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小宮探偵事務所の日常  作者: 蒼 小夜
第1話 見えない壁
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4


世間話を少しした後、美智子が「よっこらせ」と立ち上がる。


「じゃあ、おばあちゃん、下の不動産屋さんで待ってるね。」


莉子は不安そうな顔を上げる。


「終わったら迎えに来るから。相談、するんでしょう?」

「……うん。」


美智子は笑顔のまま頷くと、まひろと篠原へぺこりとお辞儀をして、静かに事務所を出ていった。


扉が閉まる。


事務所に、水槽のフィルターが水を循環させる音だけが残った。


篠原が、おばあちゃんの使った湯呑みを持って給湯室へ入っていった。


莉子はオレンジジュースへ目を落としたまま、ストローを指先でそっと回す。

氷が小さく鳴った。


しばらくして、まひろが窓際の水槽を眺めたまま小さくつぶやく。


「……おばあちゃん、優しいね。」


莉子が顔を上げて、小さく頷く。


「……はい。」


少し間があって。


「大好き。」


小さく、けれどはっきりした声だった。


まひろは、その言葉に頬を緩めて頷いた。

「うん。莉子ちゃんのこと、すごく心配してた。」


莉子はストローへ目を戻した。


そしてきゅっと口を結ぶと、まひろを見た。


「だから来ました。」


まひろは小さく頷いた。


「続き、聞いてもいい?」

「はい。」


そう答えたものの、莉子はまた視線を落として何も言わない。しばらく眉を寄せて考えた後、ぽつりと言った。


「……何から話せば、いいですか。」


まひろは首を横に振る。

「順番じゃなくていいよ。」


コーヒーカップに手を伸ばしながら、静かに言う。


「思い出したところから。話せるところだけでいい。」


莉子は小さく頷く。


オレンジジュースを一口飲む。

コップをテーブルに戻し、もう一度ストローを見つめる。

氷が静かに揺れた。


「……おばあちゃんに。」


考えながら話し始める。


「話を聞いてもらっておいでって言われました。」


少しだけ間が空く。


「小宮さんは、迷子の心と、一緒に歩いてくれる人だからって。」


まひろは少し照れたように笑った。


「そんなふうに言ってくれたんだ。」


戻ってきた篠原が、ソファの横で膝をついて莉子に話しかけた。


「私も、一緒にお話を聞いてもよろしいですか。」


莉子は篠原を見る。


少し考えてから、小さく頷いた。


「……はい。」

「ありがとうございます。」


篠原はそれだけ言うと、一人掛けソファに座り、静かにノートを膝の上へ置いた。

けれど、開こうとはしなかった。


莉子はその様子を見て、少しだけ肩の力を抜いたが、また黙ってしまった。


部屋に水槽の水音が小さく響いている。


「それで……莉子ちゃんが今、困ってることって何かな?」


まひろがそう言って、カップを皿に戻す。


その手をなんとなく目で追って、莉子はつぶやいた。


「…思い出せるところから…」


そして、小さく息を吸って、顔を上げた。


「……友達のこと、なんです。結衣っていうんですけど。」

「うん。」


まひろは、頷いた。


莉子は膝の上で両手を握りしめる。

少しだけ迷うように視線を落としてから、ぽつりと口を開いた。


「……この前、結衣に言われたんです。」


一瞬、言葉が止まる。


「『あんなこと、しなくてもよかったのに』って。」


部屋が静かになる。


莉子は小さく息をついた。


「……意味が、分からなくて。」


つぶやくように続ける。


「私、助けたかっただけなんです。」


まひろは静かに頷いた。

「そうなんだね。」


莉子は小さく頷いて、ゆっくりと言葉を続ける。


「その日、係の仕事があって。結衣が、持ってこなきゃいけない物を忘れちゃって。それで、先生に聞かれて……。」


莉子は少しだけ目を伏せる。


「このままだと結衣が怒られるって思ったんです。だから…『私が持ってくるのを忘れました』って言ったんです。」


そこまで話して、口を閉じた。


時計の針がかちりと音を立てて動いた。


篠原はノートへ手を添えたまま、開こうとはしない。


莉子は自分の手元を見つめながら、小さく続けた。


「私は先生に怒られちゃいましたけど。でも、それでよかったんです。結衣は怒られませんでしたし。」


そこで一旦息をつく。


「でも。」


声が震える。


「放課後になって。」


莉子は目を閉じた。


「『あんなこと、しなくてもよかったのに』って。」


少しだけ唇を噛む。絞り出すように続ける。


「……『助けて欲しいなんて言ってない』って、言われました。」


莉子は首を小さく振る。


「私…結衣を守ってあげたのに。どうして結衣にそんなことを言われなくちゃいけなかったのか、分からないんです。」


また部屋に沈黙が落ちる。


しばらくして、まひろが口を開いた。


「莉子ちゃん。」


莉子が顔を上げる。


「それは、何日か前のお話なんだよね?」

「はい。」


「今は、結衣ちゃんと話せてるの?」


莉子が少しだけ戸惑ったような顔をした。


「……今。」

その言葉を口の中で転がすように繰り返す。


「…学校では、普通に話すんです。」


ぽつりぽつりと、思い出すように続ける。


「おはようって言って。授業も一緒に受けて。…帰りも、一緒に帰るんです。」

少し笑おうとして、笑えなかった。


「でも。」

その一言だけで、声が少し震えた。


「前みたいじゃ、ないんです。…話してるのに。…笑ってるのに。…なんか……。」


莉子は言葉を探すように、膝の上で指を組み直した。


「遠くて。」


目に涙がにじむ。


「前は、そんなことなかったのに。何を話したらいいのか。どうしたら、前みたいに笑えるのか。……分からないんです。結衣のために何かしてあげたいことがあっても、またあんなこと言われたらって考えちゃって。」


ぽろり、と一粒だけ涙が落ちた。

莉子は慌てて指で拭う。


「結衣には……」

莉子は少しだけ息を止めた。眉にぎゅっと力を入れて、言葉を紡ぐ。


「私なんて……必要じゃないのかなって。はっきり言われたわけじゃ、ないですけど……でも、結衣と一緒にいたいのに、一緒にいると苦しいんです。」


膝の上に置いた手を、ぎゅっと握る。


「私……。」


莉子は勇気を振り絞るように顔を上げる。

まひろと目が合う。

「…どうしたら、いいんでしょう。」


まひろは少し考えて首をかしげた。


「…莉子ちゃんは、どうしたい?」


その言葉に、莉子の目が揺れた。

答えようとして、言葉が出ない。

何度も口を開きかけては閉じる。


膝の上で握った手に、ぽたりと涙が落ちた。


長い沈黙のあと。

やっと、小さく声になる。


「……前みたいに。」


涙があふれる。


「笑いたい。結衣と、一緒に。」



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