつもこうですよ。まあ毎日お祭りと言えば、そうですかね」

 

「お魚サンド、半額の半額の半額で~す!

 新入りのレネちゃんが、初めて作ったサンドイッチで~す!」


 中学生くらいの女の子がふたり、箱にパンを山盛りに積んで、一生懸命に呼び込みをしている。


「初めてなんです! ほんとうに申し訳ありません!」

 半泣きになっている小柄な子が、おそらくレネちゃんだろう。

 一体どんなサンドイッチを作ってしまったというのか。


(あ、売れた。よかったねレネちゃん)


 いろんな人が、いろんなことを叫んでいる。

 その喧噪の中を、やはりいろんな人がチャキチャキと歩いていく。

 このあたりは、おもに漁港で獲れた魚介類を扱う市場なのだそうだ。


(すごいなあ……)


 岩みたいに厳めしいエビだとか、大きな口に歯がめちゃくちゃ生えた銀色の魚だとか、原型が想像できない生き物の吊るされた乾物だとか。

 目に映るものすべてが、パワフルでおもしろい。


「そこ、滑らないよう気を付けてくださいね」

「え? うわ」


 あらためて足元を見ると、石畳の道はどこもかしこも濡れている。

 正直なところ、衛生面はちょっと不安になってしまう。


 潮の匂いと、お魚の匂い。

 さらに人間の雑多な匂いと、体温とが入り混じった匂い。

 でも、不思議と嫌じゃない。

 静かできれいな街も素敵だけど、このワクワクに満ち溢れた空気も、とっても素敵だ。


(――よしよし)

 私はいい気分で、目に映る景色のいろんなところに、猫の姿を思い浮かべててみる。


 店先に、屋台の下に、飲食点の椅子の上に、軒先に。

 黒猫、白猫、茶トラ、ぶち猫。


(うん! やっぱり猫がいると、もっといいね)


「――ひゃっ⁉」

 そんなことを考えていると、人にぶつかってしまった。

 転んでしまう、――かと思ったが、すかさずテオ君が振り返って支えてくれる。


「大丈夫かよ」

「う、うん。ありがと」


 私はホッと息をつく。

 テオ君のこういうところは、本当に頼りになる。

「どんくせぇな。ほら、引っ張ってやろうか?」

 まあ、ちょっと一言多いかなとは思うけれど。


「あらぁ、テオ君じゃない!」

 ふいに陽気な声が飛んできた。

 声のほうを見ると、すぐ後ろ店先で、串焼きを焼いているおかあさんだ。


「どうしたの、かわいいお嬢さん連れて。おデート?」

「ちーがーいーまーす!」


 おかあさんは豪快に笑うと、しかめつらのテオ君に向けて、これまた豪快に片手いっぱいの串焼きを差し出した。

「ほら、持ってきな! お嬢さんの分もオマケしたげるよ!」

「うん!」

 一瞬前の表情はどこへやら、コロッと笑顔で串焼きを受け取るテオ君。


「で、ヨハンナ先生は何にする?」

 おかあさんの手腕はお見事だ。

 あっという間にヨハンナさんも巻き込まれて、小銭を支払っている。


「先生、今日は回診かい?」

「いえ、私用みたいなもので」

「そうかい。じゃあ、楽しんでね!」


 おかあさんの声は、人ごみの中でもよく通る。

 そのせいか、すれ違う人たちが私たちに視線を投げかけていく。

 いや、「私たちに」と言うより、どうやらヨハンナさんに、である。

 会釈していく人もいるし、好意的な笑顔を向けていく人もいる。

 ずいぶん、顔が知られてるみたいだ。




 私たちはおやつを片手に、大通りを離れた。

 入り組んだ細い路地を抜けると、ぽっかりと海に面した広場に出た。 

 ちょうどベンチもあったので、おやつ休憩をとることにした。


「どうですか? シュテッケンプフェルト」


 コロッケをかじりながら、ヨハンナさんがまったりと問いかけてくる。

「楽しいです。ちょっと圧倒されちゃいましたけど」

「ふふ、そうでしょう」

 ヨハンナさんは心地よさそうに笑う。


 気持ちのいい風が吹いて、沖合から鳥の声を運んでくる。

 さっきまでの喧噪とは別世界みたいな、静かな昼下がりだ。

 ――まあ、テオ君がどっかその辺に走って行っちゃったから、というのもある。


 コロッケの包装紙を几帳面に折りたたみながら、ヨハンナさんは照れくさそうに切り出した。


「わたくしは、この辺りの生まれなんです」


「そうなんですか!」

「ええ。ですから『外』と言われて、とりあえずお連れしちゃいましたけど、

 ――お気に召したのなら嬉しいですね、とても」

 そう言って、手元の包装紙をむやみに開いたり畳んだりしている。


 ヨハンナさんって上品な印象の人だから、ちょっと意外だったけど、本当にこの街が好きなんだろうな。

 クタクタになった包装紙を見て、そう思う。



いったん区切ります

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