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誠人が篠原と共に外へ出て行ったあと。
まひろは、コートとマフラーを掛け、鞄を置いてリビングのソファに身体を沈めた。
父と篠原は、どんな話をしているのだろうか。
なんとなく、左手を見る。
もうあの手のぬくもりは残っていない。
ため息をついた時、ふと、母の写真が目に入った。
「香織ちゃんが亡くなってからのあいつは見てられなかったよ」と言った、マスターの声を思い出す。
まひろの母が亡くなったのは、8年前、まひろが高校2年のクリスマスの日だった。
あの日、「買い忘れたものがある」と夕方ひとりで外出した母は、そのまま帰らぬ人となった。
もちろん、まひろはそんな現実を受け入れたくはなかったし、1週間は泣き暮らしたし、家に入れば母の面影だらけで一人ではいられず、学校帰りには毎日探偵事務所に通っていたものだった。
ただし、その理由は父には言わず、「暇だから」と強がってはいたが。
しかし、そんなまひろを、父は快く事務所に迎え入れてくれていた。
母がいた時と同じように、いつも陽気で、オヤジギャグを飛ばし、よく喋ってうるさいくらいだった。
その父が、毎晩、泣き明かしていた……?
いや、今ならわかる。
まひろの前でもイチャイチャするほど仲が良かった夫婦だ。母を失って、平気でなんていられるはずはない。
当時の自分は、周りを気遣う余裕なんてなかった。
父も自分と同じように、いや、もしかしたら自分以上に、悲しかったのかもしれないのに。
それでも、まひろに笑顔を見せていた理由は。
「わたしの、ため?」
思わず小さく声に出すと、まひろは、ぐっと胸を押さえた。
マスターは「十分耐えたんだ。」と言った。
何に?
香織を失った悲しみに。
香織を奪った相手への憎しみに。
香織のいない世界の虚しさに。
「……!」
まひろは目を閉じて、胸を押さえた右手をぐっと握った。
父への申し訳なさと、話してくれなかった怒りと、感謝で胸が痛かった。
父と、無性に話がしたかった。
◇
誠人は、帰ってくると開口一番、「寒かった……!」と、ファンヒーターの前を陣取った。
「ちくしょう……慧のやつ、覚えてろよ…。」
と文句を言いながら手を擦り合わせる姿を見て、まひろは苦笑した。
熱いコーヒーを入れて、ダイニングテーブルに置く。
「お父さん、コーヒー。」
声をかけると、誠人は「お、ありがたい!」と嬉しそうにテーブルにつき、ひとくち啜って、ほうっと息をついた。
まひろも自分の分を入れて、向かい側に座る。
「……どんな話だった?」
いろいろ考えていたのに、結局直球になってしまって、まひろは心の中で頭を抱えた。
けれど、誠人はいつもの口調で、
「ん?ああ、『ちゃんと話せ』って言われた。」
と、何でもないことのように言った。
「でもなあ、そう言われてもなあ。何から話せばいいんだか…。」
それきり黙ってしまった誠人に、まひろは聞いてみた。
「お父さん、なんで帰ってきたの?」
誠人は困ったように笑った。
「それ、その聞き方、何とかならんか。」
まひろはもう少し考えて聞いた。
「クリスマス、去年もその前も帰って来なかった。どうして、今年は帰ってきたの?」
「そりゃあ、仕事が忙しくて……いや違うな。」
誠人は言いかけて、首を振った。
「自分で忙しくしてたんだよ。帰らなくてもいいようにな。」
「帰りたくなかった?」
まひろが囁くように聞くと、誠人は素直に頷いた。
「そうだな。帰りたくなかった。」
「どうして?」
リズム良く受け答えしていた誠人の返答が一瞬遅れた。
「この街には、思い出が多すぎるからな。」
誠人は、コーヒーをまたひとくちすすった。
まひろもコーヒーをすすった。
熱い液体が、腹の中に流れ込む。その温かさが勇気をくれる。
「じゃあ、今年は、どうして?」
誠人は、そこではじめて眉間に皺を寄せた。
「うん、そうだな……。そろそろいいかと、思ったんだ。」
まひろは何も言わず、次の言葉を待っている。
「この街を離れれば、この苦しさから少しは開放されると思ったんだ。」
誠人は、じっとカップを見つめて話す。
