5
まひろの家は、つむぎ橋を渡った先の住宅街を、10分程歩いた先のマンションだ。
この辺りで他に似たマンションはないので、すぐに分かる。
篠原は、エレベーターまでまひろを連れていくと、左手で持っていた鞄を床に下ろしてボタンを押した。
ふたりは、歩き始めてから、ずっと黙ったままだった。
手を繋いだまま、まひろの家の前に立つ。
篠原が、そっとまひろを振り返った。
まひろは、足元を見つめている。
「まひろさん?」
小さく呼ぶと、まひろはのろのろと目をあげた。
「私……どうしたらいい?」
篠原は、少し考えるように視線をそらしてから、またまひろを見た。
「まだ、知らなかったことにもできます。でも、先生の本当の気持ちを知りたければ…話をするべきだと思います。」
まひろは頷いた。
「私、知らなかった。お父さんが苦しんでたこと。……だけど、知っちゃったから。」
まひろの繋がれた手に力が入る。
「もう、このままにはできない。」
けれど、その手はすぐに力を失った。
「……でも、何を話したらいい?」
篠原は、それには答えず、まひろの手をきゅっと握り直した。
そして、ゆっくりとその手を離した。
冷たい空気がまひろの手を撫でる。
「私が先に、先生と話してみてもいいですか?」
「どうして?」
まひろが首を傾げる。
篠原は、玄関の扉に向き直って言った。
「私にも、言いたいことができたので。」
いつもの穏やかな声。けれど、その目は鋭く、扉の向こうを見つめていた。
◇
篠原が玄関の呼び鈴を押すと、部屋着の誠人がドアを開けて驚いた顔をした。
「慧……!? 」
「夜分にすみません、先生。」
「お、おう。」
落ち着き払った篠原の態度に、気圧されたように返事をする。
その目が、篠原の後ろに隠れるように立っているまひろを見つけた。
「……ああ、まひろを送ってきてくれたのか。遅いから、迎えに行こうかと思ってたんだけどな。悪かったなあ。」
誠人はそう言って篠原に笑いかけたが、篠原は「いえ」と一言だけ言って、まひろに道を開けた。
まひろは、「ただいま」と誠人の方を見ずに言って、家の中へ入って行った。
「おかえり……?」
誠人は様子のおかしいまひろに目を瞬かせた。
そんな誠人に、篠原が声をかけた。
「先生。」
「ん?」
まひろを目で追っていた誠人が、振り返る。
篠原は、まっすぐ誠人を見ていた。
「……お話したいことがあります。ちょっと、出られますか?」
誠人は、部屋着の上に丈の長いダウンコートを着込んで出てきた。
誠人は玄関から出た後に「寒っ」と言ったきり、何も言わない。
エレベーターの中でも、マンションから出たあとも、二人は無言だった。
マンションの隣にある公園には誰もいない。
夜の闇に溶け込みそうな遊具を、青白い街灯が冷たく照らしていた。
誠人は、街灯の下のベンチの端に浅く腰掛けた。
膝に腕を軽くかけて、手を前に垂らしている。
篠原は、その3歩手前で立ち止まった。
誠人が篠原を見上げる。
「座れよ。」
少し躊躇ったあと、篠原は誠人が座っているベンチの逆の端に腰掛けた。
しばらく二人とも、話さなかった。
遠くで、電車が走る音が聞こえる。
「話が、あるんだろう?」
前を向いたまま、誠人が切り出す。
篠原も前を向いたまま、深く息を吸った。
白い息を吐き出して、告げる。
「まひろさんが、困っています。」
「……うん。」
「先生が、変わってしまったと、感じています。」
誠人は、はっと短く笑った。
「俺は何も変わってねぇよ。」
「……そうですか。」
篠原は静かにそれを受け止めた上で、尋ねた。
「では、まひろさんが抱いた違和感は、なんなのでしょうか。」
誠人は、答えない。
篠原は、誠人を目だけで見た。
誠人は先程と同じ姿勢で、動かない。
「まひろさんは、先生がなにかを隠していると思っているようです。」
「……何も、隠すような事なんて」
「先生が今も苦しんでいることを!」
誠人は反論しようとしたが、篠原の珍しく強い口調に遮られる。
篠原は、はっと気が付いたようにいつものトーンに戻って続けた。
「……まひろさんは知りませんでした。」
「……。」
篠原は、足元を見つめた。
「でも、今日知ってしまったんです。」
そこで言葉を切る。
誠人はややあって、「そうか」とだけ答えた。
「先生、私は……先生が話したくないことまで話す必要は、ないと思います。」
誠人は黙って聞いている。
「ただ……話せることは、話してあげてください。」
誠人はゆっくりと息を吐き出した。
「あいつは……なんか言ってたか?」
「知ってしまったから、このままにはできないと。」
「……どういうことだ。」
「そこまでは。ただ、なんとなくですが……。」
篠原は、顔を上げた。キンと冷えた冬の夜空に星が瞬いている。
「まひろさんは、先生を責めたいわけではないような気がします。」
誠人は片方の口の端を上げた。
「なんとなく、か。お前にしては珍しいじゃねぇか。」
「そうかもしれません。」
篠原も、少し口元を緩める。
それから、小さく息をついて立ち上がると、「先生」と誠人に向き直った。
「まひろさんは、もう守られるだけの子どもではないと、私は思います。」
誠人が篠原を見上げる。
二人の視線が交差する。
やがて、誠人は諦めたように軽く首を振ると、立ち上がった。
「仕方ねぇなあ……お前にそこまで言われちゃあな。」
そして、空を仰ぐと、白い息をふうっと吐き出して、元来た道をゆっくりと歩き始めた。
篠原は、しばらく心配そうにそれを見送っていたが、ふと腕時計を見ると、足早に駅へと向かい始めた。
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