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小宮探偵事務所の日常  作者: 蒼 小夜
第1話 見えない壁
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5


莉子の涙は、後から後から流れてくる。


まるでこの数日に溜め込んだ切なさを、全て出し切ってしまうかのように。


まひろは、黙ってティッシュの箱を莉子の前に置いた。


篠原が静かに立ち上がる。


やがて、給湯室から、お湯の沸く音が聞こえてきた。

ふわりと、紅茶の香りが応接スペースに届く。


莉子の涙がようやく止まる頃、篠原が湯気の立つティーカップを運んで来た。


「熱いので、ゆっくりどうぞ。」


莉子の前へそっと置く。


莉子は「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。


両手でカップにそっと触れる。

温かさが指先へ伝わり、莉子はふっと息をついた。


まひろは、その様子を見届けてから静かに口を開く。


「結衣ちゃんって。」


莉子が顔を上げる。


「どんな子?」


少し意外そうな表情を浮かべたあと、莉子は考える。


「……優しい子です。」


その答えはすぐ返ってきた。


「学級長で。」


ここにはいない友達の姿を思い浮かべているのか、莉子の目が少し遠くなる。


「責任感が強くて。忘れ物なんて、ほとんどしなくて。」


莉子は、ひとつずつ思い出すようにぽつりぽつりと話した。


「困ってる子がいたら、放っておけないし、先生にも、よく頼まれごとされてます。」


「優等生なのですね。」

篠原が言うと、莉子は誇らしげに頷いた。


それから、あ、と気づいたように。

「図書委員なんです。本が好きだから。」


莉子が少し微笑み、まひろもそれに合わせるように目を細めて頷く。


「そうなんだ。」


莉子は紅茶のカップを手に取る。

少し熱かったのか、ふうっと息を吹いた。


「だから……あの時忘れ物したのも、本当に珍しくて。」


まひろは小さく頷く。


「莉子ちゃん。」

「はい。」


「もし……その日、立場が逆だったら。」


まひろの言葉に、莉子が首をかしげる。


「例えば、結衣さんが、失敗した莉子さんの代わりに先生に叱られていたら、ということです。」


篠原が言葉を添えると、莉子は小さく頷いた。


まひろは続ける。


「そしたら、莉子ちゃんは、どう思った?」


莉子はきょとんとした表情を浮かべた。


「私、ですか。」

「うん。」


莉子は少し考えて、答えた。


「助けたいです。」


その声には迷いがなかった。


「だって、結衣が怒られるなんて、嫌です。」


言い切ってから、小さく息をつく。

「……かわいそうです。」


まひろは静かに頷いた。

「そうだね。」


莉子は紅茶へ目を落とす。


湯気がゆっくりと立ちのぼっていた。

その白い湯気をぼんやり眺めながら、小さくつぶやく。


「結衣は……」


少しだけ間が空く。


「すごくいい子なんです。結衣が先生に怒られるとこなんて、見たことないし。」


呟くような声で続ける。


「怒られたら、きっとすごく怖いだろうなって、思って…。」


言葉が、少しずつゆっくりになる。


「だから……。」


続けようとしたが、そのまま考えに沈むように黙ってしまう。


静かな部屋に、水槽の水音だけが響く。


「莉子さん。」

篠原が遠慮がちに呼びかけた。


「結衣さんには、その時の気持ちを聞きましたか?」


莉子は小さく目を見開いた。


「……あ。」

その声は、ほとんど息だった。


「もしかして……。」


一瞬の沈黙。


「結衣も……嫌、だった?」


まひろは答えなかった。

ただ、静かに莉子を見つめる。


莉子は自分の言葉を確かめるように、もう一度つぶやく。


「私が、怒られたの……嫌だったのかな。」


一瞬、苦しそうに顔を歪めて、

「でも、だったら、どうしてあんな……?」


それきり、また考え込んでしまう。


しばらくの間、誰も口を開かなかった。


やがて、まひろが穏やかな声で尋ねた。

「莉子ちゃん。……結衣ちゃん、何か、言おうとしてなかった?」


莉子が顔を上げて、少しだけ目を見開く。


「……。」


そして、記憶をたどるように、ゆっくり目を伏せる。


「そう言えば、その日の帰り、結衣に呼び止められたんです。でも……」


少しだけ眉を寄せて。


「私……そのまま帰っちゃって。」


唇をきゅっと結ぶ。


「あんなこと言われて。びっくりして、悲しくて……それ以上、話したくなくて。」


まひろは静かに頷く。


莉子は紅茶へ目を落とした。

湯気は、さっきより少しだけ穏やかになっている。


まひろが、つぶやくように言った。


「結衣ちゃんの本当の気持ちは……結衣ちゃんにしか分からない。」


莉子は顔を上げる。


まひろは、もう空になってしまったコーヒーカップを見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「私にも、篠原にも、想像はできる。でも……」


莉子とまひろの目が、合った。


「本当のことは…結衣ちゃんだけが知ってる。」


その言葉は、莉子の胸へ静かに落ちていった。


しばらく黙っていた莉子が、小さく息を吸う。


「……聞いても。」

独り言のように、呟く。

「聞いても、いいのかな。」


まひろは優しく微笑んだ。

「莉子ちゃんは……結衣ちゃんと、もう一度笑いたいんだよね?」


莉子はゆっくり頷く。


涙はもう流れていなかった。


「……はい。」


その返事は、小さかった。


けれど、それは静かな事務所にはっきりと響いた。





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