「でも、それは間違いだった。3年間離れてみても、苦しさは変わらなかった。結局、ここから逃げたって、あいつがいないっていう事実も、事故への怒りも、消えなかった。」
ため息をひとつついて、続ける。
「……それどころか、逃げ続けている自分に、嫌気がさすようになっちまってな。」
まひろをちらりと見る。
「事務所も、お前に預けっぱなしだ。慧をつけたとはいえ、心配だったしな。」
「仕事、ちゃんとやってる。」
まひろがむっとして言う。
「そうみたいだな。」
誠人の目が、優しく細められる。
「お前はよくやってる。」
あまり素直に褒められたので、まひろは目を瞬かせた。一瞬遅れて頬にさっと赤みがさした。
誠人はくくっと笑って、それから、ふっと真面目な顔になった。
「……悪かった。」
「え?」
「お前を、置いて行っちまった。」
まひろは、ぽかんと口を開けて誠人の顔を見たが、すぐにふるふると首を振った。
「置いていくなら、すぐにでもできたでしょ。でも、5年間もここにいた。どうして?」
「すぐに置いていくとかはないだろ。お前まだ子どもだったし。一人で家にもいられないようなのを、残しては行けんだろ。」
誠人は、「何を当たり前のことを」と笑ったが、まひろは、泣きそうな顔をした。
「私のため、だったの?」
誠人は手を伸ばして、まひろの頭にぽんぽんと乗せた。
「いいんだよ。そんなの。」
まひろの目から、ぽろりと雫が転がる。
まひろは、またふるふると首を振った。
「だって、お父さんも苦しかったのに……。私、なんにも、知らないで……。」
「だから、いいんだって。」
誠人はまひろの頭を撫でた。
「お前は何も知らなくてよかったんだよ。お前は子どもで、俺は親だったんだから。……でも。」
誠人は一度言葉を切った。まひろの頭から手を離して、ゆっくり引っこめる。
「それは、お前に何も話さなくていい理由にはならなかった。」
軽く腕を組んで、ため息をつく。
「本当はな、お前が成人した時に話しても良かったんだ。ここを出る前だって、話そうと思えば話せた。」
まひろは、目をごしごしと擦った。
小さく頷く。
「……話して欲しかった。」
「うん、そうだよな。」
誠人は自嘲的な笑みを浮かべたが、すっと真顔に戻ると、まひろを見た。
「きっとさ、俺は、お前の前では『父親』でいたかったんだよ。」
まひろが首を傾げる。
「お父さんはお父さんでしょ。」
誠人は、眉を寄せた。
「そういうことじゃねぇよ。……つまりさ……あ〜、その、メソメソしてる父親なんて、かっこ悪いじゃねえか。」
「……そう?」
「そうなの!」
誠人は、仏頂面で言ってから、すぐに苦笑いした。
「なんか、その反応見てると、悩んでた自分が馬鹿みたいに思えるな。」
まひろは目を瞬かせたあと、少し考える表情をしてから、口を開いた。
「お父さんだって人間だし。泣きたい時だってあるんじゃない?」
誠人が、驚いたようにまひろを見る。
しかし、その視線は、すぐにふっと逸らされた。
「……こんな情けない父親でいいのか?」
「情けなくないでしょ。私を守ってくれてたんだもの。」
まひろは、誠人を見て、微笑む。
「……お父さん。」
呼ばれて、誠人が顔をあげる。
母親によく似た、まひろの柔らかい瞳の色から、目が離せなくなる。
「お父さんが帰ってきてくれて、よかった。」
誠人は、息をのんだ。
けれど、一度目を閉じ、やがてゆっくりと目を開けると、
「そっか。……じゃあ、帰ってきてよかったな。」
少し照れたように笑った。
◇
その後、まひろは風呂に入り「おやすみ」を言って一旦部屋に入ったが、なかなか寝付けなかった。
ホットミルクでも飲もうかと、部屋を出た時、リビングの扉から光が漏れていることに気づいた。
「……?」
少しだけ開けて、そっと中を覗くと、ソファに座っている誠人の横顔が見えた。
リビングテーブルには、母の写真。
琥珀色の液体が入ったグラスが2つ。
「……また、まひろに甘えちまったな……」
独り言のように呟いて、グラスを手に取る。
「なあ、香織。」
グラスをカランと回して、一口飲み、ふっと優しい顔をした。
「あいつ、お前にそっくりだよ。」
「……。」
まひろは、なんだかやさしい気持ちになって、そっと扉を閉じた。




