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その日の夜。
まひろと篠原は、向かいの喫茶店の扉を開けた。
ランチタイムに、まひろが「話したい」と切り出したところ、マスターが「今日は早めに店を閉めるよ」と、気を遣ってくれたからだ。
ベルの音とともに二人が店内に入ると、マスターはカウンター席に飲みかけのグラスを置いて待っていた。
「いらっしゃい。」
二人に穏やかな笑顔を向ける。
「二人で来たのか。じゃあ、こちらを使おう。」
そう言って二人をテーブル席へと案内した。
二人が並んで椅子に座ると、マスターは「ちょっと待ってな」と言ってカウンターの奥へ引っ込み、しばらくして湯気が上がるカップを二つ持って来た。
「今日は、特別だ。」
マスターが置いたカップの中には、ミルクココアが入っていた。
二人が礼を言うと、マスターは満足そうに頷いて、まひろの向かいに座った。
「それで、何が話したいんだ?」
まひろは、少し視線をさまよわせた後に、伏し目がちに言った。
「…お父さんのこと。」
マスターは「うん」と頷いた後で、ちらりと篠原に目を向け、またまひろを見た。
「篠原くんにも、聞かせていいのかい?」
まひろは、こくんと頷いた。
「…ここに、いてほしい。」
マスターは「そうか」と言うと、ふうっと息をついた。
「それで?誠人の何が知りたい?」
まひろは、少しためらった後に顔を上げた。
「昨日の夜、何を話したの?」
マスターは、ふっと口元を緩めた。
「昨日か?…昔の話を、ちょっとな。聞いても面白くないぞ?」
まひろは眉を下げた。
「でも、お父さん、帰ってきた後 変だった。夕方、ここを出る時も。」
「…そうか。でもなあ…。」
マスターは顎に手を当てた。
「俺から話していいもんかどうか。……本人から聞いた方が、いいんじゃないか?」
「先生が、話すと思いますか?」
篠原が間に入る。
「……いや、思わないね。」
「差し支えない範囲でいいので、お話していただけませんか。」
篠原は続ける。
「…先生の力に、なれるかもしれません。」
マスターはまひろを見た。
不安そうな目。けれど、その奥に芯を感じる。
マスターはしばらく迷っているようだったが、やがて両手を軽く上げた。
「わかった、わかった。ほんと、お父さん思いのいい子だなぁ。」
そして、テーブルに両肘をつくと、組んだ手の上に顎を乗せて、小さくため息をついた。
「あいつは…。」
少し言葉を探すように何度か口を開いては閉じて、続けた。
「自分のことを…『逃げ出した卑怯者だ』って言ってたよ。」
「え……?」
どきん、と心臓の音が聞こえた気がして、まひろはぎゅっと自分の胸を押さえた。
「逃げ出す」「卑怯者」
どちらも、誠人には似つかわしくない言葉だ。
「逃げ出した?先生が?」
聞き返した篠原に、マスターは軽く頷いた。
「俺は、そうは思わないけどな。」
「何故ですか?」
篠原が尋ねると、マスターは当然のことのように言った。
「篠原くんも知ってるだろう?香織ちゃんを事故で亡くしてから5年間、あいつはまひろちゃんをひとりで育てきった。」
篠原が黙って頷く。
「その後で海外へ出たんだ。逃げたなんて、思えないね。」
まひろも大きく頷く。
「それに、その頃は篠原くんも、だいぶ仕事を覚えてきてただろう?だから、あいつも安心してここを離れられたんだろうな。」
マスターが篠原を見る。
篠原は表情を変えずに少し首を傾げる。
「……そこは買いかぶりすぎだと思いますが。」
「いやいや」とマスターは少しだけ笑った。
「あいつは篠原くんのことを随分買ってるよ。でなきゃ、可愛い一人娘を任せてなんて行かないだろう?」
納得いかない顔をしている篠原。
マスターは「それはさておき」とまひろに向き直った。
