3-2
この世界には、もう悪など存在しませんでした。
正義というものが存在しないのですから、正義だなんてものをだれも見たことがないのですから、悪など存在し得るはずもありませんでした。
そのことを知っている人すらごく僅かなほどに、正義とはかけ離れた場所に私たちは住んでいるのでしょう。
こんなところで、どうして、どうして私たちは悪となるのでしょうか。悪と呼ばれる理由なんて、もはやどこにもありませんでした。
もしかしたら、そういうわけではないのかもしれません。
本当になくなったのは、悪と呼ぶ権利のある人の方なのかもしれません。
だれに、だれかを悪と呼ぶことができましょうか。そんな人がいるとしたら、それこそ彼くらいのものではないかと私は思います。
ああもまで歪みの少ない人間というのはそうそういません。
そしてあそこまでいかなければ、独断で悪というものを生み出すことは、相当に難しいことではないでしょうか。
私にはそう思えるのですけれど、間違っていましょうか。
何を想っているのか、桜を見上げ微笑んでいる隣の彼を、悪と定める権利を持つ人間など存在しているはずがありませんでした。
そんなものがあるとしたら、すぐにでも削除してしまわなければならないと思われました。
悪と呼ばせるものといえば、それはきっとこの私でしょう。
非情などでは決してないのに、彼がそう呼ばれてしまうのは、全て私が指揮した戦が原因なのだとはわかります。
そこは反省していますけれど、だとしても、どうしてだれかが彼を悪と定められましょうか!
どうしたってそれが私には許せなくて、彼のように微笑むことができませんでした。
こんなにも私が熱くなることがあるだとは、今の今まで知りませんでした。
「桜や、お前のせいなのですか?」
実際に一人であっても愚かで恥ずかしいことを、明らかに隣で見ている人がいる前で、私はしてしまっておりました。
彼を信用しきっているのか知りませんけれど、私は桜に尋ねてしまっていたのです。
ゆっくりとこちらに視線を向けた彼は、戸惑っているだとか驚いているだとかもありそうだったけれど、その前の段階として、表情に浮かんでいるのは意外さというものであるように見えました。
なぜなら、明白な過去の私らしい私と、彼の目の前では見比べることができているように見えたからです。
こんな表情をされるとは思っていなかったから、もうどうしたらいいのかわかったものじゃありませんよ。
こちらが驚くことになるだとは思ってもおりませんでした。
これもそれも、どれもを桜のせいにしてしまいたいですよ。
そうしたら私は楽になれるような気がしました。少し前まで、桜に自らを重ねていたのだということを、既にすっかり忘れているのです。
そうして桜の色を、罪の色に染め変えてしまおうなんて企んでいるのでしょう。
いくらかピンクが赤に寄ったところで、だれも気が付きやしないように私には考えられるのです。興味を持って、いつでも桜を観察しているような人でなければ、気が付きやしないように考えられるのですよ。
美の影に隠れた罪は、美を怪しく彩って終わる、私が抱える罪よりはよっぽど有意義な罪に変わるのですよ。
桜や、お前のせいなのですか?
「正しいと信じて献じた策を、だれがなんと言えるものでしょう。戦自体が悪であるはずなのに、なぜ私の策は悪になるのでしょう。無策の猿どもは悪にはならないというのに!」
こんなことは言いたくなかったのに、熱くなった私は、それこそ猿どもに同化しているようでした。
「悪であるのは嫌か? 呼ばれたくないか?」
つまらない負けず嫌いではさすがに否定しきれなくて、こくりと頷きました。
悪意を持ってしたことではないのに、それを悪だと言われてしまうことは、いい心地がしないのに決まっておりました。
自分だけではなくて、信じた人までが悪と呼ばれなければならなくなっているのです。
嫌に決まっているではありませんか!
私を慰めるように、桜は枝を揺らしました。
「正義だと思われるために戦ってるのか? 民が幸せになってくれるなら、お前を含めて、俺を信じてくれてる人が幸せになってくれるなら、俺はどう思われたっていいよ」
胸に沁み入って、自分の汚れを示してくれるような彼の言葉に、私はゾッとしました。
背筋が一瞬で凍り付くような感覚です。
「本気ですか?」
訝しんだ私にも即答です。
「当然だ。そうでなくては、俺がここにいる意味がなくなる。信じる正しさもないのに、平和を乱すことができるものか。だからお前も自分が正しいと信じているなら、他人が言うことなんて気にするものではない。どうせ勝てば変わる程度の揺らいだ正義と悪なのだし」
私よりも彼の目は敏く、これでは何を信じる以前の問題として私がいる意味などないではないかと、この身を呪うほど彼を尊敬しました。