「さっきの『逃げた』って話な。あいつは、『俺はこの街から、香織の面影から逃げたんだ』って話してたよ。」
「面影……?」
篠原がまひろをちらりと見る。
マスターは首を降った。
「いや、まひろちゃんはどっちかと言うと誠人似だからな。多分、何を見ても香織ちゃんのことを思い出して辛かったんだろうな。」
マスターは、グラスをちょっと持ち上げて、カランと回した。
「香織ちゃんを亡くしてからのあいつは、見てられなかったよ。毎晩、ここに来ちゃあ泣き明かしてた。『どこにいても、何をしてても、香織のことを思い出す。自分もあいつのところに行きたい』ってなあ。」
「え……?」
まひろの声が震えた。
「だって、お父さん、いつも笑って……。」
「まひろちゃん。」
マスターは寂しげに眉を下げた。
「親っていうのはさ、子どもに弱い所を見せたくないんだよ。」
まひろはきゅっと口を結んだ。
「だからさ、俺から見れば、あいつは十分耐えたんだ。あいつ自身がなんて言おうと、海外へ行ってたこの3年間は、あいつにとって必要な時間だった。俺はそう思う。」
マスターはそう言ってグラスの水を飲む。
グラスを置く音が、やけに大きく聞こえた。
「では、先生が帰ってこなかったのは……。」
ややあって、篠原が口を開くと、マスターは頷いた。
「帰らなかったんじゃない。帰れなかったんだ。」
「帰れなかった……。」
まひろは、ココアを見つめながら眉を寄せた。考えながら、つぶやく。
「じゃあ、なんで、今?」
それを聞くと、マスターはため息混じりに言った。
「なんでだろうなあ…ただ、吹っ切れたようには、見えなかったな。」
篠原が、頷く。
「……飲酒運転の事故に巻き込まれた、と聞いています。そう簡単に心の整理がつくものではないでしょう。」
まひろが驚いたように隣の篠原を見る。
「知ってるの?」
「ええ、まあ。」
篠原は軽く答えたが、マスターも「そこまで知ってるのか」と驚いているようだった。
けれど、「いやそうじゃなくて」と首を振る。
「あいつ……多分だけど、自分自身のことも責めてるように見えた。昨日な、『まひろにも甘えてばかりだ』って言ってたんだ。」
「え……?」
「どういうことですか?」
怪訝そうなふたりに、マスターはちょっと苦い顔をした。
「ああ、悪い、そこは聞かなかったことにしてくれ。言わない約束なんだ。」
そして、話は終わりとばかりに立ち上がった。
そう言われては仕方ない。
ぬるくなってしまったココアを飲んで、ふたりは喫茶店を出た。
「遅くなってしまいましたね。」
篠原が腕時計を見て言う。
「うん……ごめん。」
まひろがマフラーに顔を半分埋めて言うと、篠原は首を振った。
「大丈夫です。今日はこのまま帰りますか?」
まひろは下を向いた。
正直、今は誠人に会ったら何を話していいか分からない。
けれど、家には帰らなければならない。
まひろは黙っている。
篠原はしばらく星の浮かぶ冷たい夜空を見上げていたが、やがてつむぎ橋の方へ足を向けた。
「……送りますよ。」
「でも。」
まだ動けないでいるまひろを、3歩先で振り返る。
「他に泊まるところもないでしょう?」
「う……。」
篠原はそんなまひろをじっと見ていたが、やがて、つっと眼鏡を押し上げると、まひろの前に戻ってきた。
「ほら。」
右手を差し出す。
「帰りましょう?」
「……。」
まひろは差し出された手を見て、目を上げた。
篠原は、ちょっと困ったような、けれどいつもの穏やかな顔をしていた。
まひろは、もう一度篠原の手に目を落とす。
「……うん。」
その上にそっと、左手を乗せる。
その手がきゅっと握られ、引かれた。
歩き出す。
冷たい風が、頬を撫でて行った。
けれど、その手から伝わる温かさは、たしかにまひろの足を前へと進めていた。
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